大昔の人々は、どんな所に住み処を求め、また、何を食べて生活していたのであろうか。この疑問に応えるように、最近、 国分市上野原で今から9.500年前の縄文人が定住した住居跡や調理場である集石炉ならびにくん製をしたとみられる連穴 土坑、それに縄文後期の狩猟のための落とし穴などが検出され、当時の人々の生活の場が、今や再現されようとしている。 しかし、この遺跡からは縄文人が食べたであろう動物の遺体は全く検出されていない。これはおそらく火山灰による酸性 土壌のために、骨や貝殻のカルシウム分などが溶解し、跡形もなく消失してしまったのであろう。 それでは縄文時代の南九州、特に鹿児島にどんな動物が生息していたのだろうか。それを知るためには縄文人が遺した貝 塚や洞穴などの遺跡から出土する残揮を調べるとよくわかる。これまで鹿児島では薩摩半島の北から南へ出水、江内、麦 之浦、市来および草野貝塚や黒川洞穴、大隅半島の中岳、片野洞穴、それに南西諸島の宇宿、面縄、犬田布貝塚など25カ 所の縄文前期から晩期の遺跡から動物遺体が検出されている。 それらはイノシシ、シカ、カモシカ、ツキノワグマ、オオカミ、イヌ、タヌキ、アナグマ、カワウソ、テン、イタチ、オ オヤマネコ、ノウサギ、アマミノクロウサギ、ムササビ、ネズミ、モグラ、コウモリ、サル、アシカ、クジラ、イルカお よびジュゴンの歯や骨であり、少なくとも 9目23種の哺乳類が生息していたことがうかがわれる。これらのうちイノシシ は、全遺跡から出土しており、また、出土量(骨片数)が最も多いことから、当時の人々の重要な狩猟獣であったことが 想像される。しかし、南西諸島のイノシシは、小形でリュウキュウイノシシに似て、本土のものとは種を異にしている。 また、現在わが国では絶滅しているオオカミや九州で初めて市来貝塚から出土したオオヤマネコ、それに現在生息が疑わ れているカワウソなどが鹿児島県本土の遺跡から出土したことは当時の動物相を知るうえに非常に貴重な資料である。 一方、南西諸島からはシカ、サル、タヌキ、アナグマなどの出土例は全くなく、ジュゴンやアマミノクロウサギ、それに ケナガネズミなどネズミ類の出土が多いことが特徴的であり、トカラ海峡(渡瀬ライン)を境にすでに南と北では動物相 が異なっていたことは非常に興味深い。 以上の哺乳類の他に、キジ、ヤマドリ、カモ、ツルなどの鳥類、ウミガメ、イシガメ、などの爬虫類、両生類のヒキガエ ル、甲殻顛のモクズガニ、タイ、サメ、ハタ、マグロなどの魚類や沢山の貝類が出土している、これらのことから、当時 の人々の食生活を想定すると、春には野山に山菜を採り、夏には海辺に出て魚、貝類を、秋には山野の木の実を採集し、 冬はイヌを伴侶として弓矢や落とし穴などで鳥獣を狩猟して、食膳を賑わしていたことが想像される。 「日本文化の原点・国分上野原シンポジウム」国分上野原シンポジウム実行委員会発行(平成10年8月25日発行第3版)より。
上野原遺跡第3工区では、平成4年度から平成6年度までの3年間にわたり発掘調査が行われ、約90000汀fの範囲に縄文時代早 期後半(約7500年前)の時期から中世(約 500年前)の時期まで人々が断続的に住んでいたことがわかった。その中で、約 10万点の土器や石器が出土した縄文時代早期後半の時期が特に注目される。 この時期に造られた施設の中では、壷形土器や鉢形土器を立てた状態や寝させた状態で埋めた掘り込み群が重要である。 このような掘り込みは全体で12基が見つかっているが、これらは上野原台地の中では標高が最も高い尾根状の約 300rdの範 囲に集中していた。その中で、ほとんど破損のない壷形土器を2個体並べて埋めていた掘り込みは、それぞれの土器を安定 させるためか、掘り込みの下面では土器の下の方の大きさにあわせた小穴が掘られており、これらの土器を大事に保管する 工夫がこらされていたことがうかがえる。 さらにこれらの掘り込み群が集中する範囲では、ほかの区域に比べて土器や石器の出土量が極端に少なくなる一方で、実用 品とは思えない異形(いけい)石器などがこの範囲に集中する傾向が指摘できる。これらのことから、埋められた壷形土器 等は日常使われた土器とは異なり、祭祀に使われた土器であり、この範囲は「祭祀の場」ではなかろうかと考えられる。 さらに重要なのは、蒸し焼き料理を作るための調理場と考えられる252基もの集石遺構が、壷形土器などを埋めた掘り 込み群を取り囲むようにして見つかったことである。この区域では集石遺構で使用した後に散乱したと考えられる焼け石が 多量に出土した他、土器や石器も足の踏み場がないほど密集していた。これらの状況からこの区域は「調理の場」として使 われていたと考えられる。 出土遺物の大半を占める土器は、通常見られる深鉢形土器だけでなく、数多くの壷形土器や、小型土器・ミニチュア土器・ 椀状の土器などが見られるはか、深鉢形土器や壷形土器には大型土器・中型土器・小型土器とに器種が分かれ、豊富な種類 の土器を使い分けていたことがわかってきている。 石器は、狩猟用の右舷(せきぞく)、動物解体用の石匙(いしさじ)やスタレイバー、ドングリの調理などに用いられた磨 (すり)石・敲(たたき)石・凹石・石皿(いしざら)、木材伐採用の石斧、そのほか環状石斧・異形石器など多種多様な 石器が出土した。石材は黒耀石・安山岩・石英・鉄石英など種類も豊富で、用途ごとに石材の選択が行われていたようであ る。また黒耀石では、長崎県針尾島系や佐賀県腰岳系さらに大分県姫島系と思われるものが出土し、広い交易の存在をうか がわせている。 土製品や石製品には、土偶・耳栓(じせん)などが出土した高さ 5.5cm、幅5cm、厚さ1.5cmの板状をなし、頭、腕、乳房 を表現している土偶は、病人やけが人の身代わりとして祭祀に使われたとされ、縄文文化の代表的な遺物の一つである。 今まで、九州では約 3500年前の土偶が最古とされていたが、今回の発見で、縄文時代早期後半の時期からすでに九州でも 縄文文化を完成させていたことが明らかになった。現代のピアスのように使われた耳栓には土製と石製とがあり、土製には 滑車形耳栓と臼形耳栓との二種顛が、石製には臼形耳栓が出土している。滑車形耳栓には沈線文などで装飾を施したものや 赤色顔料を塗布したものがある。 縄文早期後半の上野原第3工区遺跡が示した、遺跡の広さや出土遺物の質量の豊富さそして祭祀に用いられたらしい特殊な 施設や遺物は、定住に近い社会および高度な精神文化が南九州のこの時期に発達していたことを物語っているのではないだ ろうか。 「日本文化の原点・国分上野原シンポジウム」国分上野原シンポジウム実行委員会発行(平成10年8月25日発行第3版)より。