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王陵の谷 太子町を歩く 歴史倶楽部 第36会例会 大阪府南河内郡太子町 2000.7.20



	炎天下の暑い夏の日、我が歴史倶楽部は日本版「王家の谷」、大阪府南河内郡太子町を訪れた。ここは「王家の谷」
	或いは「王陵の谷」と形容されるように、飛鳥時代の天皇達の陵がひしめいている。葬列は、飛鳥の都を発ち、竹内
	(たけのうち)街道を通って、ここまで来たのである。第30代敏達天皇から、用命天皇(31代)、推古天皇(3
	3代)、孝徳天皇(36代)達の墓がある。勿論、町の名前にまでなった「聖徳太子」の墓もある。


	大阪「あべの橋」から近鉄電車に乗って長野線「喜志」駅下車。駅前からバスで10分ほど行くとその名も「太子前」
	というバス停で下車。目の前に、太子の菩提を弔うために建てられた「叡福寺」がある。相当広い境内である。
	仏教を崇敬した太子らしく、墓は寺に守られて、並の天皇陵などより遥かに手厚い庇護を受けている。




	
	叡福寺の境内に、松井さんという人の庭先から出土した石棺が置いてあった。日本書紀によると、孝徳天皇の大化2
	年(646)に薄葬令が公布され、質素な墓を旨とせよ、とあり、墓制として、王(みこ)以上は、その内の長さ9尺、
	幅5尺と定められており、この石棺が納められていた石室もほぼ同様の大きさだった事から、この石棺に葬られた人
	物は王侯のものと推定される。また石棺の形式からも7世紀中頃にあたり、ほぼ、この令を適用した墓と言える。
 



 






	
	下は春日西之宮跡地と石標に書いてあったが、縁起もなにも無いので何の宮なのかさっぱり分からなかった。


	

	下は磯長小学校のグラウンド下の小さな墓地にあった石棺の蓋石である。小さな用水路の脇に生け垣があって、そ
	の中に墓地がある。大小10個ばかりの石塔が立っていたが、普通の墓標ではなく層塔になっているので、おそらく
	は叡福寺の僧あたりが埋葬されている墓なのだろう。この石棺の蓋も、この辺りの古墳から運び出されたものだと
	思われる。家型石棺の蓋で7世紀あたりの古墳から出たものだと考えられるが、こんな所にこんなものがあろうと
	は気がつかない。太子町には、今回は行かなかったが蘇我馬子の墓と地元で言い伝えられている石塔もある。写真
	を見る限り、小さな層塔なのでまさか馬子の墓だとは考えにくいが、地元ではそう伝えているのである。
 






天皇陵めぐり



博物館めぐり





	一通り古墳めぐりがすんだ後、竹内街道歴史資料館、近つ飛鳥博物館とめぐり今回の例会は終了。例によって、
	天王寺の居酒屋で反省会と相成った。反省点、「夏は、遺跡めぐりやめとこで!」


邪馬台国大研究・ホームページ  古代遺跡めぐり / 太子町