Music: sakura





	友人の大隈君と、京都東山の「泉屋博古館」に青銅器を見に来た。その後、大隈君が東山など歩いたことが無いと言うので、二人
	で歩く事にした。私はこの辺りにある天皇陵を訪ねて2,3度きたことがあるが、寺社仏閣はじっくり見た事が無かったので、こ
	れを機会に訪ねて歩くことにした。

	京都・東山 出典:ウィキペディア

	東山(ひがしやま)は京都盆地の東側にある山の総称である。またその山麓の地域を指すこともある。北は比叡山(京都市左京区、
	滋賀県大津市)から南は稲荷山(京都市伏見区)までとするのが一般的である。狭義には、比叡山を含めず山中越の南の如意ヶ嶽
	(大文字山)(京都市左京区)から南を指す向きもある。
	「東山」とは一つの山系の名ではなく、京都の中心部から見て東に見える山を指す。したがって、他の山と鹿ヶ谷で隔てられてい
	る吉田山が含まれる一方、比叡山の北に連なる比良山系の山は含まれない。「東山」の呼称は古くは平安時代にも用いられたこと
	があるが、一般的になったのは室町時代以降である。

	京都から東の山科盆地・近江盆地方面へ向かうには東山を越えなければならない。これには以下のようなルートがある。
	山中越左京区北白川から、瓜生山と大文字山の間の山中越を経て、大津市の志賀に至る。京都府道・滋賀県道30号下鴨大津線。志
	賀越の道とも呼ばれる。途中に比叡平の住宅地があり、比叡山頂に向かう比叡山ドライブウェイが分岐する。日ノ岡越東山区粟田
	口(蹴上)から、日ノ岡を経て山科区御陵に至る。京都府道 143号四ノ宮四ツ塚線。旧東海道(現三条通)であり、地下を京都市
	営地下鉄東西線が通る。かつては京阪京津線が三条通の路上(峠の部分は三条通に接した南側の専用軌道上)を走っていた。また
	琵琶湖疏水もほぼこのルートに沿っている。東山トンネル国道1号(五条バイパス)、東海道本線、東海道新幹線はいずれも東山
	区南部からトンネルで東山を抜ける。トンネルの名はすべて「東山トンネル」である。国道1号東山トンネルは渋谷街道(京都府
	道116号渋谷山科停車場線)と重複している。国道1号東山トンネルの北側にある現在は歩行者用のトンネルがかつての渋谷街道の
	トンネル(花山トンネル)である。滑石越東山区今熊野から南東方向に東山を越えて山科区西野山に至る。京都府道 118号勧修寺
	今熊野線。醍醐道とも呼ばれる。極めて細い道である。稲荷山トンネル伏見区深草の鴨川東出入口から、稲荷山トンネルを経て山
	科区西野山の山科出入口に至る。阪神高速8号京都線(新十条通)の一部である。大岩街道名神高速道路は稲荷山の南、大岩街道
	(滋賀県道・京都府道35号大津淀線)を通って山科盆地に入っている。このルートは、伏見街道(または大津街道)の一部である。
	また東山トンネル開通前の東海道本線はこのルートを迂回していた。

	主な山を北から順に記す。なお一つの山が複数の名をもつことがある。また一つの山名が場合により異なる山を指すこともある。

	比叡山
	瓜生山
	吉田山
	如意ヶ嶽 (大文字山) - 多くの文献で東山の主峰であるとされる。現在は通常、主峰如意ヶ嶽と、その西方の支峰・大文字山は厳
			   密には別の山の扱いである。中世より両山の混同または同一視は多く見られており、現在もそれは続いて
			   いる。
	粟田山
	華頂山 (知恩院山)
	円山
	霊山
	鳥辺山
	清水山
	阿弥陀ヶ峰
	今熊野山
	恵日山
	稲荷山




	<東山三十六峰>

	東山の山々を総称して、「東山三十六峰」(ひがしやまさんじゅうろっぽう)とも呼ばれる。言葉の成立当初は、具体的に三十六
	の峰を擁するという意味ではなく、なだらかに連なる東山の山々を洛中から見て、おおよそ三十六ほどは連なっていようかと例え
	られたものであろう。
	江戸時代後期の学者であり、東山の景観を好んだことで知られる頼山陽が、自らを「三十六峯外史」と号していたことからも、江
	戸時代頃には「三十六峰」の考えが知られていたものと推測される。江戸時代末期の「花洛名勝圖會」では、「東山三十六峰」の
	言葉を見ることができ、これが「東山三十六峰」という言葉を記した、現存する史料としては最古のものとされる。この「花洛名
	勝圖會」には、「どの山々を指して三十六の峰と言っているのかは明らかではない」といった記述があり、「三十六峰」が具体的
	にどの山々を指しているのかまでは特定されていなかったようだ。
	前述の通り、江戸時代以前には、「三十六峰」は具体的には特定されていなかったと考えられるが、近代以降、「三十六峰」を具
	体的に特定しようという試みも行われている。1936年の大阪営林局「東山国有林風致計画」においては、「東山三十六峰」の山名
	が具体的に記述されているが、これが、三十六の山名を羅列した史料としては、ほぼ最古のものであるとされる。しかし、ここで
	名前の挙げられている山名は、江戸時代前期に記された「雍州府志」における「山川門」の記述を踏襲したものにすぎず、実状に
	そぐわないものも少なくなかった。その後、1956年の京都新聞において、「三十六峰」を具体的に特定した記事が連載されること
	となった。以降に刊行された書籍などでは、この連載記事により選定された「三十六峰」をもって「東山三十六峰」とすることが
	多い。「東山国有林風致計画」の選定、京都新聞の連載記事による選定では、両者で一部異なった山の名前が挙げられており、ま
	た、現在では「山」と呼ぶに値する頂の確認できないものもある。

	「東山三十六峰」という呼称を使う場合、山科盆地からは確認できるが、京都市街地から頂を確認することが難しい花山、六条山
	といった山は三十六の峰に含まれないことに留意。


	<山麓と山上>

	東山の山麓には多くの神社・寺院がある。その中には伏見稲荷大社、清水寺のように平安京よりも古い歴史をもつものもある。
	また山麓は平安時代から近代にかけて、京都の皇族・貴族や武士の保養地であった。特に足利義政の東山山荘(現慈照寺、通称銀
	閣寺)は有名である。現代ではこれらの寺社・庭園が、東山の景観とともに観光客の人気を集めている。

	・山麓の神社・寺院 
	 北から順に記す。

	曼殊院
	詩仙堂
	慈照寺(銀閣寺)
	吉田神社
	法然院
	永観堂
	南禅寺
	日向大神宮
	知恩院
	八坂神社
	高台寺
	京都霊山護国神社
	清水寺
	智積院
	泉涌寺
	東福寺
	伏見稲荷大社

	・その他の山麓の施設

	修学院離宮
	哲学の道
	円山公園

	・山上の神社・寺院

	真正極楽寺(真如堂)
	金戒光明寺(黒谷)
	青蓮院将軍塚大日堂

	・その他の山上の施設

	大文字(五山送り火)
	東山ドライブウェイ 将軍塚展望台
	京都大学花山天文台




	光雲寺(こううんじ) 臨済宗南禅寺派

	光雲寺は大本山南禅寺の境外塔頭寺院であり、先住職が退任して南禅寺派管長が住職を兼務した平成十六年以降、南禅寺派宗議会
	の審議を経て「南禅寺・禅センター」(下写真)としての役割も果たしている。予約すれば、座禅や説法などを受けることが出来
	るそうである。

	所在地: 京都市左京区南禅寺北ノ坊町
	山 号: 霊芝山(れいしざん)
	本 尊: 釈迦如来
	開 山: 大明国師 無関普門(後の南禅寺開山)
	中興の祖:英中玄賢禅師(南禅寺第100代住持)
	別 称: 南禅寺北ノ坊

	光雲寺は、南禅寺より北へ徒歩約15分、哲学の道の外れにひっそりとたたずむ寺である。創建当初は難波(摂津)にあったが、
	兵火で荒廃。その後南禅寺の英中玄賢禅師(一六二七〜九五)が明暦三年に再興し、後水尾天皇と徳川家康の孫娘(東福門院)の
	援助により現在地に移転する。二代将軍徳川秀忠と江(ごう)の娘で後水尾天皇の中宮となった東福門院和子の尽力で、菩提寺と
	して再興される。歴代皇室の尊崇も篤く、門前北に久邇宮家の墓があり、久邇宮家(くにのみやけ)の菩提所ともなっている。
	移転当時は、境内には七堂伽藍が建立された広大なものであったが、火災や、明治時代の廃仏毀釈の影響で縮小された


	大明国師(南禅寺も開山)

	建暦二年(1212)に信州で生まれた国師は、幼時から新潟の叔父、寂円のもとへ預けられ、十三歳で得度した。諸方で研鑽を積ん
	だのち、栄西禅師の法嗣の栄朝に参じ、さらには、宋から帰国して東福寺の開山に迎えられた聖一国師(円爾弁円禅師)の門に入
	って、五年間 の辛参苦修の日々を送った。国師はさらに向上の道を求めて、建長三年(1251)、四十歳にして入宋して、 浄慈寺
	の断橋妙倫禅師に参じた。禅師は一見して国師の抜群の器量を見抜いたという。国師は浄慈寺で修行すること十年あまりにして、
	禅師の法を嗣いで帰国した。
	帰国後、国師は東福寺の聖一国師に再謁してから、得度した越後新潟の寺で聖胎長養していたが、聖一国師の病が重篤なることを
	聞かれ、七十歳の 老躯をいとわず、遠路はるばるお見舞いに上洛した。
	国師が上洛すると、衆望は国師に集まり、東福寺の後住を嘱望したのであるが、勢力を有していた東山湛照の徒はそれを快く思わ
	なかった。名利など眼中になかった国師は、すみやかに東福寺を去って摂津(大阪)に退いたが、このときに開創したのが光雲寺
	である。その場所は四天王寺の近辺であったと言われている。
	時に弘安三年(1280)で、正応四年(1291)の南禅寺の建立に先立つこと十一年であった。東福寺第二世の東山湛照が在住わずか
	三ヶ月にして故あって退寺したあとを承けて、 国師は入寂の日まで十一年間を第三世として全うしたのである。 正応四年(1291)
	に亀山法皇は国師の徳に深く帰依し、その離宮を禅寺として施捨し、国師を開山第一祖とした。これが南禅寺の開創である。
	ただ国師は南禅寺伽藍の完成を見ることなく、その年の十二月十二日に遷化し、後事を第二世の南院 国師(規菴祖円禅師)に託し
	たのである。














哲学の道



桜満開の哲学の道








大豊神社




	大豊神社(おおとよじんじゃ)

	社 格 : 旧村社 
	祭 神 : 本社 少彦名命(すくなひこなのみこと)
			  応神天皇(おうじんてんのう)
			 菅原道真公(すがわらのみちざねこう) 
		  末社 愛宕社 愛宕大神(あたごおおかみ) 
			 日吉社 日吉大神(ひよしおおかみ) 
		  稲荷社 倉稻魂命(うかのみたまのみこと) 
		  大国社 大国主命(おおくにぬしのみこと) 
	住 所 : 京都市左京区鹿ケ谷宮ノ前町1
	拝 観 : 自由
	由緒等 : 
		椿ケ峰を御神体とした山霊崇拝の社でありましたが、仁和三年(八八七年)宇多天皇の御悩平癒祈願のため贈正一位尚侍
		藤原淑子が勅命を奉じて、少彦名命を椿ケ峰に奉祀してから約壱千百余年になります。創建当初は、椿ケ峰山天神と称せ
		られ、 公家の尊崇厚く、次いで大宝大明神と呼ばれ、円成寺の鎮守神として、霊験殊の外なるに合せて、 清遊に好適な
		る現在の地に後一条天皇の寛仁年間鎮座、大豊大明神の神号を賜わり、社運盛大神域方四町もあったのです。建武の乱、
		応仁の兵火にかかって、王朝文化の粋を聚めた絢爛華麗な社殿も焼失、以来振るわざること久しく、文政三年の出火には
		貴重な古記類も灰燼に帰したのであります。相殿合祀の天神・八幡の二座は、この間神社存続のために斎祀されたもので
		す。 明治以降、郷土の産土神として氏子の崇敬を聚め、大正・昭和は復興期であり進展時代でもあるのです。
		≪平成祭データ≫

	宗諄(そうじゅん)女王墓から「哲学の道」を北へ百メートル程の処に大豊橋があり、傍に大きな石灯篭が立っている。この橋を
	渡ると大豊神社に着く。神社は、平安時代前期の仁和三年(887)の建立で、鹿ケ谷村・南禅寺一帯の地主神であった。
	昔は現在の地よりさらに東の椿ヶ峰山中にあって、椿ケ峰天神と呼ばれていた山神だと言う。寛仁年間(1017〜1021)に現在地へ移
	り、大豊神社と称した。応仁の乱で荒廃したが近年整備されている。



哲学の道から続く緩やかな石畳の参道。鳥居の左手に「椿ヶ峰の御神水」が小さな音をたてて流れている。訪れる人は多くない。



尚侍藤原淑子が宇多天皇の病気治癒を祈願した。



大豊神社の椿とこぶし。桜も満開だし、今哲学の道は花盛りである。



長く細い石畳の坂道を上って行くと、やがて本殿が見えてくる。



少彦名(すくなひこな)命と、応神天皇・菅原道真を合祀している本殿。元々は後ろの「山」そのものを祀っていた。



	下は、左が愛宕大神を祀る末社の愛宕社、右側が日吉大神を祀る日吉社。上はその前に地位座する狛鳶(とび)と狛猿。愛宕社の
	狛鳶は火伏せ、日吉社の狛猿は鬼門除けと言う。三番翁(おきな)を踊っている。
	延暦13年( 794)、桓武天皇が都の表鬼門に厄魔退散開運招福の守護神として日吉神社を祀り、その末社がこの日吉社で、神の使
	いの猿は「魔が去る(サル)」、「何よりも勝る(サル)」の『神猿(マサル)信仰』として古来多くの人々の崇敬を集めていた。




大豊神社の稲荷社。商繁昌の神。ここにも椿が。



	下は末社の大国社。上はその前の狛鼠。狛鼠が鎮座する社は、日本でココだけ。大国主命を助けたとの伝承により、狛犬の代わりに
	狛鼠がいる。誰が置いたか、椿の花が供えてある。コマネズミというのはここから来てるんかな。
	大国社の狛鼠は、大国主命が野火に遭われて命が危ない時、近くのネズミが洞穴に案内してくれ、命拾いをした伝説に基づいている。
	健康・長寿・福徳に御利益があるといい、本殿の南に鎮座している。





	大豊神社の桜を後にして、再び哲学の道へ戻り、北へ100mほど歩くと「霊鑑寺・安楽寺へ」の案内板がある。哲学の道のどん付
	きが終点の銀閣寺である。大豊神社はかつて広大な神社だったらしいが今はその面影は無い。哲学の道を歩く観光客は多いが、この
	神社を訪れる人は少ない。なんせ祭神が少彦人(すくなひこのひと)だもんね。


谷の御所 霊鑑寺





	鹿ヶ谷・霊鑑寺(れいがんじ)門跡  山号:円成山 臨済宗南禅寺派 門跡尼寺

	大豊神社からさらに北へ100mほど。通常非公開で門を閉ざしている。
	承応3年(1654)後水尾上皇が円成寺址に、皇女浄法身院(じょうほうしんぐう)宮宗澄尼(そうちょう)を開基として創立
	し、隣地に荒廃していた如意寺の如意輪観音像と霊鏡とを併せまつられたことから霊鑑寺と名づけられた。その時、後西天皇の旧
	殿をもらい受け、表門、玄関、書院、居間は、江戸時代の姿のままである。それまでは南の鹿ヶ谷(ししがたに)の渓流に沿って
	いたので、この寺を「谷の御所」または「鹿ヶ谷比丘尼御所」という。



	明治時代まで皇女・皇孫女が住持、継承してきた。伏見宮の尼僧宗諄(そうじゅん)女王が明治24年まで住持していた寺で、近
	くに宗諄皇女墓もある。境内の庭は回遊式庭園。後水尾天皇遺愛の三十数種の椿で知られている。寺の付近は閑静な住宅街である。
	現在の本堂は、徳川家斉の寄進で、本尊如意輪観音像の傍の不動明王像は、伝教大師の高弟智証大師(円珍)の作という。 
	後奈良・正親町(おおぎまち)・後水尾・後西天皇の宸翰(しんかん)をはじめ、親王・女王の真筆・東福門院の十二単衣・歴代
	門跡の遺品真蹟、御所人形200点など皇室ゆかりの寺宝が多い






安楽寺






	安楽寺(あんらくじ)

	所在地 : 京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町21 
	山 号 : 住蓮山 
	宗 派 : 浄土宗 
	本 尊 : 阿弥陀如来 
	別 称 : 松虫鈴虫寺 

	安楽寺は、京都市左京区にある浄土宗の寺院で、法然上人の弟子、住蓮上人と安楽上人を開基とする。この開山両上人が、現在地
	より東1kmあたりに「鹿ヶ谷草庵」を結び、布教活動の拠点としたのがこの寺のはじまりという。7月に中風除けを祈願するカ
	ボチャ供養で有名である。カボチャ供養の日には寺宝も公開される。
	安楽寺は、1207年(建永2)におこった建永の法難のきっかけとなった法然の念仏道場「鹿ヶ谷草庵」の後身の寺であり、寺宝と
	して安楽房遵西・住蓮坊と後鳥羽上皇の女官であった松虫・鈴虫関連のものが残されている。
	山門前の石柱には、「浄土礼讃根元地」と刻まれている。開山両上人は、唐の善導大師(ぜんどうだいし)の『往生礼讃』に大
	原魚山(天台宗)の礼讃声明(らうさんしょうみょう)を転用して浄土礼讃を完成した。

	後鳥羽上皇の寵姫の松虫と鈴虫が、住蓮と安楽の説法を受け尼僧になったが、上皇がこれに怒って松虫、鈴虫を死罪にし、住蓮、
	安楽は自刀し、法然は流罪となった。境内には、住蓮、安楽の供養塔、松虫、鈴虫の墓が残る。この故事により、通称「松虫鈴虫
	寺」(まつむしすずむしでら)ともいわれる。









法然院


	法然院

	所在地 : 京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町30 
	山 号 : 善気山 
	宗 旨 : 浄土宗 
	宗 派 : 単立 
	寺 格 : 単立寺院 
	本 尊 : 阿弥陀如来 
	創建年 : 鎌倉時代初期 
	開 基 : 法然 
	中興年 : 江戸時代初期 
	中 興 : 萬無・忍澂 
	正式名 : 善気山法然院萬無教寺 
	別 称 : 本山獅子谷法然院 
	文化財 : 方丈障壁画(国の重要文化財) 
	所在地 : 京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町30
	アクセス; 京都市営バス浄土寺バス停下車徒歩10分

	法然院(ほうねんいん)は、京都市左京区鹿ヶ谷にある浄土宗系の寺院である。元は浄土宗内の独立した一本山であったが、昭和28年
	(1953年)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となる。正式名は、「善気山法然院萬無教寺」と号するが、院号の「法然院」で名が通
	っている。別称には「本山獅子谷法然院」がある。
	寺の起こりは、鎌倉時代に、法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来するという。江戸時代になり、延宝8年(1680年)に、
	知恩院の第38世である萬無が、法然ゆかりの地に念仏道場を建てることを発願し、門弟の忍澂と共に再興したのが当寺であるとされる。
	現貫主は31世の梶田真章(1984年就任)。

	寺は、鄙びた趣きをもつ、茅葺で数奇屋造りの山門と、内藤湖南、河上肇、谷崎潤一郎、九鬼周造などの著名な学者や文人の墓が数多
	く存在する。哲学の道近くという立地も関係して、春秋の観光シーズンには、大勢の参拝者がある。
	本堂の本尊は阿弥陀如来坐像であり、法然上人立像なども安置されている。また、方丈にある狩野光信筆の襖絵は重要文化財に指定さ
	れている。また境内には、名水として有名な「善気水」が湧き出している。

	
	<文化財>

	・重要文化財
	 障壁画 金地著色桐に竹図(方丈上の間)床間貼付3面、襖4面 
	 金地著色若松図(方丈上の間)違棚壁貼付3面
	 金地著色槇に海棠図(方丈次の間)襖4面 附:金地著色松図 二曲屏風一双


















以下、NHK「新日本風土記−京都東山・法然院」より









山中越から大文字山に登ると京都市内を一望できる













境内には多くの禽獣、小動物が住みついている。モモンガやムササビも洞に巣を造って住む。























本尊、阿弥陀如来像








	境内の拝観は無料であり、6:00から16:00の拝観時間には、自由に境内を参観できる。通常は本堂等の建物内は非公開である。一般
	公開が、年2回行われる。春の一般公開が4月1日から7日まで、秋の一般公開が11月1日から7日である。





法然院にある河上肇と夫人の墓

	河上肇

	河上 肇(かわかみ はじめ、1879年10月20日 - 1946年1月30日)は、日本の経済学者である。京都帝国大学でマルクス経済学の研究
	を行っていたが、教授の職を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。カール
	・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン三十二年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー『貧乏物語』で
	知られる。死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。名文家であり、漢詩もよく知られている。福田徳三とは終生のライバルで
	あった。その著作は毛沢東も愛読した。



河上肇と夫人の墓。大きな顕彰碑が建っている。



	濱田耕作	出典:ウィキペディア

	生誕	1881年(明治14年)2月22日 大阪府岸和田市 
	死没	1938年7月25日(満57歳没) 京都府京都市 
	東京帝国大学卒業 専門、考古学 

	濱田 耕作(はまだ こうさく、もしくは浜田 青陵(はまだ せいりょう)、1881年2月22日 - 1938年7月25日)は、日本の考古学者。
	京都大学名誉教授(京都帝国大学総長)。岸和田藩の上級藩士である濱田家の長男として大阪府岸和田市に生まれた。「青陵」は号。
	「日本近代考古学の父」と呼ばれる。

	大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)に入学するが、放校処分となり、その後東京府に渡り旧制早稲田中学校(現早稲田
	中・高等学校)に転校する。さらに、第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)を経て東京帝国大学で美術史を専攻し、卒業後、
	ヨーロッパに留学して考古学の研究を続ける。帰国後は京都帝国大学考古学研究室の初代教授に就任。『通論考古学』で「考古学は
	過去人類の物質的遺物(に拠り人類の過去)を研究する学」と定義した。この書物は考古学の教科書として長く親しまれ、日本考古
	学の水準を高め、普及にも役立った。
	梅原末治、末永雅雄、小林行雄らを見出し、考古学における京都学派を形成する。従来の日本の考古学の手法にヨーロッパの考古学
	研究方法を取り入れ、更には中国及び朝鮮半島を含むアジアの遺跡を調査するなどして、日本の考古学研究の発展に多大なる貢献を
	果たした。
	1937年には京都帝国大学の総長に就任した。1938年春以降、病気になり、京都帝国大学病院に入院中、たまたま清野事件(清野謙次
	医学部教授が古寺から古文書などを盗んで逮捕・起訴され、京大を免職となった事件)が起こった。責任を感じた青陵は7月上旬に
	辞意を表明、重態の身であるにもかかわらずただちに退院して官邸に帰ったが、萎縮腎から尿毒症を併発し死亡した。
	京大では総長在任中の死を悼み初めての大学葬を営んだ。
	死後は京都市左京区の法然院墓地に埋葬されている。また彼の名をとって、優秀な考古学・歴史・美術などの研究に功績を残した人
	物に授与される浜田青陵賞が、1988年に岸和田市と朝日新聞社の共催により設けられた。息子の浜田敦は京大教授・日本語学者。



	実はここには、邪馬台国畿内説の嚆矢内藤虎次郎(1866〜1934:湖南)の墓もある。浜田青陵の直ぐ側で、同じように湖南碑も建っ
	ていたのだが写真が無い。てっきり写したはずだったのだが。
	内藤湖南	出典:ウィキペディア

	生誕	1866年8月27日
	死没	1934年6月26日(満67歳没)
	出身校	秋田師範学校 京都帝国大学(博士) 
	専門	東洋史 

	内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年7月18日) - 1934年(昭和9年)6月26日)は日本の東洋史学者。名は虎次郎。
	字は炳卿(へいけい)。湖南は号。別号に黒頭尊者。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争、中国に
	於ける時代区分論争などで学会を二分した。
	1866年 (慶応年間)陸奥国毛馬内村(けまないむら、現・秋田県鹿角市)にて、南部藩士・内藤調一(1832年 - 1908年。号は十湾)
	と容子の次男として生まれる。父・十湾は折衷学派に属していた。13歳のときに『日本外史』を通読したという。
	1884年(明治17年) 秋田師範学校を卒業して、綴子(つづれこ)小学校の主席訓導(実質的には校長)となる。1887年(明治20年)
	に上京する。1887年(明治20年) 仏教雑誌「明教新誌」の記者(主管は大内青巒)。(その後「三河新聞」や雑誌「日本人」、「大
	阪朝日新聞」、「台湾日報」、「万朝報」などの編集で名を馳せた。日露戦争に於いては開戦論を展開)
	1907年(明治40年)京都帝国大学(現・京都大学)文科大学史学科(同年、学生募集開始)東洋史学講座講師。1909年(明治42年) 
	同大学教授。1910年(明治43年) 文学博士(京都帝国大学、狩野亨吉総長推薦(一年の教授任期、という条件を満たしたため))

	東洋史担当講座にて足掛け20年務め、同僚の狩野直喜・桑原隲蔵とともに「京都支那学」を形成、京大の学宝とまで呼ばれた。史論の
	代表的なものに、独特の文化史観に基づき、中国史の時代区分を唐と宋の間を持って分けるというものがある。内藤は秦漢時代を上古
	と規定し、後漢から西晋の間を第一次の過渡期とし、五胡十六国時代から唐の中期までを中世とする。そして唐の後期から五代十国時
	代を第二の過渡期とし、この時代をもって大きく社会が変容したとする。邪馬台国論争については、白鳥庫吉の九州説に対して、畿内
	説を主張し、激しい論争を戦わせた。
	白鳥とは「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と称された。
	『清朝史通論』は、慣習によって授与された文学博士号に対し、自身が博士論文を書かねばならないと決意した事がきっかけとなった
	論文。同論文自体は博士学位論文ではない。
	1926年(大正15年)60歳定年制にもとづき、京都帝国大学退官。帝国学士院会員に選出される。京都府瓶原村(みかのはら、後に加茂
	町に編入。現在は木津川市)に隠棲し、読書著述の日々を過ごした。1934年(昭和9年)6月26日 死去。墓所は京都東山の法然院。




京都で一杯呑む



	三条大通りの一本南、河原町通りと木屋町通りの間に土佐藩参政であった、後藤象二郎の京都邸宅跡がある。所在地住所は、京都市
	中京区大黒町67−3である。京都で、薩摩との倒幕への向けて土佐との密約「薩土盟約」の締結に向けて奔走した。邸宅跡は河原
	町三条のど真ん中で、現在では賑やかな繁華街になっている。




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	後藤象二郎寓居址  土佐藩参政、後藤象二郎の京都での邸宅跡。
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	土佐藩出身の後藤象二郎(1838〜97)は,藩政の中心を担い、藩主山内容堂(1827〜72)の信任を得た。慶応3(1867)年家老となり、
	坂本龍馬(1836〜67)に啓発され大政奉還を建白させた。維新後,参与・参議となり新政府の要職についた。後藤が京都滞在中投宿し
	た壺屋の跡に石標が建てられたが、現在石碑は確認できない。周辺は繁華街。
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	所在地 : 中京区河原町通三条下る二筋目東入南側カ
	建立年 : 1928年 
	建立者 : 京都市教育会 
	寸 法  : 不明
	碑 文  :  [北カ] 
		  後藤象次【ママ】郎寓居之址 
		   [西カ] 
		  昭和三年八月 
		   [南カ] 
		  【不明】 
		   [東カ] 
		  【不明】 
		  調 査 2002年2月4日 
	備 考 : 建立者・碑文等は京都市役所編『京都名勝誌』(1928年京都市刊)等による/
		  京都市教育会編『京都維新史蹟』(1928年同会刊)に載っている石碑の写真は以下。 

		  




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