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	福岡県朝倉郡三輪町は、福岡県のほぼ中央に位置し自然と歴史に満ちた田園の町である。基幹産業は、米麦を中心とし
	た農業で、町の大部分には豊かな水田地帯が広がっている。近年までは農業従事者以外の住民はさほど多くなかったが、
	福岡都市圏に近接していることから、ここ数年来福岡市へ通勤する給与生活者が激増している。
	福岡市と大分県日田市方面を結ぶ国道 386号が町の真ん中を横切っており、福岡から「仙道古墳」を訪ねるには「天神」
	から「朝倉街道(あさくらがいどう)」へ電車で行き(急行約 20分)、朝倉街道から甘木方面行きの西鉄バスに乗って
	「新町」で降りる。そこから北へ歩いて15〜20分の所に新しく復元整備された古墳がある。

 




	仙道古墳は(所在:福岡県朝倉郡三輪町大字久光仙道)、昭和 52年農業基盤整備事業に伴い発掘調査が行われた。
	当時の古墳は、墳丘は削り取られて原型を留めておらず、石室は基底部を残すのみで、石材は抜き取られた状態だった。
	しかし残った石室の全面には、赤や緑の彩色で ○ ◎ △ の文様が描かれているのが確認され、また石室前面の周溝内
	から「盾持武人埴輪」と呼ばれる人物埴輪が出土した。古墳そのものの築造は5世紀頃と見られる。

	下右が、甘木市歴史資料館にあるこの「人物埴輪」の実物。まだ三輪町には資料館がなかったのだ。

 

 

 

覆い土を完全に取り去って、近代的な設備で保護したあと再度盛り土をして復元されている。奈良の高松塚古墳と同じやり方である。

 


	古墳は、経 49mの二重の周溝を持つ大型の円墳で、横穴式石室を持つ装飾古墳と位置づけられる。翌年の昭和 53年5月
	6日に国の史跡指定を受けた。
	その後、史跡整備のために平成 7年から発掘調査を行い、周溝からいろいろな円筒埴輪が多量に出土した。そのなかで
	も出土例が少ない柵形円筒埴輪は貴重である。我が国での総数 15万とも 20万とも言われる古墳だが、装飾古墳はその
	うち600基あまりであり、その多くが北部九州に集中している。多くは 5世紀半ばから 6世紀にかけて築造されたと考え
	られており、筑後川を挟んで福岡県と熊本県北部に多い。

 

 


	この古墳はまだ整備途上である。一般公開からまだ3ケ月もたっていないが、墳丘と周濠以外はまだ手つかずだ。
	「人物埴輪」の、半分サイズくらいのレプリカが立っている。

 


	3年半かかって復元された仙道古墳は、2001年5月23日に石室が公開された。今回の整備は墳丘部分を復元し、埴輪のレ
	プリカも配置された。周囲はまだ整備箇所を残しているが、今後は定期的(春・秋)に、石室を公開する予定だという。
	資料館で今年の公開日を訪ねたが、まだ決まっていないとの事だった。ご希望の向きは、時期になったら三輪町教育委
	員会へ尋ねられたい。



古墳公園の隅に、石室内を復元した施設がある。作られたときの色彩はなんと鮮やかだったことか。



 
	
	これらの装飾は、熊本北部菊池川流域の古墳群(アブサン・チブサン等)や、福岡県浮羽郡や鞍手郡などの古墳に残る
	文様とよく似ている。いつか古代の一時期に、同じ様な葬送風習を持つ民族が集団で北九州に根付いた事の証左だろう。

 


	この古墳のすぐ側(歩いて500m程)に、土地の人が「おんがさま」と呼ぶ「大己貴神社」(おおなむちじんじゃ)があ
	る。祭神は「大国主命」で、天照大神、春日大明神も併せてまつられている。起源は古く、神功皇后が朝鮮半島に出兵
	する際、兵を集めるために建てられたと言われ、日本書紀の記述や「延喜式神明帳」に「於保奈牟智神社」と記されて
	いることもあり、日本で最古の神社ではないかという説もある。




	またこの地は、産業能率大学の安本美典教授が、コンピュータ解析の結果「卑弥呼と天照大神は同一人物」とした「邪
	馬台国=甘木・朝倉説」を発表して以来、その中心にあたる地として脚光を浴びている。安本説によれば、甘木・朝倉
	一帯と奈良県大和地方の地名が驚くほど似ており、奈良の「三輪」もここから移動したのだと言う。
	こうした地名の類似や、延喜式内社である隣接の「大己貴神社」の存在、縄文・弥生・古墳時代の遺跡などから、この
	地域で勢力を誇っていた「邪馬台国」から、卑弥呼の子孫の「神武天皇」が大和へ東遷し、それ故、故郷一帯の地名が
	奈良地方に移ったのだと安本教授は提唱する。

	三輪町ではこの説を受けて、この地を「女王卑弥呼の里・邪馬台国」として地元の意気高揚に努め、「邪馬台の里」
	づくりを進めている。国道 386号沿いにある三輪町役場前の交差点角には、下のようなモニュメントが飾られている。











	月曜日だし、しかも盆なのでおそらく資料室は閉まっているだろうと思ったが、念のため 104で番号を聞いて電話して
	みた。大阪から来たとも、この町(隣の甘木市)の出身だとも言わなかったのだが、「う〜ん、いいですよ。来て貰え
	ば開けますから。」と言われてビックリしてしまった。図書館や町の公共施設が立ち並ぶ建物の一角に資料室はあった。
	女性から「課長」と呼ばれていたオジさんが鍵を開けてくれ、たった一人の見学者に色々と話を聞かせてくれた。
	ふる里の人の暖かい心根に、資料室をでた後の足取りは軽かった。この後、「ご先祖様」のお迎えに実家へ急いだ。

 

 



下左が「柵形円筒埴輪」である。こんな形の埴輪は全国でも出土例が少ないとあるが、私はまだよそで見た事がない。

 

下の埴輪破片をみると、他にも人物埴輪が幾つかあったことが分かる。下右の取っ手のようなものは耳である。

 

発掘前や発掘・復元状況がわかる写真パネルも掲示してある。

 


	仙道古墳以外にも、三輪町の他の遺跡から出土した遺物が展示してあるが、多くは「甘木歴史資料館」や福岡県内の他
	の博物館・資料館に持っていかれてここにはあまりない。東京上野の「国立博物館」にはここの「栗田遺跡」から出土
	した「朱塗り祭祀土器」が常設展示されている。

 

 






	古くは甘木にある「朝倉高校」(私の母校でもある)の史学部が、この地方の埋蔵文化財の調査・発掘・保存を一手に
	引き受けていたため、朝倉高校の史学部展示室にも多くの遺物がある。私が高校生の頃、史学部の友人達はポケットに
	土器の破片を持っていた。当時私は全くこの方面に興味が無く、「なんだお前らは、ボロ買いか。」と友を嘲っていた。
	不明を恥じるばかりである。

 

 



 

 

 





「至秋月」という方向へ向かうと私の実家である。

Wifeの両親は数年前他界したが、私の方は健在だ。 しかし父親が持病の糖尿病からくる疾患でここ数年いつとも知れぬ状態なので、盆正月は必ず帰省する事にしている。
近年は、帰る度にこうやってふる里の遺跡を訪ねて歩いているが、その都度、 どうして高校生の時に歴史に興味を持たなかったのかが悔やまれてならない。

「日本人の起源」「邪馬台国」「渡来人」「大和朝廷の成立」等々、私の今の追求テーマである歴史の題材は、 なんと生まれ故郷に山ほどあったのだ。
40才を過ぎてそれに気づき、女の子ばかり追いかけ回していた青春時代を後悔することしきりである。
古賀精里(せいり)という日本史の先生がいて、先生はよく「修一、やっとるか?」と声を掛けてくれてたのに、 あの頃先生の話をもっと聞いとけばよかったと今でも悔やまれる。




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