Music: A Taste of Honey

紫香楽宮跡
信楽に春を訪ねて 2001..3.20春分の日 滋賀県甲賀郡



	春分の日、ポカポカ陽気に誘われて、滋賀県甲賀郡信楽に行った。私は以前から行きたかった「紫香楽宮跡」を見たかったのと、WIFE
	は近くにある「ミホミュージアム」と言う美術館を訪れたかったのだ。陽気が良いので、弁当を持って行こうということになり、信楽
	町の中にある「陶器の森」という一大陶器センターの公園で、食事をしながら早春の風を楽しんだ。春先のビールも又旨い。

	名神高速を「瀬田西」インターで降りて、草津信楽線を一路「信楽」へ向かう。陶器の町として有名な信楽町の一寸手前から、小道に
	入る。「紫香楽宮跡」の表示の通りに行けばよい。紫香楽宮跡と刻まれた石塔がある所で、10mばかり森の中に入ると小さな広場が
	ある。数台ならそこに車も止められる。鬱蒼とした森の中にポカッと空いた空間で閑かだ。鉄道を利用する場合は、信楽高原鉄道の
	「紫香楽宮跡駅」から北西へ歩いて約15分(1km)である。松林に覆われた丘陵地にある。

 

 

 




	第45代聖武天皇は行幸・遷都を繰り返した天皇として有名である。略歴からその軌跡を拾ってみると、

	725(神亀2)年	3月、三香原(みかのはら:甕原盆地 恭仁京の左京にあたる)離宮行幸。5月、芳野行幸。
			10月、難波行幸。
	726(神亀3)年	10月、播磨国印南野行幸(一説には9月)。10月26日、藤原宇合を知造難波宮事に任命、難波京の造営
			に着手。
			10月29日、難波宮に滞在。
	727(神亀4)年	5月、甕原(みかのはら。三香原に同じ:)離宮行幸。
	729(神亀6)年	2月「左大臣長屋王の変」。
	734(天平6)年	3月10日、難波行幸。同年9月13日、難波京の宅地を班給。この頃に難波宮が完成か。
	736(天平8)年	3月1日、甕原離宮行幸。
	739(天平11)年	3月、甕原離宮行幸。
	740(天平12)年	2月7日、難波行幸。この際、河内国大県郡知識寺で盧舎那仏を礼拝し、大仏造立を発願する。
			同年9月、太宰府で藤原広嗣の乱。急遽関東に行幸、そのまま平城に帰らず同年末、山背国恭仁(くに)に遷都。
	742(天平14)年	1月5日、大宰府を廃止(広嗣の乱の影響か)。同年8月から9月にかけ紫香楽宮行幸。
	743(天平15)年	4月、紫香楽宮行幸。5月27日、墾田永年私財法の詔を発布。7月26日、紫香楽宮行幸(滞在4カ月)。
			同年末、恭仁京の造営を中止。
	744(天平16)年	1月1日、朝堂で官人に恭仁・難波の何れを都とすべきか協議。1月11日、難波宮行幸に出発。
			途上、安積皇子が脚病を発し、恭仁京に還り2日後に急死。
			2月24日、紫香楽宮行幸。上皇と橘諸兄は難波に留まり、2月26日、諸兄が難波宮を皇都とする勅旨を伝える。
	745(天平17)年	1月1日、紫香楽宮に遷都。1月21日、行基を大僧正とする。同年4月から5月にかけて山火事と地震が
			頻発。
			5月11日、平城に行幸し、そのまま都を平城に戻す。6月5日、大宰府を再置。
			8月23日、平城京の山金里で大仏造営工事を始める。
			(『東大寺要録』。大仏殿碑文によれば翌18年の同月日)。
			天皇・皇后が先に立って、文武百官・女官らも土を運び大仏の座を築く。
			8月28日、難波宮行幸。9月、難波滞在中に重病を患い、危篤に陥る。


	平城宮から恭仁京(現在の京都府相楽郡加茂町)へ移り、難波宮、紫香楽宮と遷都した後、また平城宮へ戻っている。転々と都が移って
	いた飛鳥時代と違って、この時代には遷都は一大事業だったはずである。それをよくぞまぁという感じだ。恭仁京は造営が中断されたた
	め規模はさほどでもないが(と言うか、殆ど発掘調査されていないらしい。)、紫香楽宮は近年発掘調査が進み、次第にその全貌が明ら
	かになりつつある。(後段の各社新聞記事参照されたし。)



広場から参道を登ると、程なく中門への石段が見えてくる。10数段の石段を登るとそこが国指定史跡「紫香楽宮跡」である。

 


	現在「史跡紫香楽宮跡」として残っている旧跡は、かってここが紫香楽宮跡とみなされ、1926年国史跡として指定されているが、現在で
	は紫香楽宮そのものの跡ではなく、大仏造立の詔( 741)により大仏の骨組みとなる体骨柱を立てたとされる「甲賀国分寺甲賀寺跡」で
	はないかと推定されている。我々が訪れたのは、実はこの寺跡なのである。


	広場から緑の松林に囲まれた坂道を登ると、正面に金堂跡があり、廻りを取り囲むように僧坊跡・経堂跡・鐘桜跡・塔院跡などの礎石が
	並んでいる。ずらりと並ぶ礎石群から、往時の建物が立ち並んでいた様を想像すると、正直な所、「どうしてこんな所に!」と思ってし
	まった。ようやく春が訪れようとしているお彼岸の、ぽかぽかした風もない一日。



中門跡

 

 



金堂跡

 

 

 

 



伽藍復原図石板







経楼

 

 



鐘楼

 



講堂・僧坊跡

 

 



 



塔院

 


	この旧跡の北東に「宮町遺跡」という遺跡があり、ここ数年の発掘調査でここに紫香楽宮に関連した役所があったことが確実になりつつ
	ある。詳細は後段の「宮町遺跡発掘調査報告書」を参照していただきたいが、それによれば、
	
	紫香楽宮を構成していたとみなされる建物、柵、溝などが、馬門川北側、西出川東側の一帯に広がっている。遺跡の北端付近では、東側
	に区画施設である南北方向の塀が見つかっていて、西側には大型の庇をつけた南面する建物をはじめとして、数軒の建物が建てられてい
	た。また、建物の周囲にも区画する東西方向や南北方向の塀、溝などが設けられているなど、北端付近に多くの建物や施設が集中して建
	てられていた。
	また、そこから離れた西側では倉庫が検出されており、この地域では倉庫を中心とした建物が建てられていたふしがある。そして、西南
	部では、幅広い南北溝と東西溝が合流していることが判明し、これらの南北・東西の大きな溝は、紫香楽宮の造営にあたって、堀川とし
	て資材の運搬に利用されていたことが想定される。 
	宮町遺跡で見つかっている掘立柱建物は、柱間が広く、用いられていた柱は残っている柱根から見て、平城宮の役所の建物に使用された
	柱と同じ太さのものである。これらの建物が建てられた範囲は、およそ400m四方くらいの広がりをもっていたことが想定される。
	木簡も多量に出土しており、これには『続日本紀』に、天平15年(7343)の東海道、東山道、北陸道の諸国の調庸物を、紫香楽宮に貢進
	するように記されており、この時期に駿河国、上総国、越前国などの諸国から、調庸物につけてもたらされた荷札が出土している。
	「大殿所」と書かれた木簡もあり、このような建物の造営を担った役所も置かれていたことが判明した。
	しかし聖武天皇の居所となった内裏が、はたしてどこに置かれていたのか、「史跡紫香楽宮跡」とはどのような関係をもっていたのか、
	といったことの解明は、今後に残された課題であろう。〔小笠原好彦〕 

	
	短い期間の紫香楽宮であるが、それなりの機構はちゃんと備えていたのである。しかし小笠原好彦氏も言うように、今後の調査に待つ部
	分も多い。どうしてここに都を構える気になったのか。大仏建立と恭仁京、紫香楽宮とは一体いかなる関係にあるのか。またこの「甲賀
	寺跡」は、紫香楽宮の中でどのような役割を担っていたものであろうか。
	〔ちなみに小笠原好彦氏は、このHPの「学ぶ邪馬台国」のコーナーにある、「よみがえる白鳳の伽藍」シンポジウムで司会を努めてい
	た滋賀大学教授(考古学)である。〕




「紫香楽宮跡」発掘の模様を報道する各社新聞記事


滋賀県教委と県文化財保護協会は三日、同県信楽町の新宮神社遺跡から、奈良時代(八世紀)中ごろの聖武天皇の離宮・紫香楽宮(しがらきのみや)の関連施設とみられる掘っ立て柱建物などの遺構が出土したと発表した。
宮の跡とされる宮町遺跡と、聖武天皇が大仏建造を計画した甲賀寺跡といういずれも奈良時代に造営された二つの公的な施設を結ぶ中間にあり、宮の全体像を解明する上で貴重な発見という。

宮全体像解明のカギ
掘っ立て柱建物は、谷間の約五十メートル四方の区域に三棟がL字形に配置されていた。また、井戸やこれらの建物群を挟んで東西を流れる二本の河川跡などが見つかった。 新宮神社遺跡は、北の宮町遺跡と南の甲賀寺跡とを結ぶルート上にあって往来の際には必ず通過する中間地点にあたることや、遺物が奈良時代中ごろに集中していること、さらに建物三棟は建て替えの痕跡がないことなどから、その存続期間は紫香楽宮が営まれた天平年間を中心とする時期であったと推測される。 また、発掘現場から八個の硯(すずり)に使った土器が確認されたことで一般的な村落の一部とは考えにくく、宮に関する事務的な仕事が行われていた可能性が高いという。
同協会企画調査課の畑中英二・主任技師は「近くにはほかにも奈良時代の遺跡が散布しており、これらが新宮神社遺跡と同様に紫香楽宮に関係するとすれば、かなり広範囲にわたって宮の造営や経営に関する施設群が展開していたことになる」と話している。
紫香楽宮は聖武天皇の離宮として天平十四(七四二)年に造営され、同十七年に遷都。「新京」と呼ばれたが、山火事などが相次ぎ、同年の平城京遷都で廃都となった。
都市計画に基づき設置された建設群
林博通・滋賀県立大人間文化学部助教授(日本考古学)の話 紫香楽宮建設には、甲賀寺も取り込んだ一定の都市計画があり、新宮神社遺跡はその計画に基づいて設置された建物群と判断できる。紫香楽宮は平野部に収まる範囲と考えられていたが、今後、宮の面的な広がりを考える必要がある。
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南北90メートルの大型建物跡 紫香楽宮  2000年11月22日
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聖武天皇が造営、一時都を移した紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる滋賀県信楽町宮町の宮町遺跡で、宮の中枢部とみられる長さ 約九十メートルの巨大な建物跡が見つかった。大臣らが政治をつかさどり、現在の国会議事堂に当たる朝堂(ちょうどう)とみられる。 信楽町教委などが二十二日発表した。
また付近で宮の主軸道路とその先の橋跡も見つかり、聖武天皇が転々とした四つの宮のうちこれまで不明だった紫香楽宮の位置を決定づけるとともに、同宮が本格的な都市構造だったことがうかがえる貴重な発見。
見つかったのは奈良時代(八世紀)中ごろの掘っ立て柱建物跡。東西約十二メートル、南北約九十二メートルと南北に長く、中枢部を構成した建物とみられ、対になって建設されることから東側にもうひとつの朝堂が、二つの朝堂の間の北には大極殿があった可能性がある。「続日本紀」には紫香楽宮で「天平十七(七四五)年一月七日に朝堂で天皇が役人をもてなした」という記述があり、この建物のことを記した可能性もあるという。
規模は初期の平城宮(奈良市)の朝堂などとほぼ同じだが、東西側だけでなく北側にも庇(ひさし)が設けられている珍しい構造。
宮町遺跡では、以前から大量の木簡や、内裏の一部とみられる大型建物跡などが見つかっており、約二キロ南の史跡・紫香楽宮跡ではなく同遺跡が紫香楽宮の可能性が高いとされていたが、今回の発見で、中枢部の場所がほぼ確定した。
また、同遺跡の約一キロ南の新宮神社遺跡では、聖武天皇が大仏を造ろうとした甲賀寺と宮をつなぐ「朱雀路」の一部とみられる、幅約八・五メートル、長さ約九・五メートルの橋脚跡と、幅が最大約十二メートルと推定される道跡が見つかった。
近くで見つかった直径約五十センチのヒノキ材の年輪を奈良国立文化財研究所が調べたところ、七四四(天平十六)年前半に伐採されたことが分かり、橋脚とみられる。付近の川跡からも「天平十六年」などと記された木簡が見つかったため、道が紫香楽宮の最盛期に使われていたことも明らかになった。
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Kyoto Shimbun 2000.11.23 News  建物跡 平城京に匹敵  「幻の紫香楽宮」全容解明へ
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幻の都・紫香楽宮の全容解明へ、大きな明かりが見えた―。滋賀県甲賀郡信楽町教委などが二十二日、紫香楽宮の朝堂院・西脇殿とみられる建物跡と大型の橋脚跡が、同町宮町の宮町遺跡などから見つかったことを明らかにした。天平期に都を転々と移した聖武天皇が、ひと時だけ身を置き離宮とされていた紫香楽宮だが、建物跡の規模は予想以上に大きく、関係者からは「本格的な都づくりを考えていたのでは」と、驚きの声も上がっている。
紫香楽宮は一九二六年、宮町遺跡の南約二キロにある甲賀寺跡とされる場所が、史跡・紫香楽宮跡と指定された。しかし、八〇年代から始まった宮町遺跡周辺の発掘調査で、「王」と書かれた木簡が見つかるなど、最近では「宮町遺跡が紫香楽宮の中心」との見方が強くなっていた。
今回の調査では、田園の中から、南北に整然と並んだ長大な建物の柱跡が見つかった。地形などから役人たちが執務していた西脇殿と考えられ、以前、紫香楽宮跡調査委員会副委員長として調査した奈良国立文化財研究所の町田章所長は「これで動かぬ証拠が出た。宮町遺跡が紫香楽宮の中心だったことがやっと分かった」と喜ぶ。
史跡・紫香楽宮跡と宮町遺跡の中間点にある新宮神社遺跡から見つかった橋脚遺構について、同委副委員長の栄原永遠男大阪市立大教授は「(橋の幅から)かなり大きな道があり、甲賀寺と同宮を結ぶメーンストリートだったはず」と指摘、県文化財保護協会の畑中英二主任技師は「道は朱雀門に通じる朱雀路と考えられる」と話す。 また、建物跡が平城京の建物に匹敵する規模だったことから、恭仁京(京都府相楽郡加茂町)調査に携わる井上満郎京都産業大教授は「恭仁京の離宮として考えられていた紫香楽宮だが、聖武天皇は、甲賀寺を含んだネットワーク的な首都構想を持ち、本格的な都市計画に着手していたのではないか。奈良時代の歴史を考え直す発見」と高く評価。
文化庁記念物課の坂井秀弥文化財調査官は「地権者の了承も必要だが、今回の発見で、甲賀寺とされる史跡・紫香楽宮跡に、宮町遺跡を追加することになるだろう」と話している。
紫香楽宮はわずか半年足らずの都で、具体的な実態が分からなかったため、「幻の都」とのイメージが強かった。それだけに信楽町教委の鈴木良章文化財係長は「今後、(西脇殿の対称地にあるはずの)東脇殿などをポイントを狙って調査できる。中心部から始め、全容を明らかにしたい」と夢を膨らませている。
 ▽紫香楽宮跡調査委委員長・小笠原好彦滋賀大教授(考古学)
 紫香楽宮の中心部が確定したことで、史跡・紫香楽宮跡の指定根拠が薄まった。同宮跡は大仏造営が行われた甲賀寺跡地と考えられ、この地点の調査をすれば、聖武天皇がなぜ信楽に大仏を造ろうとし、この地を宮に選んだのかという最大のなぞの解明につながるかもしれない。


Kyoto Shimbun 2000.11.23 News 紫香楽宮の「朝堂院」跡出土  信楽町 当時最大級の橋脚遺構も
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奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮跡と推定されていた滋賀県甲賀郡信楽町宮町の宮町遺跡から、天皇が国家の重要な儀式などを行う「朝堂院」の一部とみられる大規模な掘っ立て柱建物跡が出土、また、同町黄瀬の新宮神社遺跡で朝堂院に続くとみられる当時最大級の橋脚遺構が見つかったと二十二日、同町教委と滋賀県教委が発表した。同町教委は「紫香楽宮は宮町地区にあった」と断定、関係者は「なぞが多い紫香楽宮の実態解明に直結する極めて重要な発見」と評価している。
宮町遺跡で出土した掘っ立て柱建物跡は南北約九十二メートル(二十二間)、東西約十二メートル(四間)。柱跡は約三メートル幅の土間を挟んで内外二列に並んでおり、柱の間隔はいずれも約四・三メートルで、最北端だけは約三メートル。柱穴はいずれも直径約三十センチで、二カ所の柱穴にはヒノキらしい柱根が残っていた。建築様式から、建物には庇(ひさし)が付いていたと考えられるという。
建物跡は、平城宮などの宮殿遺跡の朝堂院にある建物とほぼ同規模で、地形なども考え合わせて、同町教委は「建物跡は朝堂院のうちの西脇殿とみられる。これを基に東脇殿、大極殿などを探ることができる。見つかった建物は予想以上に大きく、紫香楽宮は本格的な造りだった可能性もある」としている。一方、宮町遺跡の南約一キロにある新宮神社遺跡で出土した橋脚跡は、幅約八・五メートル、長さ約九・五メートル。掘っ立て柱式で、柱穴の直径は約七十〜四十メートル。幅約三メートル程度だった当時の一般的な橋よりはるかに大きく、橋脚跡南側には朱雀路のものとみられる側溝らしい溝跡が見つかった。県教委は「大仏造営が行われたとされる甲賀寺と紫香楽宮を結ぶ朱雀路が整備されていた」と判断している。
宮町遺跡調査は一九八三年から始まり、今回の第二十八次調査までに三千点以上の木簡などが出土。同遺跡が紫香楽宮の中心部と推定されていたが、決め手となる証拠が見つかっていなかった。
二十五日午後一時から県教委、同三時から町教委の現地説明会が行われる。
 ▽紫香楽宮(しがらきのみや)
難波宮や恭仁京を造営中だった聖武天皇が、奈良時代中期の七四二(天平十四)年に離宮として造営を開始。七四三年に大仏造立の詔(みことのり)を出し、甲賀寺に大仏の骨組みとなる体骨柱を立てたとされる。七四五年一月に正式な都と公示されたが、その後、山火事や地震が相次ぎ、聖武天皇は同年五月に恭仁京へ移り、六月には平城京へ都が戻された。
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滋賀・宮町遺跡  紫香楽宮遺構と断定

紫香楽宮の朝堂とみられる全長90メートル以上の建物跡(滋賀県信楽町の宮町遺跡で) 
滋賀県信楽町の宮町遺跡で全長九十メートルを超す奈良時代中期の長大な掘っ立て柱建物跡一棟が出土し、町教委は二十二日、国の政治や儀式の舞台だった朝堂院の西脇殿とみられ、同遺跡は聖武天皇の紫香楽宮(しがらきのみや)(七四二―四五)の遺構だと発表した。短命で「幻の都」といわれた同宮が本格的な機能を備えていたことになり、所在地を巡る議論も決着。古代政治史の研究にとって重要な発見となった。
町教委が四月から調査。東西と南北に二・九―四・三メートル間隔で並んだ柱穴(直径三十センチ、深さ三十―五十センチ)が多数出土し、南北は二十二柱間九十一・五メートル以上、東西は四柱間十一・八メートルの建物跡と判明。東、西、北側は庇(ひさし)のある格式高い造りだった。周囲の奈良時代の建物跡との関連で同時代とわかった。 南北に細長い構造などから、天皇や高官が儀式や政治を行った朝堂院で、西側に溝があることから、東西の朝堂(脇殿)のうちの西脇殿と推測。長さは、平城宮第一次朝堂院の第二堂(九十二・四メートル)を上回って最大級とみられる。
宮町遺跡南一・七キロで多くの礎石が出土した丘陵地が一九二六年、紫香楽宮跡として国史跡になったが、その後の調査で聖武天皇が大仏建立を計画した甲賀寺跡と推定されている。
一方、七一年ごろに見つかった宮町遺跡は、宮造営時の天平十五年(七四三)ごろに伐採された宮殿のものとみられる太い柱根が出土。天皇の居所を造営する役所の「造大殿所(ぞうおおとのしょ)」と書かれた木簡も見つかるなど、最近は同宮の場所として有力視されていた。町教委はこれらに加え、周辺に宮殿の区画を踏襲したような方形地割があることなどを決め手に宮跡と断定。中心地は今回調査地の東側で、東に東脇殿、北東に大極殿があったとみて全容解明を目指す。県教委は地権者の同意を得て、史跡の範囲拡大を検討する。また県教委の調査で、南一キロの奈良時代中期の新宮神社遺跡から幅八・五メートルの橋脚遺構が出土。宮と甲賀寺推定地を結ぶ主要道の朱雀路の橋で、都市の計画性が明らかになった。


紫香楽宮の巨大な建物跡(左)から新宮神社遺跡と史跡紫香楽宮跡(右)を望む(滋賀県信楽町の宮町遺跡で、本社ヘリから)


“幻の都”は本格造営

 古代律令国家が政局不安に揺れる中、聖武天皇の〈第四の都〉として造られながら、わずか五か月で使命を終えた幻の紫香楽宮(しがらきのみや)……。滋賀県信楽町の宮町遺跡で出土した朝堂の西脇殿とされる長さ九十メートル以上の巨大建物跡は、奈良・平城宮跡の朝堂を上回って最大級とみられ、聖武天皇が短命の宮に思いのほか力を注いでいたことを浮かび上がらせた。
政局不安は七四〇年、太宰府にいた藤原広嗣(ひろつぐ)の乱に始まった。すぐ鎮圧されたが、聖武天皇は混乱を避け、平城京から恭仁京(京都)、難波宮(大阪)と遷都、七四五年一月、紫香楽宮に遷(うつ)った。朝堂で宴(うたげ)を楽しむ万葉歌人大伴家持ら貴族。「続日本紀」は、遷都直後の喜びを伝える。しかし、山火事や地震が相次ぎ、五月、再び平城京に遷った。 紫香楽宮は、離宮として七四二年に着工されたため整備されていなかったとの説も強かったが、朱雀路の存在を示す新宮神社遺跡での橋跡の発見も含め、本格的な都市計画がわかる。
桜井敏雄・近畿大教授(建築史)は「都として整備されており驚いた。役所がすべてそろっていたかなど課題が増えた」と言い、小笠原好彦・滋賀大教授(考古学)は「やっと決定打が出た。中心的建物の発見で宮の構成をつかむことが可能になり、一、二年で一気に全容解明が進むはずだ」と今後の調査に期待する。
 聖武天皇は、仏教による鎮護国家を目指した。七四三年には紫香楽宮近くの甲賀寺での大仏造立を発願。朝堂が巨大だったのは、この造立事業と深く関係したとする研究者も多い。
町田章・奈良国立文化財研究所所長(考古学)は「大仏完成まで天皇が長期滞在するため、それなりの態勢を整えていたのでは」と推測。中井真孝・佛教大学長(古代仏教史)は「鎮護国家の原点の地だけに、天皇の思い入れが深かった。大仏建立を進めるにつれ、本格的な都に整えて行ったと思われる」と指摘する。
紫香楽宮の南側には朱雀門があり、南に延びるメーンストリート朱雀路が整備されていた。滋賀県文化財保護協会の畑中英二主任技師(考古学)は「朱雀路周辺に市が立ち、役人や大仏造りの職人でにぎわったと続日本紀に書かれており、往時がしのばれる」と話した。(2000/11/23)
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(C) The Yomiuri Shimbun Osaka Head Office, 2000



紫香楽宮跡関連遺跡 第28次発掘調査現地説明会資料




	この宮町遺跡は、2000年度の調査事業として発掘されたため、事業年度の終わる2001年3月頭にすべて埋め戻されてしまった。
	連休明け頃に再び調査のため発掘されるそうだが、その成果が明らかになるのはおそらく秋過ぎだろう。しかしそれも又埋め戻すそう
	だ。土地は個人所有のため、町が買い上げて国の指定を受けてという手順を踏んで、今の「国指定紫香楽宮遺跡」のように整備される
	としても、おそらく数年はかかるだろうと思われる。A4版の簡単な発掘調査概要は、信楽町の教育委員会へ80円切手を貼った返信用
	封筒を同封して申し込めば送ってくれる。以下、その資料からの抜粋。

 



 

 







	
	信楽町が作った案内センター「陶器の森」で昼食を食べた。ここには陶器博物館や、町の陶器作家たちの作品を展示した展示館など多
	くの施設が建てられているが、まだ植木の苗を植えていたりして造成途上である。どうやら山ひとつぶっ潰して造成したようだ。ばか
	でかい駐車場もいくつかある。

	信楽と言えば、タヌキの置物で有名な陶器の産地である。信楽の焼物の歴史は古く、遠く古墳時代の須恵器や土師器等も発掘されてい
	るが、奈良時代742(天平14)年、聖武天皇が紫香楽宮を造営したとき、造営用布目瓦と大仏鋳造用のるつぼを作ったといわれ、古代窯
	の起源としてはここに始まるようである。日本六古窯の一つとされている。 

	食事の後、すぐ近くの「ミホミュージアム」に行った。「古代ガラス展」をやっていた。







	上右端は、帰りに城陽市(京都府)あたりで目にとまった「市邊押磐皇子」(履中天皇の第一皇子:雄略天皇に滅ぼされる。)故址の
	石碑。こんなところに一体なんでと思ったが、一瞬だったのではっきり何の跡なのかわからなかった。車を止めて見たかったが、前後
	にびっしり車が付いて渋滞していたためあきらめた。帰ったら調べてみようと思いながら、まだ調べていない。










	聖武天皇の“都跡”両陛下がご視察	2007/11/12 15:50更新

	琵琶湖畔で行われた第27回「全国豊かな海づくり大会」出席のため滋賀県入りしていた天皇、皇后両陛下は12日、陶磁器「信楽焼」
	で知られる同県甲賀市信楽町の宮町遺跡を視察された。宮町遺跡は、奈良時代の聖武天皇が742(天平14)年から離宮として築き、
	745(同17)年には一時、都と定められた紫香楽宮(しがらきのみや)の跡地とされている。
	甲賀市教育委員会の宮木道雄教育長らから発掘品の説明を受けると、天皇陛下は「紫香楽宮は何年間使われたの」「造営の途中だった
	の」などと熱心に質問されていた。また、発掘現場で働く人たちには「どうもご苦労さま」「寒いけど大丈夫ですか」とねぎらいの声
	を掛けられた。これに先立ち、両陛下は同市内の県立陶芸の森をご訪問。信楽焼が造られる工程を見学された。




邪馬台国大研究・ホームページ / 遺跡・旧跡案内 /甲賀寺