Music: Back'n the USSR 
手宮洞窟/フゴッペ洞窟  2000年 11月2日




手宮洞窟 北海道小樽市



	小樽市の手宮洞窟は、今からおよそ130年以上前、まだ北海道が「蝦夷地」(えぞち)と呼ばれていた頃の慶応2年
	(1866)に、神奈川県小田原市から朝里地区のニシン番屋建設のため出稼ぎに来ていた石工の長兵衛という人物が発見
	した。長兵衛は倉庫などを建てるための石を切り出している時、偶然この洞窟を見つけ、洞窟の壁にさまざまな彫刻が
	刻まれていることを地元の人々に伝えた。
	その後、この彫刻はさまざまな人々によって広く世の中に知られるようになる。明治11年(1881)に榎本武揚が学会に
	紹介したという説もあるが、小樽市の資料によると、「明治8年(1878)頃、開拓使(今の北海道庁)やジョン・ミル
	ン(英国人:地震・地質学者)によって彫刻壁画(以下壁画)の模写が発表されると、考古学界、人類学界の著名な学
	者達がこの地を訪れ、壁画の持つ意味について研究が行われるようになった」となっている。実際、ミルノによって始
	めて学術的な観察と発表が行われたようである。
	その後手宮洞窟は前面の岩が削り取られ、また洞窟の上に鉄道が敷設されたりしたため、当初の姿を徐々に失っていっ
	た。明治の中頃には雨よけの庇がかけられたり保存事業も行われ、大正10(1921)年には国指定の史跡になった。昭
	和24年(1949)にはブロンズによる模刻と保存覆屋の整備が行われた。発見以来120年以上経ち、風化、剥落の進
	行を防止し、貴重な文化財である手宮洞窟を後世に伝えるために、昭和61年から保存修理事業が開始され、約10年
	の歳月を要し平成7年に手宮洞窟陰刻面を全面保存する「手宮洞窟保存館」が完成した。

 

 


	当時の調査の結果、ある程度のことが判明した。壁画が描かれたのは今から1600年前頃の、日本の編年で言えば弥
	生時代末期から古墳時代にあたる「続縄文時代」とされた。その頃の北海道は豊かな自然の恵みを背景とし、縄文文化
	をさらに発展・継続させた狩りや漁、木の実の採集等を中心とした文化で、その文化圏は東北北部(新潟県あたり)か
	ら広くサハリンにまで及んでいた。この手宮洞窟の壁画と類似のものは、隣接する余市町のフゴッペ洞窟にあるだけで、
	他に日本国内では見受けられない。しかし、遠くアムール川流域や中国最東部、朝鮮半島北部などの日本海沿海側に数
	カ所見られる為に、これらの文化圏を共有していた民族の手になるものだろうと考えられている。シベリアのサカチ・
	アリアン遺跡の壁画にも手宮、フゴッペと同じような舟や角を持った人物の絵が描かれており、当時日本海を囲む大き
	な文化の流れがあったものと推測できる。なおフゴッペ洞窟の壁画も、手宮洞窟と同じ時期に彫刻されたものである事
	が確認されている。







	この壁画の持つ意味については、当初様々な説が発表された。最初、これは「文字」だという意見が強く、しばらくそ
	の解読を巡っての議論が続いたようである。俄学者がさまざまに「解読」して発表したりしたようだ。この手宮洞窟か
	ら発見された、酒を注ぐ容器らしい「後北式土器」(こうほくしきどき)と、北海道に分布する同類の土器には類似し
	た記号があり、これがアイヌのエカシシロシ(祖印)に発展したという説もあった。
	話は変わるが、一昔前にはやった歌謡曲に、鶴岡正義と東京ロマンチカが歌った「小樽の女よ」という歌がある。一時
	私の上司が小樽商科大学卒だったので、カラオケでさんざんこの歌を聴かされてすっかり覚えてしまったが、この歌の
	歌詞の中に「偲べばなつかし〜、古代の文字よ」と言う箇所がある。これは、まさにこの「手宮洞窟」の壁画を文字と
	する意見が強かった時代の余韻で作詞されたものだ。しかしその後の調査で、これは文字ではなく人物や舟や動物を描
	いた古代の彫刻と言うことに落ち着いた。




	ここに描かれた動物・人物像等は非常にユニークで、人物像の殆どは角を持っており、その角もウサギのように折れ曲
	がったものや、手に光線銃を持った宇宙人の様に見えるものもある(昔の解説では杖を持った、となっている)。写実
	的に描いた像もあり、抽象画のような模様もありさまざまであるが、学会の主要な意見としては、かって北東アジアに
	多くいたシャーマンを描いたものだろうという事のようだ。これにより「北部環日本海沿岸地方の精神文化」がかいま
	見える、と解説書にあるが、私には「ウサギのダンス」のようにも見える。手宮洞窟の彫刻は、石斧などによって刻ん
	だ後に磨いて仕上げたものと推定されている。発掘調査では、彫刻を刻んだ岩や続縄文時代の土器などとともに、刃の
	部分が傷んだ石斧も出土した。
	現在の洞窟は建物で覆われ、彫刻絵画は硬質ガラス越しに眺められる様になっているが、照明は薄暗く資料にあるほど
	ハッキリとは見ることができない。掲示されている模写図と見比べて、これがここで、あぁこれがそうか、と分かる程
	度である。見学は無料。



 

 

 





 



		小樽市手宮洞窟保存館
		〒047-0041 小樽市手宮1丁目3番4号  TEL 0134-24-1092

		小樽市教育委員会社会教育課
		〒047-0024 小樽市花園2丁目7番7号  TEL 0134-32-4111  FAX 0134-33-6608



その後調べた文献によるとこういう事のようだ。


	『榎本武揚が明治11(1878)年この刻画をみて驚き、模写して東京大学に送った。それがお雇い外人でイギリス人教師
	ジョン・ミルンの耳に入り、翌年夏小樽に駆けつけたミルンは洞窟を丹念に観察し、刻画をスケッチして、帰京後すぐ
	英国協会の会報に発表した。その中で、本刻画がのちの”古代文字”と称されるもとになった「ルーン文字」(ゲルマ
	ン民族が3-12世紀頃までスカンジナビア半島からドイツ北部で使っていた文字)に、もしくは中国の文字に似ていると
	伝えた。続いて1913年に東大理学部講師の鳥居龍蔵が視察して、「古代トルコ文字であろうという説を出した。それを、
	言語学者の中目覚(なかのめさとる)が発展させて、本刻画は古代トルコ文字を応用してつづられた靺鞨語(まっかつ
	ご)であると説いた。そして「我は部下を率い、大海を渡り・・・闘い・・・この洞窟に入った」と読んだ。
	(「歴史と地理」1巻6・7号)

・・・・・・(略)・・・・・・


	しかし中には批判的な意見もあった。1895年(明治28年)に設立された札幌人類学会創始者の関場不二彦は、早くから
	現場を訪ね疑問をはさんでいた。会員で開拓使の役人であり、後に札幌神社宮司となる白野夏雲は、開拓使時代に物産
	調査のため小樽に行った際、部下が洞窟の壁にいたずらに文字様のものを彫ったことがあるので、それが喧伝され、手
	宮の彫刻になったと発表した。他にジョン・バチェラーや河野常吉もこれを古代文字とする説に反対であった。それや
	これやで、手宮洞窟の刻画は、発見当初から北海道のみならず、中央の学会をも巻きこんだ大論争となっていくのであ
	る。
	さて手宮洞窟の刻画が古代文字なのかどうか、真贋はどうかの大論争が続いた事はすでに触れた。ここでもう一人、郷
	土を愛する小樽人をあげなければならない。地元手宮小学校長を努めながら、それまでの偽刻説に対し、真摯な努力を
	続けてきた篤学の士、五十嵐鉄その人である。
	五十嵐は手宮洞窟の保存と顕彰に熱意をいだき、非常な努力を払って発見当時の状況を多くの古老から聞き集め、関連
	資料を十分に検討し「史跡手宮洞窟の新研究」(1937)にまとめた。その結論として、白野夏雲部下のいたずらをした
	彫刻というのは、場所を事にするものである事が分かった。また、関場不二彦にも示し賛同を得たものであった。五十
	嵐の努力はまことに賞賛すべきものであった。ここに偽刻説は一掃され、さらに前に述べた余市市フゴッペ洞窟の発掘
	によって同類の刻画が発見され不動の位置を得た。』
	【野村崇(のむらたかし)著:「北の考古学散歩」(北海道新聞社 2000年7月1日1刷発行)より】



フゴッペ洞窟 北海道余市郡余市町


  




	余市湾の海岸近く、地元では丸山と呼ばれている丘陵の麓に洞窟が開口したのは、昭和25年の春である。海水浴に来て
	いた札幌の中学生が偶然洞窟に入り、内部に彫刻された壁画を発見した。発見時は、子供が腹這いになってやっと通れる
	程の穴だったそうである。
	正式な発掘調査は、昭和26年から28年にかけて行われた。その結果、洞窟は開口、奥行きともに7m、高さ8.2m、内部
	には6.5mの高さで貝層が堆積しており、十数基の炉跡や、続縄文時代後半(本土の編年では古墳時代に相当する)の土器
	や石器、骨角器が大量に出土した。
	問題の彫刻は、柔らかい凝灰岩の壁に彫り込まれており、その数は609に達し、同時代の小樽市「手宮洞窟」の規模を
	大きく上回っている。描かれた彫刻には、角・翼を持った動物の仮装をした人物像、舟と漁師、狩人、魚、四足獣や海獣
	のようなものを表現したものもあり、シャーマン的な要素が強く、フゴッペ洞窟自体が古代人の宗教的儀礼の場であった
	と見られている。昭和28年に国指定の史跡となった。

 

 

 





	彫刻の中心になっているモチーフは、角や翼を持った人物像で、北東アジアによく見られる鳥の羽や鹿の頭部をかぶって
	仮装したシャーマンに類似している事から、この洞窟の彫刻壁画は小樽市「手宮洞窟」の彫刻壁画と並んで、続縄文時代
	の北海道と北東アジアとの交流を探る上で貴重な資料とされている。



 

 

 





 

 

 

 

 

 

 


	又その後の調査では、洞窟前庭部の土礦墓から北海道では珍しい太刀や鉄鏃などの武器類が出土した。太刀は2振りあり、
	どちらも7世紀中頃の本州製と確認された。洞窟に彫刻が刻まれてから3世紀ほど後に、本州からの太刀が前庭部とは言
	え、同じ洞窟に奉納(?)されていることは、この洞窟が宗教的儀式の場として長く使用されていた事を物語っている。








	洞窟は岩質がもろく彫刻の風化が著しいため、昭和47年に、日本で始めてのカプセル保存方式を採用し、温度・湿度を一
	定に保つようにした保存施設が建てられた。硬質ガラスのおかげで誰でも見学できるようになっている。こちらは「手宮
	洞窟」と違って図柄がわりとよく見える。また出土した様々な遺物も一部この館内に展示されている。
	見学は有料(2000.11現在 200円)である。



	余市町フゴッペ洞窟
	北海道余市郡余市町入船町21番地   TEL 0135-22-6170








	この二つの洞窟に刻まれた壁画(線画)はおそらく、同じ民族によって製作されたものだろう。北九州を中心とした西日
	本に、朝鮮半島、中国大陸からどっと弥生人達が渡来して来ていた頃、北の地方では、遙かユーラシア大陸の北東方を南
	下した民族が、サハリン、シベリア、北東中国とその文化圏を同じくしていたのだ。何という雄大で壮大なイメージだろ
	うか。そして北海道でもその民族は、日本本土とは違った文化を育んでいたに違いない。やがて大和朝廷の影響がヒタヒ
	タと押し寄せて来ることにはなるが、実質的にはこの大地は、明治期を迎えるまで独自の空間を保有する事になるのであ
	る。




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