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宮地嶽古墳
2006.10.9 福岡県福津市宮司








	北九州市に、埋蔵文化財センターと小倉城を見に行った帰り、「宮地嶽古墳」に寄った。昔から古墳の巨大さと豊富な副葬品
	の見事さで有名な古墳で、古代豪族宗像氏の、大和朝廷との強い結びつきを示しているのか、それとも九州に繁栄していた豪
	族の権力の証なのかで、論議を呼んできた古墳である。その決着が付いているとは言い難いが、もうさんざん議論がされつく
	した古墳なので、いまはもう取り立てて話題になることもないようだ。しかし平成17年、九州国立博物館の開館にあわせて、
	上野にあったこの古墳の副葬品が、期間限定(1年間)ながら太宰府に帰って来るというので、ちょっとばかりその被葬者を
	めぐっての新聞記事が出たりした。私も太宰府へそれらを見に行ったが、藤ノ木古墳にも匹敵する副葬品の豪華さには、改め
	て感慨を深くした。同時に、崇神天皇、九州王朝、応神天皇、磐井の反乱、遠賀郡の物部氏等々が頭を駆けめぐって、この古
	墳を巡っての謎にまたまた引き込まれていきそうな予感がした。






	<宮地嶽神社> (みやじだけじんじゃ) 
				福岡県福津市(旧宗像郡津屋崎町)大字宮司1304  西鉄宮地岳駅から徒歩で15分

	祭神 : 息長足比売命:おきながたらしひめのみこと(神宮皇后)
		 勝村大神
		 勝頼大神
	社格等: 県社・別表神社
	創建 : 西暦400年頃か(?)
 
	神宮皇后(息長足比売命)が大陸に渡る途中に宮地岳で開運祈願をしたことから宮地と呼ぶようになったという当地に、帰還
	した皇后と皇后の従臣である勝村大神・勝頼大神を合わせて、宮地嶽三柱大神として祀ったのが創祀という。本殿裏の奥の宮
	不動神社は、日本最大級の巨石古墳として知られ、全長23mに及ぶ石室から、透彫冠・金銅壺鐙(つぼあぶみ)・頭椎太刀
	(かぶつちのたち)等の国宝が多数発見され、それらは現在東京国立博物館に保管されている。平成17年の九州国立博物館
	開館にあわせて、1年間同館で寄託展示されている。拝殿には、長さ13m・重さ5tの、田圃11反分約7000束の藁を
	使った日本一の大注連縄(大しめなわ)が掲げられ、大太鼓(直径2.2m、重量1t)・大鈴(直径1.8m、重量450
	kg)と、3代日本一が揃っている。
	毎年200万人以上の参拝客が訪れ、特に正月三が日には90万人以上の人々が訪れる、福岡市周辺では有名な初詣場所であ
	る。開運商売繁盛の神社として知られている。宗像地方では宗像大社と並んで参拝客が多い。神社の参道には多くの土産店が
	立ち並んでおり、商売繁盛にちなんで招き猫やダルマを販売している店が多い。また太宰府天満宮の「梅ヶ枝餅」に似た「松
	ヶ枝餅」が売られている。梅ヶ枝餅が餅の表面に天満宮の神紋・梅紋があるのに対して、松ヶ枝餅には宮地嶽神社の神紋・松
	紋がある。そのほか、毎月末の深夜0時(明けて1日)には「一日参り」と呼ばれるものが行われており、多くの参拝客が深
	夜にも関わらず詰め掛ける。そのためその夜は多くの出店が出店しており飲食店も開店する。

	一説では、宮地嶽神社の創建は約1600年前にさかのぼるといわれる。息長足比売命(神功皇后)が、三韓征伐の前にこの
	地に滞在し、山の頂に祭壇を設け祈願して船出したのが始まりといわれ、現在の境内は祭壇を設けたとされる宮地岳の山腹に
	位置している。宮地嶽神社内には「奥の宮八社」と呼ばれる社が祀られている。「一社一社をお参りすれば大願がかなう」と
	いわれ、昔から多くの人が訪れている。その起源は日本最大級の石室古墳(宮地嶽古墳)発掘を機に、ここに不動神社を奉祀
	したことによる。

	「奥の宮八社」稲荷神社 濡髪大明神 万地蔵尊 淡島神社 薬師神社 七福神社 不動神社 三宝荒神 





たいていの神馬像は天を向いていななくか、力強く正面を向いているのに、
ここの馬はうなだれて草をはんでいるような。ちょっと変わっている。







狛犬も獅子ではなく、ほんとに犬のようである。



日本一のしめ縄を下げた本殿。



本殿の脇から「奥の宮八社」のほうへ行くようになっている。ここの不動神社が宮地嶽古墳である。








	宮地嶽古墳  (みやじだけこふん) 平成17年3月2日 国指定史跡。   

	福岡県の北部、北九州市と福岡市の中間よりやや福岡市寄りの一帯は、昔から津屋崎古墳群と呼ばれ古墳の密集地として有名
	である。これまでに円墳と前方後円墳が合わせて56基確認されており、これらは沖ノ島祭祀を執り行った宗像君(むなかた
	のきみ)一族の墓群ではないかと推測されている。宮地嶽古墳はその中でも最も代表的な古墳で、寛保1年(1741)の宮地嶽
	の山崩れにより初めてその口をあけたと記録されている。花崗岩の巨石を用いて築かれた横穴式石室は、全長約23mを測り、
	日本最大級の大きさである。この石室は6世紀末から7世紀初期のものとされ、天武天皇の第一皇子・高市王子を産んだ尼子
	娘の父である宗像君徳善(むなかたのきみとくぜん)の墓ではないかと言われている。地下の正倉院とも呼ばれるこの巨石古
	墳からは、緑色に輝く瑠璃玉やガラス板、刀装具、馬具などが出土し、それらは国宝に指定されている。 
 
	宮地嶽古墳は、「横穴式石室」を持ち、山崩れにより初めてその口をあけた時、村人達や修験道者達はこの古墳の全容のあま
	りもの見事さに畏敬驚愕し、延亨4年(1747)、この石室内に霊験あらたかな不動尊を祀ったという。この山麓一帯は、5、
	6世紀頃栄えた古墳群で、堂々たるその威容が遠望されるが、とりわけこの古墳は奈良県飛鳥の石舞台に匹敵する程長大で、
	一つの石が高さ幅とも約5m・奥行き数mに及ぶ巨石8つで左右を囲み、その全長約23mという九州最大の石室となってい
	る。この古墳からは、3百数十点の遺物が出土し、うち20数点は重要文化財に指定されている。中でも金銅装透彫冠は精巧
	な冠残欠純金の歩揺がついた跡が残っている我国第一級の国宝であり、金銅装頭椎太刀は全長2mにも及ぶ全国最大級の太刀
	で、類まれなるこれ等の優れた品々は、飛鳥時代美術工芸隆の先駆として注目されており、当時この一帯を治めた埋葬者の絶
	大な威勢を示して余りある。この古墳の特徴は、立方体に切った非常に大きな岩を使って、素晴しく大規模なものを築いてい
	るということで、奈良の飛鳥にある石舞台古墳に匹敵するほど長大であり、考古学者の注目の的となった。

	この宮地嶽の地に、大和の大貴族にも肩を並べる程の富と権威を象徴する全国第一級の大石室古墳が築かれ、又御陵関係の重
	宝にも劣らぬ天下の宝物が発見された事から、大和朝廷勢力と深い係りをもった地方豪族の繁栄と伝承が偲ばれる。

	宮地嶽古墳は、7世紀前半につくられたと推定され、内部に巨岩を使った横穴式石室を持ち、横穴式石室の長さ23mは全国
	で2番目の長さである。副葬品としての、国宝指定の馬具、太刀、ガラス玉などがあり、その豪華さと貴重さから「地下の正
	倉院」とも呼ばれる。現在、古墳は不動神社として内部に不動明王が祭られており多くの信仰者を集めているが、通常は内部
	の公開はされていない。「奥の宮不動神社」の祭典である、

		1月28日 初不動祭(孝養ロウソク神事)
		2月28日 春季大祭(ぜんざい祭)
		7月28日 夏季大祭

	の3日のみ開門し、参拝者は石室内にての参拝ができる。



上・下が宮地嶽古墳。







開門時の石室内部。




	<宮地嶽古墳出土品・一覧>

	金銅鞍金具残欠
	金銅製鞍橋覆輪金具			古墳時代末期 昭和14年出土  
	金銅壷鐙(つぼあぶみ) 一双 		古墳時代末期 昭和26年出土  
	金銅鏡板付轡(かがみいたつきくつわ) 	古墳時代末期 昭和26年出土  
	金銅杏葉(ぎょうよう)残欠 2枚分(「杏葉」は馬具の一種) 
	銅鎖 
	金銅荘頭椎大刀(かぶつちのたち)残欠(「頭椎大刀」は、柄(つか)の先端部が握り拳のような形状をした直刀)
						古墳時代末期 昭和26年出土  
	金銅透彫冠残欠 				古墳時代末期 昭和26年出土  
	金環 
	緑瑠璃丸玉 一連(「緑瑠璃」は緑色のガラス) 
	緑瑠璃丸玉 一括 			古墳時代末期 昭和26年出土  
	蓋付銅鋺 銅盤残欠  			古墳時代末期 昭和26年出土  
	土師器碗(はじきわん) 
	長方形緑瑠璃板残欠 3枚分 
	緑瑠璃板断片 				古墳時代末期 昭和11年出土  
	附:各種金具等残片 
	宮地嶽神社境内出土骨蔵器  		古墳時代末期 昭和13年出土  
	瑠璃壷 
	銅壷 
	附:陶質鉢残欠 



古墳の廻りを1周してみた。さほど大きくはない。2,3分で1周する。







上が古墳全景。










	<金銅荘頭椎大刀>
	大小2帯あり、小刀は完形、大刀は原形を留めず、長さが260cm程と推察されている。あまりに長いので儀礼用と考えら
	れる。我が国に現存する最大級の古代刀である。鞘の透かし金具は菱形の文や大きな丸紋があり、他に類を見ない紋様である。
	鐔には鈴がはめ込まれ、この時代の特徴を表している。柄巻きは銀糸が使用され、鞘の透かし金具の下地には朱漆を幾重にも
	重ねた塗りである。又、多くの朱紐が使用された痕跡があり、古墳後期の製品と断定された。 
 
	<骨蔵器>
	古墳時代も末期になると、大陸より仏教が伝来し、埋葬文化も発展をみる。中でも、宮地嶽神社所蔵の骨臓器は土製深鉢・銅
	壷・瑠璃瓶の三重で形成され蓋付銅壷は195mmの鋳造品で瑠璃瓶は112mmで吹きガラスの製法である。蓋には宝珠紐
	跡があり、白鳳時代の瑠璃瓶と共通した構造になっている。 
 
	<緑瑠璃丸玉>
	丸玉が202個発掘されている。何れも緑色半透明で、1.3mm程の瑠璃(ガラス)だが、その制作年代は定かではない。
	古墳時代中期と推定されている。貴人の死去により、その装飾品を副葬したもので、かなりの身分だったと推定される。
 
	<金銅鏡板付轡>
	心葉形の鏡板は周緑に珠紋帯を有し4区に別け、内部には流麗な半肉彫りの唐草紋様の透かし彫りを施し、裏板が付けられて
	いる。この鏡板と同一組み合わせの杏葉も発見されている。静岡県で類似のものが発掘された例があるが、本品は、保存状態
	が良く一級品である。 


	以下は1年前(2005.11.5)に九州国立博物館に行ったときの、この古墳からの出土品展示。





















 




















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