Music: 赤い靴

城之越遺跡 2011.4.12 三重県伊賀市





	4月12日、この日は我々夫婦の結婚記念日である。我々は二十代半ばで結婚したので今年で、35回目の結婚記念日になる。
	おまけに私は、今年60歳になり定年となった。会社の成績不振で定年延長もなく、すぐに就職する気もなれないのでしばらく
	失業保険を貰ってブラブラする事にした。普段我々の結婚記念日など覚えても居ないような息子と娘が「伊勢志摩旅行」(と言
	ってもホテルだけだが)をプレゼントしてくれたので、のんびりとドライブがてら伊勢へ小旅行。



途中で寄ったコンビニの横に桜が満開。今年は暦通りに桜の花が咲いている。




	三重県伊賀市に「城之越遺跡」(じょのこしいせき:「じょうのこし」ではない))があるので、伊勢へ行きがてら寄っていく。
	古墳時代前期(4世紀後半)、今から約1600前に造られた水源祭祀の遺跡である。平成3年(1991)に発掘調査され、平成
	5年に国の「名勝及び史跡」に指定された。現在ではその「名勝及び史跡」が歴史公園として整備されている。
	日本では6世紀後半から7世紀にかけて始まるとされる「庭園」の元になったと考えられている。日本庭園につながる造形と技
	術を示す遺構である。






	名 称		城之越遺跡(じょのこしいせき)
	所 在地	三重県伊賀市比土 字 城之越 
	存在する遺構	立石遺構・階段状遺構・貼石遺構 
	継続時期	古墳時代前期後葉〜中世(湧水点祭祀自体は古墳後期まで) 
	類型 
		立石遺構 	: 不明
		階段状遺構	: 石段
		立地		: 山麓湧水点 
		外見・規模	: 3ヶ所の湧水点が1つの小川となって流れていく場所一帯を貼石で覆っている。
				  湧水点同士の合流場所に立石と階段状遺構を配する。 
		文献史学的情報 : 特になし 
		民俗学的情報  : 特になし
 		考古学的情報  : ・高杯・丸底壺・瓦泉を主体とした土師器群、黒漆で塗った弓や刀剣を模した木製品群が出土。
				  ・古墳時代前期後葉から中期にかけての遺物が主体。
				  ・小川の南〜南東にかけて竪穴住居・掘立柱建物を30棟以上検出。
				  ・飛鳥〜奈良時代の住居址、中世の溝なども検出。 
		信仰的環境	: 山麓・湧水点祭祀 
 



	城之越遺跡(じょのこしいせき)	国指定文化財等データベース   文化庁

	名称		: 城之越遺跡 
	ふりがな	: じょのこしいせき 
	種別		: 名勝 
	種別2		: 史跡 
	都道府県	: 三重県 
	市区町村	: 伊賀市比土・古都 
	管理団体	:  
	指定年月日	: 1993.10.29(平成5.10.29) 
	指定基準	: 名1,史1,史3 
	特別指定年月日	:  
	追加指定年月日	:  
	解説文		: 

	遺跡は、上野市域最南部、周囲を低丘陵で囲まれた一・五キロメートル四方の小盆地の東端に所在する。遺跡の西方約七〇〇メートル
	のところを流れる木津川は、七キロメートルほど北流して上野市市街地西端に達し、そこから山間部を西に向かい、笠置・山城地方へ
	と続く。
	 平成三年度に実施された、県営圃場整備事業に伴う発掘調査によって、古墳時代に築造された三か所に湧水源をもつ大形の溝(以下
	大溝という)とともにそれを取り込むように古墳時代から中世まで連続的に推移する竪穴住居跡群や掘立柱建物群が発見された。
	 後述するように、大溝は石組、貼石、立石で修景されており、出土遺物からみて祭祀の場として造られ使われたものである。また、
	竪穴住居跡は総数二九棟以上、掘立柱建物跡は総数五〇棟以上が検出された。
	 発掘調査の区域は、低丘陵の裾から北西になだらかに下る水田中の微高地であり、約一三、〇〇〇平方メートルの範囲である。
	 遺跡全体での遺構の変遷について概説する。
	まず古墳時代前期後半(四世紀後半)頃、竪穴住居が広く散在するとともに遺跡の北半部中央に大溝が素掘りの形で構築される。続い
	て大溝上流部に護岸の貼石や岬部分の立石、湧水部での石組が施される。この時期には、大溝以外には顕著な遺構がなく、大溝とそれ
	に接続する広場状の空間は独立した祭祀の場として存在する。
	次に五世紀に入ると、大溝での祭祀は継続するものの大溝自体は埋没し始め、周囲に竪穴住居や掘立柱建物が造られてゆく。古墳時代
	後期(六世紀)には、大溝の立石や貼石部にも埋没し祭祀の存在もわからなくなる。周囲では倉庫状建物を含む掘立柱建物が多くなっ
	てくる。続いて奈良時代に入ると大溝は完全に埋没し、遺跡全体に掘立柱建物が建てられ、竪穴住居も造られる。大溝の上部埋土に
	「建」の墨書をもつ土器が入る。平安時代から中世にかけては建物が疎らになる。

	 この遺跡の最大の特徴は、大溝の形態と性格である。
	 大溝はその上流端(南西側)においてそれぞれ一二〜三メートルの間隔で三か所の湧水をもち水源としている。うち西端の湧水部は
	素掘りの窪地状を呈しているが、中央と東端の湧水部には桝状の石組を設け、水の浄化と水量調節を行っている。中央と西端の湧水か
	ら、それぞれ幅二メートルほどの流路が形成される。合流点では岬状の地形を造成し、五〇センチメートルほどの高さの石を立石状に
	組み込んでいる。
	両岸部には拳大の石を貼るようにまた小口積みのように詰め並べている。この合流点から約一五メートル下流において、東端の湧水か
	らの流路と合流しここでも岬状の地形を造成している。この岬にはやや大型の石が集積しているが、もとは階段状の構造で水面に下り
	る施設と考えられる。
	流路はここから一本で幅約五メートルの素掘り溝となり北西に流れる。検出された溝の長さは約五〇メートルであるが、溝は近畿日本
	鉄道伊賀線路敷を越えてなお続くことが判明している。岬や貼石護岸上方の台地状および広場の一定の区域には建物などの遺構は存在
	しない。
	 遺物は主として大溝から検出されている。土器では、小型丸底壺(胴部穿孔付を含む)と高杯(内部朱彩付を含む)が多い。木製遺
	物では、日常品、建築部材のほか刀形、剣形、飾弓、案などが出土されている。これらのことから、大溝とこれに接する場所で祭祀が
	行われていたことは確実であり、かつ、祭祀関係の遺物がほとんど流路から検出され、湧水部自体からの出土品が僅少であり、湧水を
	清浄に保っていたことから、湧水自体を聖なるもの、聖なる地として祭祀が行われたと考えられる。
	 この遺跡を含む集落全体の構造はまだ把握されていないものの、古墳時代の集落における祭祀形態と明確な祭祀場の関係を知る上で
	類例の少ない貴重な史跡である。
	 さらに、この遺跡のうちの大溝とそれに接するある範囲の空間は、曲線を多用した流路、岬状の貼石などから、単なる水源や流路と
	しての機能を越えたものと確認できる。そこには景観造形上の美意識とそれを表現する技術の存在が十分にうかがわれ、飛鳥時代以降
	に次第に形成されていく伝統的日本庭園の造形美と技術の系譜を考える上で庭園史上の価値が極めて高い。 


	そうか、文化庁も「庭園史上の価値が極めて高い」と認めている遺跡なんだ! また「竪穴住居跡は総数二九棟以上、掘立柱建物跡は
	総数五〇棟以上が検出された。」これは、住民の数の構成から言うと、掘立柱建物に住んでいた人間の方が竪穴住居に住んでいた人よ
	りも多い、という事を意味しているのか、それとも、住民より倉庫の方が多かったと理解すべきなのだろうか。





クリックすれば大きくなります。





遺跡公園の敷地に入ってすぐ見えるのが、「城の越学習館」。土器などの展示品や解説映像などで、城之越遺跡について学ぶことができる。



幟(のぼり)が立っている遺跡などは久しぶりに見た。「・・城跡」なんかはよくあるけどなぁ。



遺跡は歴史公園になっており、公園内はコブし・桜をはじめ、花々が満開だった。











大型掘立柱建物跡。石柱が建物の柱跡を表示している。二重に柱列のめぐる建物で、古墳時代としては非常に大きいものである。



掘立柱建物跡。柱の跡を示す石柱は、直径約30センチ!












	青々とした芝生が広がり、春はヤマザクラ、秋は紅葉が楽しめる「まつりの広場」。この広場では大型掘立柱建物跡が発見されており、
	古墳時代では最大級ともいわれるその大きさを間近で確認できる。大溝から出土した種子を参考に、コナラやクヌギ、ヤマザクラの木
	立が整備されている。




	水の祭りが行われた場所。3カ所の泉から沸き出す水を集めて一本の大溝が流れ、溝には貼り石と立石がある。古墳時代の大溝を樹脂
	で固めてそのまま野外展示している。古墳時代に作られた、日本庭園のルーツともいわれる遺跡で、3つの井戸から湧き出した水の流
	れの合流点で、祭祀を行ったと推定できる貴重な遺跡である。湧水点から木津川に向かって流れる古代の小川が見つかった。この水路
	は今は無いが、古墳時代には存在していた。


クリックして下さい。大きくなります。




	第一の湧水点。どの井泉も、もう水は湧きだしていなかった。聞けば、遺跡が公園化され整備された今では枯渇してしまい、ポンプで
	人工的に再現していたとのことだが,昨今の事情でそれも止まっているという。古墳時代当時は、自然に清水が湧き出ていたのだ。
	祭祀が行われていたことは間違いないが、具体的にどのような内容の祭りが行われたのかは殆ど解明されていない。


	第二の湧水点。3つの泉から湧き出す水が合流し大溝になり、やがては木津川にそそいだ。現在、木津川にそそぐ水路はない。大溝か
	らは多くの土器が出土している。また大溝は、近畿日本鉄道伊賀線路敷を越えてなお続くことが判明している。


クリックして下さい。大きくなります。
第三の湧水点。3つの井泉から湧き出る水に、古代の人々は祈りを捧げた。




	「城之越遺跡大溝」古墳時代前期のもので、3か所の井泉から溝が北西に流れやがては木津川にそそいでいた。城之越遺跡の導水施設
	は、それぞれが10mほどの間隔を置く三ヶ所の湧水点(井泉)があって、そこからあふれる水がたがいに合流し、最終的には幅10
	mばかりの大溝となって平地へ流れ落ちる。溝の護岸を小石で覆い、二ヶ所の合流点にはやや大きめの立石をまじえた石組みがつくら
	れている。このあたりが、ここが「最古の日本庭園」と呼ばれるゆえんなのだろう。


クリックして下さい。大きくなります。


	石を敷きつめたり、板でせき止めたりしてきれいな湧水が3か所から流れてゆく。これらの水を集めて大溝となるところには、岸に石
	を貼りめぐらし、所々に石を立てて据えてある。溝からは当時祭祀に使われてい た土器や木製品が多く出土した。








	小川と湧水点の周りはたくさんの貼石で敷き詰められ、人工的にこれらの湧水点・小川を保護・整備していた形跡があった。この小川遺
	構から離れたところに、古墳時代前期後葉(4世紀後半)〜 奈良時代に及ぶ住居遺構(竪穴住居・掘立柱建物)が数十棟見つかって
	いる。




	3つの湧水点から流れる水の合流地点には、特に念入りに石が敷かれており、石と木を使い小川に下りる階段を作ったのではないかと
	言われる階段状遺構や、複数の石を立てていた形跡がある立石遺構が見つかっている。この階段状遺構や立石遺構の辺りから、高杯・
	丸底壺・瓦泉(はそう)を主体とした土師器群や、黒漆で塗った弓や刀剣を模した木製品群が集中して出土している。






	出土した土器が、高杯や液体を注げない瓦泉が主体であること、実用性のない木製武器が集中して見つかっていること、集落の生命線
	である湧水点が近くにあること、それを厳重に保護するかのような貼石の存在、立石が磐座を想起させることなどから、これらの遺構
	では湧水点を中心に置いた祭祀行為が行なわれていたと考えられる。




	数十棟に及ぶ住居が近くに建てられていることから、この遺跡は集落内の祭祀的な場所だったと思われる。古墳時代の人々が、人為的
	に湧水点を整備し、その流れが小川となり、その小川の中に立石や木材の祭祀場所を設けた遺跡なのだろう。小川は5世紀の頃から埋
	没し始めていたそうなので、そんなに長い間使われた集落ではないのかも知れない。遺跡は史跡公園となっているが、水は湧き出して
	いないし、水路もよどんでいる。どの自治体にも言えることだが、遺跡発見当初は予算を付けて目一杯整備するが、やがて人々はこな
	くなり、予算の付かなくなって、荒れ果て寂れてしまっている遺跡公園も多い。



公園の隅に東屋があって、そこに付近一帯の地形図の模型があった。当時は制作費も高かっただろうに。















城之越学習館




	「城之越学習館」

	問い合わせ	: 伊賀市教育委員会生涯学習課文化財室	TEL(0595)22-9681
	所在地		: 〒518-0115	三重県伊賀市比土字城之越4724(伊賀鉄道比土駅より徒歩約5分) 
	開園時間	: AM9:00〜PM4:30 
	休園日		: 年末年始(12月29日〜1月3日) 
	料金		: 大人 : 大人:200円 150円) 150円 高校・大学生100円(80円)※()は30名以上の団体料金 
	備考		: 中学生以下無料/団体(30名以上) 中学生以下無料
	駐車場		: 15台 







発掘当時の「城之越遺跡」



































古墳時代の集落跡という遺跡はなかなか無い。こんなに古墳に囲まれていたら、当然集落跡があって当たり前だ。







穴の開いた土師器は瓦泉(はそう)と呼ばれるが、何故穴を開けたのかは判っていない。全国で出土し、現在は祭祀用と言うことで定説。








	古代遺跡のなかには、明らかに「祭祀遺構」と思われるものが全国から多数出土している。縄文・彌生・古墳時代から、奈良・
	平安を経由して江戸時代の遺構にもある。殆どは農耕に関する遺跡と思われるが、ここのように「水の祭祀遺構」というのも結
	構ある。我が町大阪府の吹田市にも、五反島遺跡(ごたんじまいせき)というのがあって、これは古墳時代の終わりから飛鳥時
	代にかけての遺構のようだが、川を木樋や木製施設で飾り、土器を沢山川へ投げ込んでいる。
	ここの遺跡は湧き水のすぐ側にあり、しかも集落の中に在る事から、水(泉)そのものを神聖視したのではないか、清め行為の
	「禊(みそぎ)」だろうという考えと、湧き水を与えてくれる「神」に対する感謝の儀式が行われていた可能性も指摘される。
	禊については記紀にも散見されるが,禊以外の水にまつわる祭祀儀礼(または神話)については、記紀などの文献にも明確な記
	載がなく、現在に受け継がれる神道においても見当らない。今日では、これらの遺構の持つ意味合いを研究する学問も盛んであ
	り、「祭祀考古学会」(Ritual Archaeology sosiety)なる機関も存在する。



































































邪馬台国大研究ホームページ / 遺跡・旧蹟めぐり / 城之越遺跡