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平塚・川添遺跡 日本の歴史公園 100選 2011.4.28 卑弥呼の時代の、大規模環濠集落跡


			久しぶりに、生まれ故郷の「平塚川添遺跡」を訪れた。私が初めてここを訪問したのが
			平成10年8月(最後尾にリンク)だから、もう12年になる。その間帰省の度に何回
			となく訪問してきたが、今回久しぶりに訪れて驚いた。幼かった植物群生は立派な林や
			森に成長し、小川も以前のような「造成仕立て」という感じではなく、まるで大昔から
			在ったような佇まいを見せている。
			「ほんとに弥生のムラだ!」訪れた第一印象はまさに、ここは弥生時代だ!と思わせる
			に十分な環境に変貌していた。体験学習館の方と後で話をしたが、実際、「吉野ヶ里も
			見てきたが、ここのほうがはるかに弥生遺跡らしい!」と感激する人も多々あるという。
			さもあらん。
			この遺跡の解説は今まで散々書いてきたので、最後尾のリンクから入ってそちらを参照
			してほしい。ここでは遺跡の景観をみていただくに留める。




			平塚川添遺跡	国指定文化財等データベース(文化庁)

			名称: 平塚川添遺跡 
			ふりがな: ひらつかかわぞえいせき 
			種別: 史跡 
			種別2:  
			都道府県: 福岡県 
			市区町村: 朝倉市 
			管理団体:  
			指定年月日: 1994.05.19(平成6.05.19) 
			指定基準: 史1 
			特別指定年月日:  
			追加指定年月日:  
			解説文: 
			福岡県の西南部には、筑後川とその支流である小石原川・佐田川・荷原川が形成した平野
			が広がり、古くから交通の要衝、肥沃な土地として知られてきた。この地域には旧石器時
			代から始まって多くの遺跡が分布し、特に弥生から古墳時代の遺跡が氾濫原と自然堤防上
			の微高地に顕著である。
			平塚川添遺跡は、この地域を代表する弥生時代中期前半から古墳時代初頭にかけての大規
			模な集落遺跡であり、濠を伏流水の多い標高23メートル前後の氾濫原に数条もち、内部
			のやや高い乾燥した平坦地を居住域としている。北東に隣接してほぼ同時期の平塚山の上
			遺跡がある。両遺跡の東には4メートルほど高い広大な福田台地があり、台地周辺部に前
			漢鏡、鉄戈、貝輪などが発見された弥生時代中期から後期の甕棺墓、土壙墓、円形周溝墓、
			古墳時代前期の方形周溝墓、前方後円墳などと、それぞれの時期の集落遺跡とが点在して
			いる。
			 平塚川添・平塚山の上遺跡を含めた地域に工業団地が計画され、平成3年11月末から
			甘木市教育委員会が約4・5ヘクタールを対象に事前調査を開始した。調査の進行にとも
			ない次第にその重要性が認識され、翌年11月末からは福岡県教育委員会も調査に協力し
			てほぼ全体の様相が確認できた。その結果、平塚川添遺跡を中心とした地域、約11ヘク
			タールを保存することとなった。
			 本遺跡は、弥生時代中期前半と、弥生時代後期中ごろから古墳時代初頭にかけての2時
			期にわたる。弥生時代中期前半については、集落の東半分の様相を確認し、多数の竪穴住
			居や土坑を発見した。また一部の濠がこの時期に堀削された。
			 再び後期中ごろに居住を開始し、最終的には合計7重の濠をもつ集落となった。中央の
			微高地には広場を設け、南東に接して棟方向を北西・南東に揃えた桁行四間梁間2間の大
			型堀立柱建物が4棟並ぶ。広場の南から北を半月形に取り囲んで、長方形の竪穴住居が数
			軒ずつまとまって合計200棟ほど存在する。竪穴住居は、中央に炉を置きそれを挾んで
			長軸方向に主柱穴を2か所配するものが多い。また竪穴住居群の北東端の東、環濠との間
			に周辺に縁と見られる柱穴をもつ桁行3間梁間2間の大型堀立柱建物がある。この集落跡
			の最高所に立てられた最大の建物である。一方、広場の西、環濠と竪穴住居群の間には、
			甕棺墓7基と石棺墓七基がある。
			 これら建物跡・広場などからなる中央部は約2ヘクタールあり、南北約220メートル、
			東西約120メートルの内濠が楕円形に囲み、その外側に全体を2重に巡る濠が存在する。
			さらに台地の反対の西側低地には、3ないし4重の濠があり、自然流路をそのままあるい
			は若干造成した部分もある。全体で南北400メートル、東西250メートル以上の広さ
			をもつほぼ楕円形の環濠集落となる。濠はおおむね断面U字形で幅約6から10メートル、
			深さ約1メートルであるが、6重目は規模が大きく幅約33メートル、深さ約2メートル
			で内斜面は垂直に近く外斜面は緩やかである。また5重目の濠の内斜面上に3列、外斜面
			上に1列、6重目の濠の外斜面上に1列、柱穴が約2メートル間隔で並び、柵と考えられ
			る。
			 環濠の間には、濠の一部を大きく外側に曲げて6か所以上の区画を設けていた。中央部
			の南西、内濠の外の区画は、堀立柱建物だけからなる倉庫域である。この区画の北側、内
			濠の両斜面には柱穴が一対ずつあり、中央部に通ずる橋脚と考えられる。一方、中央部の
			北東、3重目の濠の外の区画には中央に竪穴住居群があり、その東西に堀立柱建物郡が発
			見された。西には楕円形の周濠をもつ堀立柱建物があり、福岡県春日市の須玖岡本遺跡や
			須玖永田遺跡などで青銅器鋳造工房跡と推定された遺構に似る。この区画からは貨泉、管
			玉未製品、そして南隣の濠からは鼠返し、槽などの木器と共に多量の木器未製品や板材な
			どが出土した。工人集団の居住・作業区域と推定できる。なお、この区域に近い中央部北
			側の竪穴住居から、碇石に転用した銅矛鋳型片を発見している。
			 環濠部で多数の柱根や礎板などを発見し、防腐のために表面を焼いたものもある。濠の
			なかからも柱、梁、梯子、鼠返しなどの建築部材を発見した。また、平鍬、三叉鍬、鋤、
			竪杵、砧、手綱枠、槽、部材、手斧柄、植物遺体なども豊富に残っている。また全域から
			多量の土器が出土し、中央部からは2点の小型方製の内行花文鏡を含む銅鏡3面、銅鏃、
			銅戈耳部などを発見した。
			 平塚川添遺跡は、防御と排水のためと考えられる多くの環濠をもち、住居域・工房域・
			倉庫域などが分化し、大型の堀立柱建物をもつ大規模な集落遺跡である。この遺跡がもっ
			とも拡大した弥生時代後期後半は中国史書に伝える倭国大乱から耶馬台国の時代に相当し、
			そこに記された「国」の実態を理解する上できわめて重要である。よって史跡に指定し、
			その保存を図ろうとするものである。






































































































































































































































上下の写真は、熊本の「陪冢姉妹(林)」さんが、2012年1月ここを訪れた時写して私に送ってきてくれたものです。









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