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志登支石墓群 (しとしせきぼぐん)
2003.1.11 福岡県前原市






	【前原市・志登支石墓群 】(国指定史跡)

	福岡県西端に位置する前原市は、南に脊振山系の雷山、井原山を望み、北に糸島富士といわれる可也山と海という豊かな自然
	に囲まれ、近年までは糸島郡前原町として、静かな田園地帯であった。古代史上有名な「魏志倭人伝」による「伊都国」の所
	在地という他は、さしたる産業も工業もなく、鄙びた農村地帯の典型のような所であった。
	それが市制を引いた平成4年頃から、拡大する福岡都市圏のベッドタウンとして、急速に成長を遂げてきた。市内の就業者の
	約半数が福岡市内へ通勤している現在、ベッドタウン化は今後ますます拡大していくものと思われる。相互乗り入れしている
	福岡市営地下鉄で今回ここまで来たが、学生時代に何度か訪問した「糸島郡前原町」とは全く様相が変わっていた。マンショ
	ンが立ち並び、スーパーや商店が軒を並べて、町はすっかり変貌を遂げていた。

 


	弥生時代には、縄文式土器に比べて、複雑な意匠や土器表面の紋様はなくなり、すっきりした実用的な土器が使われるように
	なった。弥生時代は、紀元前3世紀から3世紀ごろまで約600年間続くが、この時代は、稲作農耕の開始と金属器の使用と
	いう2つの大きな特色を持ち、これらの文化は、渡来人による大陸からの伝来といわれている。
	糸島は、地理的には中国大陸・朝鮮半島とは「目と鼻の先」にある。糸島の先人たちが、比較的早い時期からこの新しい文化
	に接し、それを受容して来たことは容易に想像できる。糸島では大陸・朝鮮からの渡来人もしくは渡来系集団とかかわりをも
	った遺跡・遺構を多く見い出すことができるが、ドルメンもその一つである。ドルメンは、朝鮮半島に多く見られる古代墓制
	の一つで、重さ1〜2トンほどの巨石を、人の頭ほどの石で支え、その下に死者を葬るという構造の墓である。この特異な形
	式の墓は、わが国では弥生時代前期ごろからのもので、北西部九州沿岸一帯に多く見られる。 

 

遠く南に聳える佐賀県の雷山から流れてくる雷山川。北を目指して流れてきた川は、
この先で90度西へ流れを変えて加布里湾に注ぐ。


	ここ前原にも、「伊都国」以前、おそらくは朝鮮半島から渡ってきた人々が葬られたと思われるドルメンがある。ドルメン、
	即ち日本語で言えば「支石墓」(しせきぼ)である。この地方にはいくつかの支石墓群が存在しているが、志登支石墓群は、
	糸島平野のほぼ中央、古代糸島水道跡の低地の中でも、比較的小高いところの標高5〜6メートルの沖積台地にある。周辺の
	水田面よりおよそ1m内外高い場所に10基の支石墓が、1、2mの間隔を置いて配列されている。昭和27年(1952)、地
	元の考古学者原田大六が35歳の時発見し、昭和28年(1953)福岡県文化財保護委員会によって、支石墓四基、甕棺八
	基が発掘調査された。発掘調査の結果、朝鮮半島南部に多い「基盤形支石墓」であることが判明した。




	支石墓は1〜3個の支石に、径1.5〜2m前後、厚さ50cmほどの平たい石や亀甲状の大石が支石墓の上下となっている。
	下部構造は魂石によって長方形の石かこいをしたものと、浅い土壙をもつものであった。副葬品として、黒曜石製石鏃六、朝
	鮮製と判断される磨製石鏃四が出土した。上石の巨石は玄武岩と花崗岩が使用されている。「可也山」から運んだのではない
	かとされている。甕棺は単棺・合口甕棺、坏や浅鉢を蓋としたものであったが、土器の形成から弥生時代前期〜中期のものと
	比定される。




	可也山は糸島半島の西にあり、標高365m。「糸島富士」「筑紫富士」「小富士」とも呼ばれている独立峰であり、半島内
	で最も高く、半島のどこからでも、その秀麗な山容を眺めることができる。可也山はかっては火山であり、大部分が花崗岩で、
	山頂部は玄武岩である。志登支石墓群からの見る可也山が最も美しいと言われる。可也山の花崗岩は質が良く、黒田長政が東
	照宮の鳥居として献上した大石を切り出した跡が残っている。糸島半島は古代から朝鮮半島と繋がりの強いところであり、可
	也山という呼び名も「伽耶(かや)」国と関係があるのではないかとも言われる。

 


	発掘では、弥生早期から中期(約2500〜2100年前)にかけての支石墓10基、甕棺墓8基などが発見されており、支
	石墓のうち4基が調査された。地表に1枚の大きな石を置き、その下を数個の塊状の石で支え、そこに甕棺(かめかん)や土
	壙(どこう)・石室などをつくり、その中に死者を埋葬している。上石は花崗岩や玄武岩を使用し、大きいものは長さ約200cm
	、幅約150cm、厚さ約60cmにも及び、埋葬施設は素掘りの穴(土壙)や木棺であったと考えられる。副葬品として6号
	支石墓から打製石鏃6点、8号支石墓から柳葉形磨製石鏃4点が出土している。支石墓に副葬品が納められている例は非常に
	珍しく、特に柳葉形磨製石鏃の出土は朝鮮半島との交流を物語る貴重な資料である。使用した石は4km先の可也山から運ば
	れたと推測され、最大のものは5トン以上もある。

 

 

 


	糸島地方には、志登支石墓群の他に、志摩町新町遺跡、二丈町石崎矢風遺跡を初めとした支石墓が多く見られる。新町支石墓
	からは文様で飾られた美しい赤色や黒色の小壷が出土しており、前原市井田用絵(いたようえ)支石墓からは管玉が出土して
	いる。
		
	志登8号支石墓に副葬されていた柳葉形磨製石鏃(ませいせきぞく:上右)は朝鮮半島系のものであることから、この地に葬
	られたのは、朝鮮半島からの渡来人か、あるいは彼らとの関わりが深かった地元人であったことが推測される。
	磨製石鏃は、長野宮ノ前、新町遺跡からも出土しているが、こちらは埋葬されていた人の体に突き刺さっていたようで、当時
	集落間で激しい戦闘が行われたことをうかがわせる。






	かっては、古代の糸島半島は、海に突き出ている「志麻(しま)郡」と内陸部の「怡土(いと)郡」とに別れていて、ふたつ
	の地域は糸島水道によって分断されており、志麻郡にあたる部分は島であったと考えられていた。しかし最近の縄文時代の海
	面変動の分析や地質調査、海生動物の化石分布調査、遺跡発掘調査の分析などから、上図のように、縄文時代以後の糸島半島
	は、泊−志登間では、南北に陸地としてつながっていた可能性が高いとされている。
	怡土と志麻が元来陸続きであったとすると、泊−志登地区が両地を結ぶ橋の役目を果たすとともに、東西から入り込んだ湾の
	接点に位置しているため、伊都国の海の玄関口として重要な位置にあった事が推測できるのである。

	また、志登支石墓群の近くにある「志登神社」(下)周囲は、古代の糸島水道にあたり、海神である豊玉姫命や和多津見神を
	祀っていたものと思われ、古代は、海より参拝していたらしいとも言われる。




	[名称] 志登支石墓群 
	[内容] 国指定史跡。朝鮮半島の文化要素を強くうけている墳墓群で、支石墓4基、甕棺墓8基が見つかっている。
		 弥生時代前期〜中期のもので、北部九州に多くみられる墳墓。見学無料。 
	[所在地]福岡県前原市大字志登586(田圃の真ん中にぽつんと残されている。)
	[交通] JR波多江駅から徒歩10分(ガイドブックは20分となっているが10分もかからない。)
	[駐車場]なし(田圃のあぜ道でUターン。すれ違ったら離合出来ない。)
	[問合せ]前原市文化課 電話:092-323-1111  発掘品は<伊都歴史資料館>にある。092-322-7083
	(前原市観光協会ガイドブックより:カッコ内は筆者)



春先の「志登支石墓遺跡」と「可也山」(前原市観光協会ガイドブックより)


	【参考:「百済の旅」に記載した<屯山(グンサン)先史遺跡>「支石墓について」】
	上下の墓制は支石墓と言われる葬送の様式である。朝鮮半島では、紀元前1000年から紀元前後くらいまで続いた無文土器時代
	に盛んに営まれたようだ。支石墓は、単独ではなく、数基から数百基が群をなして一つの墓域を形成している事が多い。朝鮮
	半島全体では2000基くらい存在しているが、その半数が朝鮮半島南部の全羅南道、慶尚南道に集中しており、ほかにソウル周
	辺にも少しはある。
	朝鮮半島では、この頃青銅器文化がようやく流入し、後期無文土器時代には鉄器も使用され始める。日本では縄文後期から弥
	生中期にかけてである。
	朝鮮半島では、支石墓は3通りに分類され、(1).石棺式支石墓、(2).卓子式支石墓、(3).碁盤式支石墓である。石棺式支石墓
	は石棺を地中に埋葬し、石棺の周りは積石で満たし、石棺の蓋の代わりに大きな上石をかぶせるもので、朝鮮半島全域から中
	国東北部に多い。
	卓子式支石墓は平安南北道、黄海南北道に多く集中するタイプで、二枚の板石の大きな平たい石を置いてテーブルのようにす
	る支石墓である。この支石墓の特徴は、朝鮮の古代の墓に多く見られる積石がほとんど無い、もしくは全く無いことである。
	碁盤式支石墓は別名南方式支石墓ともいい、高敞に代表されるような全羅南道、慶尚南道のものはほとんどこのタイプである。
	碁盤のような厚い上石を数個の支石で支え、上石の下に積石を設け、そこに埋葬する。
	支石墓は鉄器の流入によって衰退し、それはやがて囲石木棺墓に変遷していく。鉄器の使用が本格化するのは、その後の原三
	国時代になってからである。全羅北道の高敞の支石墓群は世界遺産にもなっている。

	我が国にこの墓制がいつ頃から普及したかについては諸説あるが、朝鮮半島とそんなに時期的なズレはないようだ。福岡県前
	原市大字志登にある志登支石墓群(しとしせきぼぐん:国指定史跡)や、同じく前原市大字曽根石ヶ崎支石墓(いしがさきし
	せきぼ)などは、弥生早期から中期(約2500〜2100年前)に築造されたと考えられ、佐賀県・福岡県を中心とした北
	九州地域に支石墓は広く分布している。熊本県でも、合志川と米井川に挟まれた位置にある藤尾支石墓群(ふじおしせきぼぐ
	ん)を最上流とした菊池川流域に多く分布している。長崎県には、壱岐・対馬を除けば、原山史跡墓群(はるやましせきぼぐ
	ん:島原)、大野台支石墓(おおのだいしせきぼ:北松浦郡鹿町町)など10数ケ所である。
	我が国における支石墓の様式は(1).石棺式支石墓が多く、大きな上石を用いる支石墓は、縄文時代の終わりから弥生時代にか
	けて朝鮮半島からもたらされたものと思われるが、糸島半島の新町遺跡ではその支石墓の下から、縄文人的な形態と抜歯風習
	をもった弥生前期初頭の人骨が出土した。いわば渡来系の墓に縄文系が埋葬されていたわけで、その解釈を巡っても論議を呼
	んでいる。
 	前原市大字志登の志登支石墓群では、支石墓10基、甕棺墓8基などが発見されており、上石は花崗岩や玄武岩を使用し、大
	きいものは長さ約200cm、幅約150cm、厚さ約60cmにも及ぶ。埋葬施設は素掘りの穴(土壙)や木棺、甕棺墓(か
	めかんぼ)であったと考えられている。副葬品として6号支石墓から打製石鏃6点、8号支石墓から柳葉形磨製石鏃(ませい
	せきぞく)4点が出土しているが、特に柳葉形磨製石鏃の出土は、朝鮮半島との交流を物語り、この地に葬られたのは、朝鮮
	半島からの渡来人か、あるいは彼らとの融合した人たちであったことが推測される。


	前原市は「魏志倭人伝」に記されている伊都国の所在地といわれ、弥生遺跡の宝庫である。志登支石墓群とは国道202号を
	挟んで反対側(南側)にある「伊都歴史資料館」に行けば、この地の古代の繁栄ぶりを実感する事が出来る。原田大六が発掘
	した、国内最大級の直径46.5pの変形内行花文鏡なども所蔵・展示されていて、その大きさに驚く。前原駅前の観光案内所で
	販売していた 1,000円の5分の1レプリカを買ってきたが、これではあの大きさの感動は伝わらない。実物大のレプリカも置
	いてあったので、親切なおばさんに値段を訪ねると、「さぁー、10数万円だと思いますけど。お買いになるなら聞いてみま
	しょうか?」「うっ、」



レプリカ(1/5)と本物(伊都歴史資料館蔵)




391K-JPEG。この遺跡から南部分を見た光景。左側の山にかっての飴土城があった。





 

福岡空港から載ったANA機と、YAHOO!の広告をデカデカとつけたスカイマーク機。スカイマーク健在なり!



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