飯塚は炭坑の町として名をはせた。明治・大正・昭和前半に渡って、日本の基幹産業の礎となる石炭を産出し続け「筑豊炭 田」の名を広めたが、石炭産業の衰退とともに街も衰退していった。現在では往時の賑わいは見る影もないが、ボタ山や博 物館でかっての隆盛をしのぶ事ができる。
さて、そんな筑豊飯塚であるが、現在も残る遠賀川流域の古墳群はいずれもこのあたりに古代、権勢を誇った有力者たちが いたことをうかがわせる。遠賀川を遡り、大陸からの渡来人達が定着した場所だったのかもしれない。立岩遺跡は弥生時代 中期後半の集団墓であるが、その発見は全くの偶然であった。1963年6月1日、郷里の飯塚市立岩の堀田地区を歩いていた熊 本大学の学生、高島忠平さん(現佐賀県教育庁文化財課:吉野ヶ里の発掘で一躍全国的に有名になった。)は、ブルドーザ ーが切り崩している丘陵に甕棺の横腹を見つけた。すぐさま高島さんは工事を停止してもらい、教育委員会に連絡をとり工 事主にも協力を頼み1時間で「緊急発掘」の体制を整えた。 郷里の嘉穂高校郷土部(史学部)でかって遺跡に親しんでいたとは言え、この迅速さは尋常ではない。日没近い午後6時過 ぎ嘉穂高校、嘉穂東高校の郷土部員が発掘作業を担当し、大学生・高校生による第一次緊急発掘調査がはじまった。 6月4日に高校生が甕棺の石蓋を開けて中に鏡を発見した。高校生は高島さんに叫んだ。「鏡のごたるもんがある。」高島 さんは「バカ言え」と返答したがその高校生は続けて「銅剣のごたるもんもあるよ。」高島さんは夢ではないかと頬をつね ったと言う。この第一次発掘は6月11日まで続き、実に多くの副葬品と新たな考古学上の新発見をもたらした。遺跡の重要 性が判明したため県教育委員会・九州大学なども加わって「立岩遺跡調査委員会」が組織され、第2次、第3次と発掘調査 が行われた。3次調査の終了は1965年4月4日であった。
1963年発掘時の写真。この前年、同じ福岡県の須久岡本遺跡が、やはり県教育委員会と九州大学とによって発掘調査さ れ、その時の経験がこの発掘でも生かされた、と言う。またこの調査には高校生が多数参加し、甕棺や遺物のトレース作業 に大きな貢献を果たしたのも特徴である。
この発掘によって明らかにされた考古学上の新事実とは以下のような点である。 (1).前漢鏡6面が1つの甕棺から出土して、その出土状況が明らかになった。それ まで出土していた全国の前漢鏡は、ろくに調査もされず出土状況が判然としていなかった。 (2).鏡の状態がすこぶる良好であった。 報告書にはすべての鏡の拓本が記載されており、銘文がていねいに解読されている。飯塚市歴史資料館の嶋田光一さんは、 遺跡発見時小学生で発掘を見に行ったそうだが、出土した6面の鏡について「日本一美しい鏡」と言う。私も資料館で実物 を見たが、今まで見たどこの鏡より確かに美しい、と思う。 (3).38号甕棺の人物が付けていた腕輪が南海産のゴホウラ貝である事が判明。(九州大学から参加の永井昌文さんが 突き止めた。現九州大学名誉教授)以後、西日本で続々とゴホウラの腕輪が出土する。 (4).弥生時代の絹の発見。布目順郎氏(京都工芸繊維大学名誉教授)により、鉄剣、鉄矛に付着していた布が絹である 事が初めてあきらかになった。これにより、弥生中期既に九州では絹が使用されていた事が判明し、魏志倭人伝の記載より 250年も前の北部九州に絹文化が存在していた事が証明された。その後、絹使用は弥生前期まで遡る事になったが、北部 九州20カ所近くで弥生の絹が確認されている。 現在までのところ同時代の絹は、北部九州以外の地域では出土していない。