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静岡県・登呂遺跡 99.4.24(土) 戦後・我が国初の弥生稲作の遺跡






 


	我が国弥生時代遺跡の代表とも言うべき「登呂遺跡」は、戦時下の昭和18年に発見されていたが本格的な発掘調査は戦後の
	昭和22年に開始された。戦後の動乱期にあって、人々の心も不安と絶望感が支配していたのか、この遺跡発見のニュースは
	非常な関心を呼び起こしたようである。
	東京大学に「静岡市登呂遺跡調査会」が組織され、あらゆる分野の研究者達が参加した。歴史・考古学、人類学はもとより、
	土木・水利・河川工学、建築、地理学者等も参加している。かってない総合的な体制で開始されたこの調査はマスコミもこ
	ぞって取りあげ、広く国民の関心を呼んだ。国会は超党派で予算を可決し、調査は25年まで継続された。次々と報告される
	成果は、敗戦に打ちひしがれた国民に、「皇国史観」から解放された、明るい、自由な歴史学の息吹を感じさせた。登呂遺
	跡に続きその後各地で稲作・水田跡の遺跡が発見され、現在では縄文時代の遺跡からも水田跡が発見されたりしているが、
	当時は我が国は勿論、世界でも初めて出現した水田跡であった。
	遺跡からは、水田跡をはじめ水路や畦道、木製品、住居跡12棟、高床式建物2棟などが発見され、人口 5,60人の集落である
	と判定された。
	考古学史上、東国の弥生時代遺跡としてはじめて集落が一つの単位で出土し、科学的に確認された歴史的な瞬間であった。
	遺跡には建物が復元され、昭和27年国史跡に指定された。登呂遺跡は教科書に載り、戦後の科学的な実証主義に基づく新・
	考古学の原点となった。



	JR静岡駅からタクシ−で5,6分くらいの所に登呂遺跡はある。南北に史跡公園が広がっており、以下は北から南へ歩いたと
	きのもの。縦断距離は500m位だ。

 



 



 

 

 

 

 

 



 


	登呂遺跡の集落は、静岡平野の安倍川水系の土砂が堆積してできた自然堤防の上にあった。水田は集落の東南側に位置し、
	幅約 250m、長さ約400mの範囲、ほぼ8ヘクタールに40面ほどが確認されている。水田地帯は東北に高く西南側が低くなっ
	ており、水田に水を蓄えるため高い側に杭を低い側に矢板を打ち込んであった。又畦道とは別に長さ約 400mの水路も設け
	られていた。さらに、水路の途中に少なくとも2ケ所に堰きがあり、水位調節や分水などの役目をしていたと推定され、か
	なり高度な水利と土木技術をうかがわせる遺構である。

下の写真は水田跡を復元したもの。畦道を渡って見学できるようになっており、
現在でも付近の小学生の手で稲作が継続されている。

 

公園の南側に博物館が建っている。登呂遺跡からの出土物はここで見る事ができる。

 


	博物館の前ではツツジが満開であったが、その花々の中に弥生時代の人々の生活ぶりを再現したブロンズ像が建っている。
	水を運ぶ女性、土器を作る男性など生き生きとした人物像を再現してある。

 

 





博物館の1階外側に水を張って、復元された丸木船が浮かべてある。




	登呂遺跡からは井戸の跡や森林跡なども発掘されているが、当時の人々が使っていた農機具や生活用具、特に大量の木製品
	の出土は注目を集めた。クワ、スキ、田下駄、などの農機具の他に、皿、お盆、鉢、腰掛けなどの生活用具がほぼ完全な形
	で出土している。
	また、機織り器具の一部や漁具、衣服の断片、勾玉・青銅製腕輪などの装飾品、穀物や果物の遺骸・種、鳥獣魚類の骨、壺
	型や甕形の弥生土器なども大量に出土している。のち各地の弥生遺跡で出土する遺物のほとんどが出土しているといっても
	いい。


 


	縄文の「大森貝塚」と並んでこの「登呂遺跡」もあまりにも有名な遺跡である。義務教育を受けた人でこの二つの名前を聞
	いたことの無い人はまず居ないだろう。「大森−」の方は外国人であったが、登呂は、我が国が初めて科学な学問としての
	検証・実証を行った弥生時代の遺跡であった。世界初の弥生時代水田跡の発掘とその分析・検証は、その後に続く考古学・
	歴史学、その他関連分野の礎を築いたと言っていい。こんにち歴史学の分野は、遺伝学や放射能学や医学など、関連する多
	くの自然科学分野の支援も仰いでおり、それによって総合的な「人間学」としての段階を迎えているが、「登呂遺跡」はま
	さしくその開始点となった遺跡なのである。























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