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2014.4.25 福岡県古賀市美明





			鹿部田渕遺跡(ししぶたぶちいせき)

			平成11年(1999年)、古賀市鹿部土地区画整理事業による発掘調査の結果、この地から6世紀中頃
			〜7世紀初頭頃まで使われた大型の建物群が発掘された。平成14年には、東の区画溝も確認され、東西
			を溝で区画した空間の内部に、倉庫や作業などに使われた大型の建物4棟をL字状に配置していることが
			判明した。建物をL字に配置した点から計画性の高い建物群で、この建物群は、糟屋地域の玄界灘沿岸に
			所在していて一般的に見られる住居跡よりも大きく、公的な性格の強い施設として官衙もしくは屯倉であ
			った可能性が推定され、日本書紀に言う「糟屋屯倉(かすやのみやけ)」の候補地として脚光を浴びた。
			糟屋屯倉とは、日本書紀の「磐井の乱」(継体天皇22年(528年?))の記述によれは、北部九州の
			豪族・筑紫君磐井が大和朝廷に敗れ、磐井の子の葛子(くずこ)が命乞いに朝廷へ糟谷屯倉を献上したと
			あり、穀物類を貯蔵していた倉庫群だと思われる。
			糟屋屯倉の候補地は、他にも福岡市比恵遺跡なとがあるが、日本書紀の記述通りの献上だったか疑う向き
			もある。6世紀中頃の貴重な建物群である。 
			遺跡の名称は「鹿部田淵遺跡」(ししぶたぶちいせき)と言い、現地の住所「古賀市美明1丁目4番11外」
			から「みあけ史跡公園」と名付けられ保存されている。同市初の歴史公園である。






			糟屋の屯倉(旧志免町HPより)

			 6世紀のことです。朝鮮半島ではヤマト政権と親密な関係にあった伽耶が、百済・新羅の支配下に入って
			いきます。527 年(継体21)、ヤマト王権軍の近江毛野は新羅に奪われた朝鮮半島南部の伽耶諸国を回復す
			るため、6万人の兵を率いて出兵しようとしました。これを知った新羅は、九州地方北部の有力者であった
			筑紫君磐井へわいろを贈り、ヤマト王権軍の妨害を要請しました。これがいわゆる「磐井の乱」となるので
			す。磐井軍は挙兵して、近江毛野軍と交戦しました。しかし、翌年11月、物部麁鹿火軍と筑紫三井郡(現福
			岡県小郡市付近)で戦い、磐井軍は敗北しました。
			 このときに磐井は亡くなったといわれていますが、その子である筑紫君葛子は父親が反乱したことによる
			連座から逃れるため、「糟屋の屯倉」をヤマト王権へ献上しました。これで死罪を免ぜられたのです。
			「屯倉」は6世紀以降に九州からはじまり、各地の国造(ヤマト王権の地方官)の領土内に、ヤマト王権の
			直轄地として、全国に展開されました。屯倉には、稲の収穫以外に、港湾、採鉄、軍事などの基地も含まれ
			ています。「糟屋屯倉」が最初で、これを足がかりに穂波など8つの要所に屯倉が設置されました。また、
			これらの統括のために那津官家が配置されます。福岡市博多区の比恵遺跡で多数の倉庫群が発見され、関連
			遺跡と想定されています。
			 筑紫君葛子がヤマト王権へ献上した、死罪から逃れられるほどまでに価値のあったといえる「糟屋の屯倉」
			とは、恐らく、稲の収穫を中心としていた土地ではなかったかと思われます。では、この献上された「糟屋
			の屯倉」とは実際には何処にあったのでしょう。 
			 糟屋屯倉の関連遺跡としては、古墳時代後期の大形建物群などが発掘された、古賀市の田淵遺跡がその可
			能性があるといわれています。また、粕屋町日守や阿江などは当時から豊かな穀倉地帯と考えられ、交通の
			要衝でもあるため可能性があるといわれています。また、粕屋町原町区に所在する「鶴見塚古墳」が「葛子
			の墓」だとの言い伝えもあります。しかし、いずれも確証はありません。
			 ただ、糟屋という地域は大陸と近く、進んだ技術をいち早く日本にとり入れられた場所であったというこ
			とは言えそうです。屯倉の場所はベールに包まれていますが、志免町(現古賀市)もその一部ではなかった
			のかと想像がかきたてられます。 

建物4



建物4の説明ガイダンス









駐車場の石垣の壁にはこの遺跡の概要がイラストで説明されている。それぞれを映した写真が無い。写したはずだったのだが。













道路を隔てたあの柱の向こう、北側は鹿部(ししぶ)保育所。








古賀市立歴史資料館







建物3



大地に実物大の直径の柱が立っている。建物2と建物3は直角になっている。右の方の小さな建物跡が建物1である。



			建物1の柱跡は倉庫と考えられている。この建物を挟んで東西に12.4m〜16.68mの幅の2本の広い
			溝がある。深さが1.32m〜1.96mとなっているので、船が通れたかもしれない。川も海も側なのだ。



建物3の説明ガイダンス













ここの説明版の透明なパネルには、柱に対応させて当時の生活の再現が描かれている。








古賀市立歴史資料館
			「建物3」の復元模型。建物3が一番大きく中心的な建物で、海に面する方向にはひさしがついている。
			作業をした所、或いは政務を執行した建物と推定される。


建物2



遺跡の特徴は建物群がL字型に配置されており、機能的な事である。中央には広場がある。



上は建物2から建物3,1の方を見たもの。



建物2の説明ガイダンス












			「鹿部田渕遺跡」からの出土品は、弥生土器や土師器、須惠器、赤焼土器、白磁、青磁など、弥生時代
			から中世(16世紀)までの土器が、数多く見つかっている。
			ほかにも、石製の舟、勾玉などの祭祀具、装飾品の玉類、土や石で出来た漁業用のおもり、稲作で使う
			石包丁、石斧などの石製品、古墳時代の祭祀に使われた舟形の土製品や滑石製品、移動式コシキ・カマ
			ド、中世の銅銭なども出土している。
			日宋貿易でもたらされたと推定できる大量の白磁や青磁製品、その中に五芒星☆が描かれた白磁があっ
			た。伏せられていて、中には7枚の宋銭が重ねて置かれていた。







上も発掘された現場のようである。説明は無かったが、おそらく将来の公園拡張のために確保してあるのだろう。



北(鹿部保育所)側から遺跡全体を見る。クリックで拡大します。



ここから南へ、ししぶ駅までは徒歩10分程。
			道路を挟み南北に分かれた園内では、6世紀中頃から7世紀初頭までに使われたという大型の建物群が、
			実物大の支柱によって再現されており、独特の景観が目を引く。この時代の住居跡としては、竪穴住居
			による集落が一般的であるが、高床式建物と思われるその特徴から、公的な施設として大和朝廷との関
			連が示唆される。この歴史公園内には、学習スペースとしてのパネル展示も充実し、古賀市が古代に重
			要な歴史上の存在だった事を感じさせるスポットである。



駅も新しいし、駅の前はアチコチでマンション建設が進んでいて、どうやら新しい町作りが始まったばかりのようだ。



ししぶ駅へ向かう後ろ姿のカッコいいお姉ちゃん。昔あったね「振〜り向かぁ〜ないでぇ〜」ハニーナイツだったかな。





おまけ

以下はクリックで拡大します。






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