Music:Panny Lane 2


弥生町2丁目遺跡
2000・8・19 − 弥生時代の命名土器の発見地 −




	「弥生」時代の名付け親になった「弥生式土器」の発掘された場所である。東京都文京区弥生町。今はもう発掘場所の特定
	さえ出来ない。住宅が建てこんで、東京大学が辺り一帯を占拠し、最初の発掘場所が分からなくなってしまったのである。
	有力な候補地は、東京大学工学部9号館(工学部プラズマセンター)の建物の下と考えられるが、この建物が移転でもしな
	い限り確かめるすべはない。

	下は顕彰碑の50mほど手前にあった、この辺りの弥生遺跡についての説明板。奥の林の中に有名な「安田講堂」がある。私の
	受験時にここに学生達が立てこもって東大入試が中止になった。そのせいで私もこの大学にはとうとう入れなかった。
	(ほんまかいな?)

 

以下、説明板に書かれている内容。(字がかすれていて、2,3判別困難な文字があった。)


弥生式土器の発見地

○弥生式土器の発見 明治17年、東京大学の坪井又五郎、臼井光太郎と有坂修(?)蔵の三人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼きの壺を発見した。これが後に、縄文式土器とは異なるものと認められ、町名をとり弥生式土器と命名された。この遺跡は、考古学上重要な遺跡で、向ケ岡遺跡といわれる。
○向ケ岡遺跡はどこか この遺跡の位置は、その後、都市化がすすむなかではっきりしなくなり謎とされてきた。
推定地としては、次の三カ所が指摘されている。(左の図参照)
@東京大学農学部の東外門(サトウハチロウ記念館付近)
A東京大学農学部と工学部の境(現在地付近)
B根津小学校の校庭内の崖上
○弥生二丁目遺跡の発掘 (図のCの地点)昭和49年春、根津小学校の児童が、東大校内旧浅野地区の工学部九号館わきで、倒れた木の根元から土器片や貝殻を採集した。これがきっかけで、発掘調査が行われた。そして明治17年発見の弥生式土器に極めて類似する土器が出土した。(弥生二丁目遺跡として国の史跡に指定)
○弥生式土器の発見地 根津の町を眼下に見、不忍池を望むとされる最初の弥生式土器の発見地(幻の向ケ岡遺跡)の位置は、継承の推定の三地点が崖段から離れていたり、不忍池が見えなかったりで適当でないと言われる。
弥生二丁目遺跡(図のC地点)は、文献上からも出土品からも、最初の弥生式土器の発見地に近似(?)するという考え方が有力である。なおこの遺跡は調査後埋め戻された。

文京区教育委員会 昭和58年2月







	東京大学工学部の片隅に顕彰碑が建ててある。さすがに特定できないので、「発掘点」ではなくて「ゆかりの地」となって
	いる。工学部はこれを建てることで、構内にあった「国指定、弥生2丁目遺跡」を潰してしまったのである。「文学」が
	「工学」に負けた記念碑でもある。

 


	下、東京大学工学部9号館(工学部プラズマセンター)の建物。中で職員に発掘場所の事を聞いたら「いやー、この辺りと
	言う事は聞いてますけどねぇ。今はもう分かりませんねぇ。ここらへんは掘ったら沢山(土器が)出るらしいですよ。」と
	の事だった。構内で色々尋ねた学生達は、さすがに皆利発そうな顔つきをしていた。

 





	下は、平成14年6月9日、大阪府和泉市にある「大阪府立弥生文化博物館」に「丹後半島−青いガラスのきらめき展−」
	を見に行った時、展示してあったこの遺跡から出土した土器の実物である。平素は東京大学にあったんだ。

 






邪馬台国大研究・ホームページ  古代遺跡めぐり / 弥生時代の名付け親