Music: watching the wheals







	雨ばかりの変な天気が続くなか、やっと晴れた9月になって、PCの故障解決に玉造の錦織さん宅へ伺った。PCはどうやら
	ハードウェアの故障のようで私の手には負えなかった。夕方までお喋りして、「さぁ、玉造へ飲みに行こう」と言う事になっ
	た。錦織さんのマンションは玉造の駅から歩いて5,6分の静かな住宅街の中だった。
	失礼ながらもっと密集した下町を想像していたが、昔ながらの大阪の風情が残る静かな住宅街だった。それでも最近はもう相
	続する子孫もいないのか、廻りにマンションがどんどん建っているそうだ。



錦織さんのマンションから4,5分の所に、玉造稲荷神社があったので寄っていくことにした。神社の裏側から境内へ入る。



豊臣秀頼公銅像 -- 平成23年(2011)10月13日に建立・除幕式。

	大阪市中央区玉造に鎮座する神社。創建は垂仁天皇18年(西暦紀元前12年!!)と伝えられ、古代、付近一帯は「玉作岡」と
	呼ばれ、勾玉(まがたま)などをつくる玉作部が居住しており、それが現在の玉造の名の起こりとなったそうだ。仁天皇18年
	が紀元前というのには驚くが、それほど由緒ある神社という事だろう。
	その後、物部氏と仏教受容問題で争った聖徳太子(厩戸皇子)は、当神社において戦勝を祈り、戦乱後は自ら観音堂を当地へ
	建立したと伝わっている。
	近世に至っては、豊臣家が大阪城の鎮守神として祀り、豊臣秀頼奉納の鳥居や千利休の顕彰碑などが並ぶ豊臣家ゆかりの神社
	でもある。ここで豊臣秀吉・秀頼・淀殿などが千利休のお点前で茶会を催していたと伝えられている。








	徳川の世に入っても大阪城代着任の際、当神社に参拝し家紋の提灯を奉納する等その厚い信仰は引き継がれた。明治期から戦
	前にかけて、全国の神社が国家管理となり、社格も当神社は「府社」となり、平成元年(1989)には「創祀二千年祭」を
	挙行した。




	境内の一角に、鳥居が地中に埋まっていて驚いた。慶長8年(1603)に豊臣秀頼が寄進した鳥居が、先の阪神淡路大震災で倒
	壊したので上半分をここに埋めてあるのだった。信州の「帰雲城」のように、神社が地中に没したのかと思ってしまった。








	ここは天正4年(1576)の兵乱やその後の大坂城落城、また第二次世界大戦時の大空襲などによりことごとく焼失し、現在の
	社殿は戦後に再建されたもの。境内には秀頼奉納の鳥居や千利休の顕彰碑などのほか、難波玉造資料館もあり、古代玉遺物、
	玉の歴史や玉作り工程、古代土器など貴重な資料が展示されている。しかし行ってその日にすぐ見学はできない。何の為の資
	料館だという気もするが。



これがその資料館。古代の家型埴輪に似せて建造されていて、なかなかおもしろい。











宮司さんとは知り合いなので、今度は事前に電話して行こうと錦織さん。見たかったなぁ。



	境内には、秀頼公胞衣塚大明神、厳嶋神社(市杵嶋姫神)、万慶稲荷神社(宇迦之御魂大神)、新山稲荷神社(宇迦之御魂大
	神)などが上のように並んでいる。



	<境 内>  出典:ウィキペディア

	胞衣塚大明神 -- 豊臣秀頼の胞衣を祀る。当初は大坂城三の丸に当たる現在地に胞衣が埋められ、その後は豊臣家を慕う当地
			の人々により密かに祀られていた。昭和20年、戦災により焼失し、寺山町(現 上町一丁目)、
			東阪町(現 玉造一丁目)に遷座していた。昭和58年(1983年)、大坂築城400年を記念して元の
			鎮座地に遷座された。子供の夜泣きに霊験ありとされる。










	<境 内> 出典:ウィキペディア

	万慶稲荷神社(宇迦之御魂大神) -- 大坂城内の各地に祀られていた当社の分霊を、享保年間に一社に合祀し当社境内に祀っ
				 たものである。
	新山稲荷神社(宇迦之御魂大神) -- 寛政11年(1799年)、当時の大坂城代・松平輝和が城代屋敷内に当社の分霊を祀ったも
				 のである。明治40年(1907年)、当社境内に遷座された。新山稲荷は現在の大阪府立清水谷高等
				 学校敷地内に在った。玉造稲荷創祀二千年の平成元年に分社・東雲稲荷神社として旧境内地付近
				 (中央区上町1丁目)に再び遷座されている。
	厳嶋神社(市杵嶋姫神) -- 現在地の池(白龍池)に白龍観音が出現したことにより弁才天を祀ったもので、神仏分離により
				 祭神を市杵嶋姫神とした。雨乞いの神として信仰される。







大阪市から伊勢神宮まで歩き通すというレースがあって、錦織さんは若い頃2度も参加したそうだ。



「ここ、ここ。ここがしんどかった」と話す錦織さん。一泊二日の殆どを走っているレースだったそうである。おそろし。




	玉造稲荷神社  出典:ウィキペディア	

	所在地 : 大阪府大阪市中央区玉造2-3-8 
	主祭神 : 宇迦之御魂大神 
	社格等 : 府社 
	創 建 : 垂仁天皇18年 

	玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)は、大阪市中央区にある神社である。旧社格は府社。宇迦之御魂大神(稲荷神)
	を主祭神とし、下照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命を配祀する。




	<歴 史>
	社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していた。蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の
	聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。



	
	豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。戦国時代の戦火で荒廃し、慶長8年(1603年)
	に豊臣秀頼により社殿が再建された。元和元年の大坂夏の陣で社殿は再び焼失し、元和5年に徳川幕府の大坂城代や氏子らの
	寄進によって再建された。社地は元々は急崖に面していたため、少しでも平坦化するために、寛政元年(1789年)、東横堀川
	の浚渫で出た土砂を町人らが運び込む「砂持」が行われた。豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称し
	た。江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。



	
	現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉造部の居住地であったという伝承
	がある。昭和61年(1986年)、創祀二千年を記念して境内に難波・玉造資料館が開館した。
	現在の社殿は昭和29年(1954年)に造営されたものである。


















	宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)出典:玄松子の祭神記 HPより	

	別名

	稲荷神/稲荷大神:いなりのかみ/いなりおおかみ
	宇迦之御玉神:うかのみたまのかみ
	宇賀能美多麻:うかのみたま
	宇賀神:うかのかみ/うがじん
	若宇迦乃売命:わかうかのめのみこと
	倉稲魂命:うかのみたまのみこと
	稲倉魂命:いなくらたまのみこと …… 

	稲荷神社に祀られる神。須佐之男命と大山津見神の娘・神大市比売命との間の御子として大年神とともに生れた稲の神。また、
	『日本書紀』に、伊弉諾尊が飢えて気力の無い時に生んだ子・倉稲魂命とあり、 「此云宇介能美?磨」とあって、宇迦之御魂
	神と同神とされている。
	宇迦之御魂神は稲の精霊神だが、穀物の神としては他に、 保食神・大気都比売神、登由宇気神(豊受大神)、豊宇賀能売神、
	若宇加能売神、御食津神などがあり、 これら神々を同神と考える場合も多い。稲荷神とも同神と考えられ、また白蛇の姿で財
	宝神とも考えられた。 また、宇賀神として弁才天とも習合した。
	宇迦之御魂神を稲荷大神とも呼ぶが、伏見稲荷大社では、 宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神の
	五柱で、稲荷大神としている。


	稲荷神 	出典:ウィキペディア	

	稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、日本における神の一つ。稲荷大明神(いなりだいみょうじん)、お稲荷様・お稲荷
	さんともいい、貴狐天皇(ダキニ天)、ミケツ(三狐・御食津)、野狐、狐、飯綱とも呼ばれる。稲荷系の神社では、玉藻の
	前(九尾の狐・殺生石)が祭られていることもある。稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社とされている。元々は京都一帯の豪族
	・秦氏の氏神で、現存する旧社家は大西家である。

	<概 要>

	稲荷神を祀る神社を稲荷神社(いなりじんじゃ)と呼ぶ。京都市伏見区にある伏見稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神
	社の総本社となっている。朱い鳥居と、神使の白い狐がシンボルとなっている神社として、広く知られている。稲荷」と表記
	するのが基本だが、「稲生」や「稲成」とする神社も存在する。
	稲荷神(稲荷大神、稲荷大明神)は、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神で、伏見稲荷大
	社から勧請されて全国の稲荷神社などで祀られる食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。また神仏習合思想に
	おいては仏教における荼枳尼天と同一視され、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られる。
	神仏分離の下、神道の稲荷神社では『古事記』、『日本書紀』などの日本神話に記載される宇迦之御魂神(うかのみたま、倉
	稲魂命とも書く)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わ
	かうかめ)、御饌津神(みけつ)などの穀物・食物の神を主祭神とする。

	総本宮である伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神を主祭神として(五穀を司る宇迦之御魂神・倉稲魂命を参照)、佐田彦大神、
	大宮能売大神、田中大神、四大神とともに五柱の神として祀るが、これら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化として
	いる。
	日本の神社の内で稲荷神社は、2970社(主祭神として)、32000社(境内社・合祀など全ての分祀社)を数え、屋敷神として
	個人や企業などに祀られているものや、山野や路地の小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数にのぼる。江戸の町
	の至る所で見かけられるものとして「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」とまで言わるようになった。本来は穀物・農業の神だが、現
	在は産業全般の神として信仰されている。
	稲荷神社は日本全国に点在するが、その中でも東日本に多く信仰されている。例えば、武蔵府中においては、明治時代初期に
	市内に6ヶ所で稲荷神社が祀られており、市内の家々の屋敷神は566件にも上るなど、多摩地域においては顕著である。


	<稲荷神と狐>

	・伏見稲荷の狐
	稲荷と狐はしばしば同一視されており、例えば『百家説林』に「稲荷といふも狐なり 狐といふも稲荷なり」という女童の歌
	が記されている。
	狐は古来より日本人にとって神聖視されてきており、早くも和銅4年(711年)には最初の稲荷神が文献に登場する。宇迦之御
	魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字
	したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。なお、「三狐神」は「サグジ」と読む。時代
	が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)と
	呼ばれて上下社に祀られるようにもなった。 
	江戸時代に入って稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになると、稲荷狐は稲荷神という誤解が一般に広がっ
	た。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。また仏教の荼枳尼天は、日本
	では狐に乗ると考えられ、稲荷神と習合されるようになった。今日稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)であ
	る。
	稲荷神社の前には、狛犬の代わりに、宝玉をくわえた狐の像が置かれることが多い。他の祭神とは違い、稲荷神には神酒・赤
	飯の他に稲荷寿司や稲荷寿司に使用される油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を「稲荷」とも呼ぶようになった。
	ただし狐は肉食であり、実際には油揚げが好物なわけではない。
	
	以下、略。



ここが正面入り口である。これならよく知っている。何度かこの前を通った事があった。



	玉造駅へ降ってゆく。上右の事務所のような家は「オール○○巨人」の○○の家。ガレージには外車が4,5台並んでいて、
	錦織さんはこの前で○○を見かけたそうである。まるで会社か倉庫のような家だ。近くにマンションも持っていて、そこに
	もよく居るようだとの事。ここは所属する(自分の)事務所なのかもしれない。



駅近くの居酒屋で一杯遣った後、おっさん二人でカラオケへ。二人とも好きだしねぇ。



錦織さん、お役に立てなかったのに、お世話になりました。ありがとうございました。



邪馬台国大研究 /寺社仏閣巡り / 浪速・玉造神社