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西都原古墳群 2000.9.15(金)


	【西都原古墳群 】
	
	宮崎県西都(さいと)市 にある「西都原古墳群」は、大きく3つの古墳群に分かれた広大な古代の奥津城(おくつき:墓場)
	である。市街西方の東西2.6Km、南北4.2Kmにおよぶ広大な台地上には、4〜7世紀に造られた大小300余りの古墳が点在し
	ている。その大部分は小さな円墳からなり、直径1〜2mから4〜5mのものが大部分を占めているが、勿論前方後円墳や方墳など、
	我が国で知られている古墳の形式としては、山陰の四隅突出型古墳を除き、全てある。現在までに判明している古墳の数は、
	前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基、地下式横穴墓11基、横穴墓12基となっている。

	西都原古墳群の中で最大のものは、天孫「ニニギの尊」の御陵といわれている全長219mの巨大な前方後円墳(学会では帆
	立貝形古墳もしくは円墳とする説が有力)である男狭穂塚(おさほづか)と、「ニニギの尊」のお妃である木花開耶姫(コノ
	ハナノサクヤヒメ)の墓と言われる、同じく前方後円墳、女狭穂塚(めさほづか:全長174m)である。現在この二つの古
	墳は「陵墓参考地」に指定され、宮内庁の管轄下に置かれており一般人が立ち入ることはできない、うっそうとした森である。
	女狭穂塚の前方部が、男狭穂塚の前方部に食い込んだような形で築造されている。

	この他、この古墳群には我が国でもここでしか出土していない「子持ち家型埴輪」を持った「169号墳」や、西都原古墳群
	の中では唯一横穴式石室を有する、6世紀後半〜7世紀始めに築造された鬼の窟(おにのいわや)古墳などがあり、我が国の
	古墳文化を考える上では貴重な古墳群である。また日本神話に言う「日向の国」をこの古墳群と対比させてその実証を試みる
	論考も多い。
	現在この古墳群は、文化庁の風土記の丘施策に則って、我が国第一号の「西都原風土記の丘」として国の特別史跡公園に指定
	されており、公園内には「西都原資料館」や「古代生活体験館」、再現された古墳時代の住居などがあり、古代の雰囲気にど
	っぷり浸れるようになっている。





 








	この古墳は、西都原古墳群の中では最も新しい部類に属し、6世紀後半から7世紀にかけての築造と考えられている。この古
	墳群唯一の横穴式石室を持った古墳である。近畿で盛んに横穴式石室を持った古墳が築造されるのと呼応してここにも築造さ
	れていることから、大和朝廷との結びつきが強調されるが、その反対、つまりここから近畿へ行ったとは考えられないのだろ
	うか、などと素人の私などは考えてしまう。



 

 

 

 

 







 

 








	造りは、この頃まで日本の田舎にあった小屋などと同じような感じである。古墳時代にこんなしっかりした家屋をほんとに造
	れたのだろうか、と思う。一緒に行ったMENBERの殆どが同意見であった。もしほんとなら、日本の木造建築の技術は、一般家
	屋においては近世になるまでほとんど進歩していないのではないかと思われる。ほんまかなぁ。

 


	ここではまず、4〜5世紀の初めに台地の東側下の集落を見下ろす台地縁(標高60m)に、墳長30m〜90m級の前方後
	円墳が次々に造られる。13号墳は墳長80mの前方後円墳で、内部主体の粘土槨からは国産の三角縁神獣鏡が出土している。
	5世紀前半〜中頃になると、男狭穂塚、女狭穂塚という巨大古墳を造るために必要な土量を得るため、標高70mの山際に墓
	域を移動する。

	5世紀後半になると、甲冑を副葬した4号地下式横穴墓に代表されるような、この地方(南九州一帯)独特の墓制が出現する。
	女狭穂塚以後は、この台地上には前方後円墳は造られていない。宮崎県内の他の地方(新田原古墳群など)に墓域が拡大して
	いく。ようやく6世紀後半になって、202号墳、205号墳という墳長50〜60mの前方後円墳が造られる。「鬼の窟古
	墳」は、この古墳群最後の首長墓と見られ、6世紀後半〜7世紀初めの古墳で、ここで唯一横穴式石室を有している。7世紀
	前半には酒元の上横穴墓群が出現する。

	見てきたように、西都原古墳群は日向の古墳群の中にあって、古墳時代の核とも言える古墳群の一つであって、前方後円墳、
	鏡、埴輪、甲冑、横穴式石室などに強く大和王権との政治的な関係がうかがえる。また古墳時代以後もここには(台地上に)
	国府・国分寺・国分尼寺が置かれ、日向における古代政治の中心地ともなっていくのである。何らかの史実の裏付けがこの推
	移をもたらしたのだとすれば、この展開は大和王朝の「先祖帰り」と考えられなくもない。

 

 






	発掘された古墳の幾つかを、出土時のままに保存してある。上から覆いをかけて雨露をしのぎ、保存剤で固めていつでも見学
	できるようにしてあるのだ。
	色っぽい中年のオバサンが一人、受付で説明書を配っていた。女性と見れば声をかける「 xxxさん」は「いつも一人?寂しく
	ない?」とか話しかけている。

 



 

 

レプリカだろうが人骨や土器類も発掘当時のままに展示してある。

 

 








	天照大神の孫で、高天原から初めて地上に降りてきた「ににぎの尊」とその后(きさき)である「このはなのさくや姫」の陵
	墓とされる。この古墳群の中ではともに最大の大きさを持ち、しかも寄り添うように築造されているのでそう比定されたのだ
	ろう。5世紀前半から中頃にかけての築造と推定され、男狭穂塚古墳の方が先に造られている。紀元前600年に生まれたと
	いう「神武天皇」の祖父さんの墓が、5世紀に造られているのだ。皇国史観はまさしく矛盾の上に成り立っていた。
	男狭穂塚は墳長154m、主丘部径132m、同高さ19mで、全国でも最大級の帆立貝形古墳または造出し付円墳とされて
	いるが、私は女狭穂塚古墳と同じ前方後円墳のような気がする。しかしそうすると、女狭穂塚古墳の築造時に男狭穂塚古墳の
	前方部をぶっ壊して造ったことになり、どうしてそんな事をしたのかという説明がつかない。「ににぎのみこと」「このはな
	のさくやひめ」陵だとすれば尚更である。
	女狭穂塚古墳は墳長176m、後円部径96m、同高さ14mで、九州最大の前方後円墳で、堺の「履中天皇陵古墳」「仲津
	媛陵古墳」との類似性が指摘されている。畿内とほぼ同一の埴輪も出土している。
	「ににぎの尊」の孫「かむやまといわれびこの尊」がここから東征し、やがて奈良に大和王権をうち立て、橿原に都を定める。
	そして初代神武天皇となる。神話上はここが日本の「天皇家発祥の地」なのである。その故事に基づき、この二つの古墳は例
	によって「宮内庁陵墓参考地」である。

 




	事務所にいたおじさんが西都原古墳群について色々と解説してくれる。さすがに地元だけあって詳しい。畿内の古墳について
	もよく知っていた。今回の旅では、この後も色んなところでずいぶん地元の人から説明を聞く事が出来て良かった。解説書に
	載ってない話などは、やはり地元の人でないと。おじさん、有り難うございました。お元気で。

 










	上写真と下の模式図を見ても、どうも私には男狭穂塚は帆立貝形古墳ではなく前方後円墳だったような気がしてならない。
	これを壊してでも、隣接して側に墓を造りたかった人の仕業のような気がする。「ニニギの尊」の生前の浮気癖に怒った、
	お妃である木花開耶姫のジェラシーのなせる業とか。ちょっと俗っぽかったかな。

 

 

 

 

 









上空から見た西都原(さいとばる)古墳群全景。原(はら)を(はる/ばる)と呼ぶのは九州に非常に多い。





	<古墳のレーダー調査、宮内庁認める>  YOMIURI shinbun(2004年5月21日)

	
	今年度からレーダー探査を行う西都原古墳群の女狭穂塚(手前)と男狭穂塚=本社機から

	◇「尊厳」より"規制緩和"へ

	 今年に入り、天皇陵などの学術調査について"規制緩和"の期待が強まっている。皇室の「尊厳」を理由に慎重姿勢だった
	宮内庁が、宮崎県にある古墳のレーダー探査を初めて認めたからだ。国会でも学術調査の是非が取り上げられ、古代史を見
	はるかす論議が続いている。
	「宮内庁は学問の発展のため、研究者に古墳を公開してほしい」。三月下旬の参院内閣委員会で、委員の一人が、真偽が長
	年論じられている天皇陵に触れ、研究者の立ち入りを認めるよう迫った。同庁の羽毛田(はけた)信吾次長が答弁に立ち、
	「天皇の祖先の墓として祭祀(さいし)が行われてきた重みがあり、慎重に臨みたい」と従来の説明を繰り返した。
	宮内庁は、歴代天皇などの「陵」、皇族の「墓(ぼ)」を管理しているが、この中には、被葬者に疑問があるものも少なく
	ない。継体天皇陵とされる大阪府茨木市の前方後円墳「太田茶臼山古墳」だが、学界の定説では約一・五キロ東にある、陵
	墓に指定されていない「今城塚古墳」の方が、出土品から見ても"真の継体天皇陵"とされる。
	学界は一九七六年、「陵墓指定は科学的な信ぴょう性が乏しい」と、古代陵墓の学術調査を求める声明を出した。
	これに対し宮内庁は、一貫して見解を変えてこなかったが、今年度、宮崎県の西都原古墳群内の陵墓参考地「男狭穂塚(お
	さほづか)」「女狭穂塚(めさほづか)」で、レーダーによる外周部の地中探査を初めて許可。宮内庁陵墓課は今回の "規
	制緩和"を、「観光資源の整備に力を入れる宮崎県に配慮した例外措置」としている。
	変化の兆しとも見える同庁の姿勢に、古墳に詳しい森浩一・同志社大名誉教授は「学問が未発達だった当時の陵墓指定を検
	討し直すのは自然なこと。立ち入り調査ぐらいは認めるべきだ。皇室にとっても重要な事だと思う」と話している。
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	<陵と墓>
	歴代天皇や皇后、皇太后、太皇太后の「陵」は188、その他の皇族の「墓(ぼ)」は552に上る。さらに、皇室関係者
	が埋葬された可能性がある46の「陵墓参考地」、火葬塚や灰塚を合わせると、宮内庁が管理する墓所は896に上る。
		


	<国内最古級の前方後円墳の可能性> 宮崎 毎日新聞 2005年5月18日 22時42分

	宮崎県西都市の国特別史跡「西都原古墳群」にある81号墳が、3世紀中ごろに築造されたと見られる国内最古級の前方後
	円墳の可能性が高いことが宮崎大の調査で確認された。大和政権は全国の有力豪族が連携して成立したとの見方が近年有力
	になってきているが、地下式横穴などの独自の葬送文化を持つ南九州は、そのらち外にあったと考えられてきた。奈良盆地
	とほぼ同時期の前方後円墳の発見により、南九州までが古墳文化の成立にかかわった可能性が出てきた。調査した宮崎大の
	柳沢一男教授(考古学)が22日、東京である日本考古学会総会で発表する。
	 調査は04、05年度の2カ年計画。柳沢教授によると、81号墳の後円墳から3世紀中ごろのものと見られるつぼなど
	計4点の土器が発見され、墳丘の形も前方後円墳出現期に特徴的な前方部が丸みを帯びた「纒向(まきむく)型」で、3世
	紀中ごろの築造の可能性が高まったという。81号墳は西都原台地東端にあり、墳長は46メートル。後円部の高さは3メ
	ートル。
	 柳沢教授は10年前の論文で既に81号墳が3世紀中ごろにできたものと推定し、調査していた。これまで4世紀とされ
	ていた西都原古墳群の築造開始年代も半世紀さかのぼることになる。
	 近年の発掘調査の成果により、弥生時代後半から列島各地に地域的な政治連合が形成され、それが相互に結びついていき、
	近畿から北部九州に至る広域的な政治的まとまりが形成されたというのが、有力となっていた。3世紀半ばから、纒向型古
	墳がこれらの地域に出現し始め、3世紀後半から墳丘が200メートルを超える巨大な前方後円墳が奈良盆地に相次いで築
	造されるためだ。ただ、地下式横穴などの独特の葬送文化を持つ南九州は全く無関係と考えられてきた。
	柳沢教授は「大和政権と呼ばれているものは全国の豪族が広く連携したシステムと考えられ、南九州の勢力もいち早く、古
	墳を取り入れたと言えるのではないか」と話している。



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