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吉武高木遺跡

紀元前2世紀、 福岡市西区早良平野にあった、 弥生初期の早良王国 1998.12.18




「吉武高木遺跡」は福岡市の西区早良平野にある。飯盛山山麓に広がる扇状地で、真中を室見川が流れ南には佐賀県と境を接する背振山系がひかえている。川を下れば程なく玄界灘にいたる場所である。このあたりは吉武遺跡群として知られ、高木遺跡以外にも「吉武大石遺跡」、「吉武桶渡遺跡」などが弥生の遺跡として有名である。又近くには弥生後期から古墳時代にかけて大集落があったと推定される「野方遺跡」も復元住居をともなって公開されている。
「吉武高木遺跡」は弥生前期末から中期初頭の遺跡で、「多紐細文鏡」(たちゅうさいもんきょう)をはじめとする鏡や青銅器、勾玉など、豪華な副葬品が出土した事と、弥生前期としては初めての、「高殿」と呼ばれる大型建物の跡が発見された事により一躍有名になった。





	建物の階段上に回廊を巡らした「高殿」は、この後同じく福岡県の甘木市平塚川添遺跡でも発見されたが、高木遺跡のもの
	は年代的に平塚川添遺跡より200〜300年前、紀元前2世紀頃のものであろうと推定されている。この遺跡は甕棺墓を
	主体とする遺跡で、甕棺墓34基、木棺墓4基が350平方bの範囲に整然と埋葬されていた。「多紐細文鏡」はこれまで
	北九州を中心に9面しか出土しておらず、非常に希少価値の高い鏡である。
	直線と円を組み合わせた文様の独特さ、一般の古代鏡と違って凹面鏡である事、日の光を受けたとき文様が消えたり現れた
	りする現象、等々からこの鏡の使用用途についてもさまざまな想像をかき立てられる。
	北九州ではこの時期埋葬方法としては甕棺墓によるものが圧倒的で、そんな中に木棺墓による埋葬が4基もあり、しかも木
	棺墓のなかから多くの豪華な副葬品が出た事から、学者によってはこれらの木棺墓の主は王族で、彼らが支配したクニであ
	る「早良王国」の存在を主張する人々もいる。紀元前後に王国は隆盛し、やがて伊都国か奴国に滅ぼされたと言う(元大阪
	市立大学名誉教授鳥越憲三郎氏等)。
	いずれにしても、出土品や建物跡から見てこの地の被葬者達が朝鮮半島と強いつながりを持った人々であった事は想像に難
	くない。

	上下の写真は、福岡市板付にある「福岡市立埋蔵文化財センター」に展示してあるこの遺跡関連の案内。このセンターは無
	料で、休館日(月曜と年末年始)以外は誰でも自由に見学できる。9時〜5時(入館は4時30分)。





発掘当時の吉武高木遺跡。





	朝鮮半島との結びつきが強い中、糸魚川産のヒスイが発見されるのは興味深い。当時の人々は、朝鮮からも糸魚川からも同
	じように貴重な宝物を入手していた事になる。面白い事に、この後4世紀以降になって朝鮮半島の遺跡からは糸魚川産のヒ
	スイが数多く出土するのだ。古代の人々の交流経路や血脈の交流を想像すると興味は尽きない。






	下の「高殿」復元は、若林弘子氏によるもの。このような廻り縁付きの高床式建物の用途は一体何であろうか? 倉庫では
	ない。前出の「平塚川添遺跡」では、倉庫はあきらかに別棟として存在していた。では王の住居だろうか? もしかしたら
	「卑弥呼」もこういう建物で暮らしていたのかもしれない。
	おおかたの意見では、古代の人々が祭祀に用いていた祭殿だという事になっているが、紀元前に果たして、人々の祭る「神」
	の概念が存在していたのかを疑問視する声もある。




	福岡市営地下鉄で「姪浜」までいきタクシーで遺跡を見に行った。タクシーの運ちゃんは遺跡が何処か知らなかった。
	あちこち聞きまくって探し当てたその場所には、ただ説明板が立っているだけだった。「運ちゃんは何を物好きな」という
	顔をしていた。

下の2枚の写真は、説明板をクリックすると大きくなります。



	今はすっかり埋め戻されて元の田圃に戻っているが、復元して保存すると言う話も持ち上がっている。
	下右の写真を見ていただきたい。遠景の山は飯盛山である。このHPの最初の発掘現場の写真に写っている。



	高木遺跡から時代が下って弥生後期、古墳時代にもこの吉武地区には墳墓が築造される。副葬品も多い。しかしその頃にな
	ると、「漢書」に言う倭国の「百余国」にはもはや含まれず、周辺の強国に支配従属されていたとされている。
















福岡市立埋蔵文化財センター


	吉武高木遺跡出土の主な遺物は「福岡市博物館」に展示されているが、残りの出土物はここに展示されている。
	ここには、福岡市の他の遺跡からの出土物も多数展示されているが、訪れた時(平成10年12月)は吉武高木遺跡のものが多
	かった。サイクルを決めて展示物の入れ替えが行われているようだ。



 



倭人伝の屏風の前に吉武高木遺跡から出土した土器やその破片が展示されていた。






センターの他の部屋には未整理の出土物が置かれていた。
整理を待つ出土物の中に、思いがけないものが隠れているかもしれない。








2010年夏、西日本新聞に載った記事。ちなみにこの記事は私の友人調(しらべ)君が書いた。




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	『吉武高木遺跡を史跡公園に』	2012年03月06日 07時10分 NHK福岡

	王の墓としては国内で最も古い弥生時代前期の墓が発掘された福岡市西区の「吉武高木遺跡」について、福岡市は、多くの市民に知って
	もらおうと、平成24年度から史跡公園として整備することになりました。
	「吉武高木遺跡」では、王の墓としては国内最古の弥生時代前期の墓や、集落の跡などが見つかり、平成5年に国の史跡に指定されまし
	た。発掘調査などのため市民は立ち入ることができませんでしたが去年、調査が終わったことを受けて、福岡市では、多くの市民に遺跡
	を知ってもらおうと、遺跡の面積の半分を超える2万3400平方メートルを史跡公園として整備することになりました。具体的には、
	当時の谷や丘を復元して、丘の上に展望台を整備するほか、当時の人が埋葬された甕棺墓が多数見つかった場所に甕棺墓の複製品を展示
	して、遺構ゾーンとして整備します。福岡市は、平成24年度から4年間で、およそ2億7000万円をかけて、史跡公園を整備する方
	針です。
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