wifeが丹波へクリと枝豆(大豆)をもらいに行くという。INTERNETで知り合った京都府福知山市の農家のおじさんから、この日に「クリ
祭りがあるから良かったら」とお誘いを受けているのだ。一人でいくのも何だからというので、ついて行くことにした。
遺跡巡りは全く期待していなかったのだが、会場となっていた「三段池公園」のなかに稲葉山古墳があったし、あの有名な「広峯古墳」
も近くと聞いたので早速寄ってみた。
ちなみに「クリ祭り」は、用意したクリが2時間で完売したそうで、我々が行った時にはもう祭りは終了していて、おじさん達はテント
を撤収していた。それでもおじさんは、wifeの為にクリを用意してくれていて、上物、並物、イガ付を合わせて20kgほどあった。
wife曰く、「こんだけ買ったら1万円じゃきかないね。」と喜んでいた。我が家はこのおじさんからコメも買っている。wifeはたびたび
訪れて豆狩りやブドウ狩りを楽しんでいるようだが、私はそのおじさんに会うのは初めてだった。
由良川流域の福知山盆地にひらける福知山市は、昭和12年4月に京都府で2番目の市として誕生した。京都市からは60km、大阪市
からは70kmの距離にあり、国道9号をはじめとする多くの国道や舞鶴若狭自動車道、JR山陰本線・福知山線および北近畿タンゴ鉄
道宮福線などが通る北近畿の交通の要衝となっている。福知山市には、古くは縄文時代から人々が住んでいたことが遺跡などから明らか
になっているが、広峯古墳群から出土した盤龍鏡が古代史上ではなんと言っても有名である。
稲葉山古墳
この古墳についてはなにも資料がない。教育委員会にはあるのかもしれないが、説明板もないし、HP内にも説明した文章は何も無か
った。見たところは小型の前方後円憤のようだが円墳かもしれない。石棺の一部のようなものが露出していた。三段池の畔にあった。
福知山城
天正7年(1579)、織田信長の命で丹波を平定した明智光秀は、砦跡を利用して福知山城を築いた。以来、福知山は城下町として栄え、
明治末期までに大阪、京都へとそれぞれ鉄道が開通し、商都として発展してきた。平成18年1月1日には、三和町、夜久野町、大江
町と合併し、新しい福知山市がスタートした。時間がなかったので、城をゆっくり見学するのはまたの機会にして「広峯古墳」を探し
たが、古墳そのものはもう開発で消滅し、記念公園が造ってあった。
広峯古墳
<広峯古墳記念公園>
所在地 : 〒620−0933 京都府福知山市東羽合(広峯15号墳跡地)
交通アクセス: JR福知山駅から徒歩で20分
料金 : 無料
問合せ先 : 0773−24−7064
概要 : 公園面積:2,000u
古墳全長 : 31.5m
後円部直径 : 20.5m
後円部高さ : 2.5m
前方部高さ : 1.5m
福知山駅南口を南に直進、登り坂の中腹に位置する公園で、ここから発見された広峯古墳群を記念して作られた。広峯古墳群は、
福知山の市街地を一望のもとに見渡すことのできる丘に、古墳時代初頭(西暦300年頃)から中期(550年頃)にかけて、
約40基の古墳が造られた、丹波地方屈指の古墳群である。昭和61年(1986)、区画整理事業に伴って発掘調査が行われた。
丘陵最高所に築かれた15号墳は、全長40m、後円部径25mの前方後円墳である。古墳前期の4世紀末のものと推定される。
墳丘は山を削り出して形成され、段築はなく、埴輪、葺石等の付帯施設は持っていない。埋葬施設は、内面に朱の塗られた長大
な木棺を納めたもので、土取りで半分近くが失われていたが、銅鏡1面の他、碧玉(へきぎょく)製管玉・鉄剣1・鉄斧1・鉄
鉾1が発見された。
昭和61年10月の広峯15号墳から発見された「景初四年」銘入り斜縁盤龍鏡(しゃえんばんりゅうきょう)は、文様面に
「景初(けいしょ)四年」(西暦 239)の銘があることから、邪馬台国論争に新たな火種をつけ、また、当時の日本と中国との
交流を探る大発見として、この古墳の名称を一躍全国に知らしめた。
現在、この広峯古墳群の発掘と盤龍鏡の出土を記念し、古墳本体については原寸の3/4、埋葬施設については1/2.5の規
模で古墳をイメージとして復元し、周囲に東屋やベンチを設置し夜はライトアップもされる史跡公園として整備されている。福
知山駅の南に広がる丘陵に位置する。この丘陵稜線に、小さな古墳が連なって造られていた。
入って左に進むとギッシリと書かれた説明パネル。
景初四年銘鏡(重要文化財)
埋葬施設の半分はすでに失われていたが、残存長 mの長大な木棺の痕跡が確認された。棺内には、鮮やかな朱が塗られてい
て、ここで1枚の銅鏡が見つかった。「景初四年銘斜縁盤龍鏡」。面径16.8cm、背面には、4頭の龍が描かれ周囲に35
文字の銘文が配されていた。景初四年( 239)は、魏志倭人伝に記された、邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送った翌年にあ
たる。このため、この鏡は卑弥呼が魏から持ち帰った鏡と騒がれたが、実際には魏には景初四年という年号はなく(景初三年で
終わり)、この鏡は国産品という説も根強く、銘鏡が卑弥呼の鏡かどうかをめぐっては出土から20年以上を経た今も議論の的
である。
道なりに歩くと階段があり、二つ目の階段を上がったら頂上。
足元には、中がどうなっていたかが床一面に書かれている。
「景初四年銘斜縁盤龍鏡」の大きな写真をみる。
<紀年銘鏡>
紀年銘 形式 出土場所
==== ===== =========
青龍三年 方格規矩鏡 大田古墳/京都
青龍三年 方格規矩鏡 安満山古墳/大阪
赤烏元年 平縁神獣鏡 狐塚古墳/山梨
景初三年 画文帯神獣鏡 和泉黄金塚古墳/大阪
景初三年 三角縁神獣鏡 神原神社古墳/島根
景初四年 斜縁盤龍鏡 広峯古墳/兵庫
正始元年 三角縁神獣鏡 蟹沢古墳/群馬
正始元年 三角縁神獣鏡 森尾古墳/兵庫
正始元年 三角縁神獣鏡 竹島古墳/山口
赤烏七年 平縁神獣鏡 安倉古墳/兵庫
三角縁神獣鏡は、漢式鏡に比べ鋳出してある模様の凹凸が大きく、図案も神獣・仏像に特化しており、外縁部が横から見ると三角形に
盛り上がっているためその名前がある。鏡に鋳出された文字や鏡の形式、文様といった鏡についての幅広い研究は富岡謙蔵によって始
められ、梅原末治、小林行雄といった主に京大系の学者たちによって進展してきたが、彼らが導き出した結論については首肯できない
部分が多く、研究が主観によって導かれていると言ってもいいほどである。富岡謙蔵は、鏡が中国製か日本製かということを見分ける
ポイントとして、
1.鋳上がりが悪いため、文様・図案・線などが曖昧になっている
2.従って、図様(文様・図像)本来の姿が失われている
3.文字が無いこと、もしくは「文字に似て文字ではない」文様めいたものに崩されている
4.鈴鏡(鏡の周辺に数個の鈴をつけたもの)は、中国にないから日本製である
などを提示しているが、4.の鈴鏡は中国にないから日本製だという基準は客観性があり理解できるものの、1.から3.の基準は、要
するに、鋳上がりがきれいで文字がある鏡が中国製で、鋳上がりが悪く文字が無いか崩れている鏡が日本製に違いない、という当時の
思い込みそのままである。3.の、文字があれば日本製ではない、という基準は、AD57年に後漢の光武帝に朝貢した倭王が金印を
貰ったことを考えると、当時すでに倭人は文字を知っていた、あるいは使っていたと考えるほうが自然であるし、委奴国王は彫られた
文字の意味も分からず、ただ金印を有難がっていたとはとても思えないので、この説は現在ではまったく根拠を失っていると言えるだ
ろう。
魏の明帝が卑弥呼に送った詔書に書いてある、「親魏倭王卑弥呼に制紹す。・・・故に鄭重に汝に好物を賜うなり」の部分についても、
卑弥呼は意味も分からずにこの詔書を眺めていたとは思えないし、また魏の明帝は相手が読めないと分かっていながらこのような詔書
を送ったとも考えにくい。その後には、「倭王、使いに因って上表し、紹恩を答謝す。」とある。これは、卑弥呼が魏使に託して上表
文を送り、詔書や贈り物に対するお礼を述べたことを意味する。上表文の内容は書かれていないが、文字が書かれていない上表文など
は想像できない。卑弥呼は、あるいは女王国では、漢文を読むことも書くこともできた、少なくとも上層部には相当程度の人数が漢字
を読めたと考えるのが自然な理解である。
富岡の研究は梅原末治によってさらに深化することになり、その後を受けてさらに論を進めたのが小林行雄だった。このあたりの紀年
銘鏡の状況と私の意見については、「日本史をとりまく謎」のなかで「三角縁神獣鏡の謎」として詳細に検討したので参照いただきた
いが、要は、魏王朝は自らが使用していない年号の「景初四年」鏡の製作を鏡の工房に指示したとは思えないので、「景初三年」「景
初四年」鏡は、4〜5世紀の日本でもっともらしく古く見せるために偽作されたものと断定できる。つまりここで出た「斜縁盤龍鏡」
も、卑弥呼が魏からもらってきた鏡などではなく、「景初四年」銘のゆえに国産品と断定してもいいのである。
邪馬台国大研究・ホームページ/ 遺跡巡り/ 広峯古墳