ここの古墳群は4世紀から7世紀にかけて築造されたものと考えられている。全体的に巨大な古墳が多く、大型の前方後円 墳である2号墳と4号墳は、近辺海路を支配した強大な権力を持っていた豪族の墓だろうと推測できる。4号墳は全長88 m、後円部の直径58m、高さ10mあり、前方部は幅35m高さ6mある。その規模及び副葬品の質、量ともに山陰第一 級と言われる。墳丘上には葺石(ふきいし)が貼られ、埴輪が立て並べられていた。後円部中央には長大な竪穴式石室があ り、中から木棺と三角縁神獣鏡など5面の鏡、玉(硬玉製)、鉄利器(刀剣、農機具)、石剣、車輪石等が出土した。それ ら副葬品の多くは羽合町歴史民俗資料館で見ることができる。墳丘の施設、石室の構造、副葬品の組み合わせなどから、近 畿地方の古墳に類似しており、大和政権下に属した初期の古墳と考えられる。石室以外にも墳丘内に数多くの埋葬施設が造 られている。
羽柴秀吉は天正9年(1581年)織田信長の命により中国攻めの軍を進め、鳥取城を陥落させ、ついで羽衣石城の南条元続救 済のため伯耆に進出し、御冠山に布陣して馬ノ山の吉川元春軍(毛利方)と対峙した。秀吉軍の兵力6万、迎え撃つ元春軍 は6千であったが、元春は大軍を迎えても動ぜず、橋津川の橋をことごとく落とし、備えていた数百の船はすべて陸に揚げ、 櫓(ろ)は残らず折り捨てて背水の陣をひいた。秀吉は元春の覚悟の程を知り戦わずして軍を引き上げ、元春も馬ノ山を開 陣して出雲へ引き上げた。秀吉・元春の両雄は互いにその器量を認めあい、戦わずして別れたのであった。