青沼茜雲先生 伊勢神宮・絵画奉納式 2013.12.13-14






		敬愛する青沼茜雲先生の絵が伊勢神宮に奉納された。上の絵「竹の曲」である。日本広しと雖も、伊勢神宮に絵画を
		奉納できる洋画家先生などそうそうはいないのではなかろうか。それを記念して、伊勢神宮での奉納式に奉納神楽を
		舞ってくれるそうで、青沼先生から来きませんかとお誘いの電話があった。「行きます、行きます」と二つ返事でお
		受けした。伊勢神宮でのお神楽など、見ようとしてもみれるものでは無い。聞けば福岡からも先生の支援者御一行様
		がお見えになるそうで、顔見知りの人も多いので、WIFE共々伊勢神宮参拝と相なった。

		鳥羽に一泊して、翌日地理は不案内なのでと仰るので、小生が斎宮と宝塚古墳を案内することにした。歴史に興味が
		無い人にはどうかなとも思ったが、九州の人達には斎宮などめったに見る機会は無いし、私は、伊勢神宮と共にもっ
		と斎宮も知られていいのではと思っているので、独断でセットしてしまった。宝塚古墳は何と言ってもあの船の埴輪
		を見て欲しかった。
		あんな埴輪は日本中のどこにも無い。この古墳は、船に強い関わりを持った当時の豪族が葬られた古墳だろうと思わ
		れるが、伊勢と天皇家と巨大な船の組み合わせは、日本の古代を考える上で、すこぶる重要な事のように思われるの
		で、これ又迷惑も顧みずご案内することにした。マリンランドや安土桃山村に行きたい人もあったようだが、ま、私
		に案内をお頼みになったのを不運と諦めて頂いて、古代史の世界に浸って貰うことにしよう。

		尚、上の絵で舞を舞ってる少年は、今回福岡から同行された、太宰府天満宮の禰宜さんで宝物館館長の味酒(みさけ)
		さんのご子息(小学生の頃)だそうである。味酒さんのご先祖は、太宰府に流された菅原道真に附いて来た侍従の一
		人であり、ご先祖の名前は古文献に載っている。味酒さんは地元福岡で大学の客員教授もなさっている。



福岡ご一行様はツアーになっていて、旅行社から添乗員も付いてきていた。上は私の送った資料を基に作ってくれたパンフ。



伊勢神宮・絵画奉納式 2013.12.13




		伊勢神宮に着き、駐車場に車を入れている時、駐車場の横に「旧林崎文庫」というのがあった。存在すら知らなかっ
		たので驚いた。先生のご一行はまだ到着していないようだったので、暫し付近をブラブラ。
















		神宮式年遷宮   出典:ウィキペディア

		神宮式年遷宮は、神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)である。神宮では、原則と
		して20年ごとに、内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)の二つの正宮の正殿、14の別宮の全ての社殿を造り替え
		て神座を遷す。このとき、宝殿外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎のほか、装束・神宝、宇治橋なども
		造り替えられる。
		記録によれば神宮式年遷宮は、飛鳥時代の天武天皇が定め、持統天皇の治世の690年(持統天皇4年)に第1回が
		行われた。その後、戦国時代の120年以上に及ぶ中断や幾度かの延期などはあったものの、1993年(平成5年)
		の第61回式年遷宮まで、およそ1300年にわたって行われている。
		2005年(平成17年)から第62回式年遷宮の各行事が進行し、2009年(平成21年)に主要な行事である
		内宮に係る「宇治渡始式」が、2013年(平成25年)には正遷宮(神体の渡御)が斎行された。
		神宮司庁によると、8年前から始まる2013年(平成25年)の第62回式年遷宮全体の費用は、建築、衣服、宝
		物の製作を含め約550億円と公表。

		式年遷宮を行うのは、萱葺屋根の掘立柱建物で正殿等が造られているためである。塗装していない白木を地面に突き
		刺した掘立柱は、風雨に晒されると礎石の上にある柱と比べて老朽化し易く、耐用年数が短い。そのため、一定期間
		後に従前の殿舎と寸分違わぬ弥生建築の殿舎が築かれる。
		漆を木の塗装に用いるのは縄文時代から見られ、式年遷宮の制度が定められた天武天皇の時代、7世紀頃には、既に
		礎石を用いる建築技術も確立されていた。現に、この時代に創建(または再建)された法隆寺の堂宇は、世界最古の
		木造建築としての姿を今に伝えている。とすれば、当時の国力・技術をもってすれば、神宮も現在にも残る建物にす
		ることは可能であったと思われる。それをあえて、定期的に膨大な国費を投じることとなる式年遷宮を行う途を選ん
		だ理由は、神宮にも記録がないため不明である。

		推測される主な理由としては、次の4点が考えられる。

		過去の建築様式である弥生建築の保存のため。当時においても、過去の建築様式である弥生建築を保つことに何らか
		の意義を見出していたために、式年遷宮によって建築様式の保存を図ったのではないか。

		神道の精神として、常に新たに清浄であること(「常若(とこわか)」)を求めたため。建物がいまだ使用可能の状
		態であっても、老朽化することは汚れ(ケガレ。気枯れ)ることであり、神の生命力を衰えさせることとして忌み嫌
		われたため、建物を新しくすることにより神の生命力を蘇らせ、活性化することになると考えられたのではないか。

		大嘗祭、新嘗祭、神嘗祭など、祭祀の意義が再構築されたため。毎年行われる天皇祭祀である新嘗祭に対して、天武
		天皇の時代に初めて行われた大嘗祭は、即位後初めて行われる新嘗祭であり、一世一度の行事として特別視された。
		これに対応して、毎年行われる神嘗祭に対して、20年に一度行われる大神嘗祭として、式年遷宮が行われるように
		なったのではないか。

		皇宮の遷移に代えて、遷宮が行われたため。天皇の住まいであり政庁である皇宮は、天武天皇の治世以前には、天皇
		の代替わりごとに移し替えられていた。しかし、恒久的な宮である藤原京が建設されることとなり、宮の遷移が行わ
		れなくなったため、その意義を神宮の遷宮に託したのではないか。

		また、式年遷宮が20年ごとに行われる理由についても、同じく確たる記録はないため不明である。推測される主な
		理由としては、以下の5点が挙げられる。

		建物の「清浄さ」を保つ限度が、20年程度であるため。これは、耐用年数という意味ではなく、神道の宗教的な意
		味における「清浄さ」である。

		建替えの技術の伝承を行うためには、当時の寿命や実働年数から考えて、20年間隔が適当とされたため。建築を実際
		に担う大工は、10歳代から20歳代で見習いと下働き、30歳代から40歳代で中堅から棟梁となり、50歳代以
		上は後見となる。このため、20年に一度の遷宮であれば、少なくとも2度は遷宮に携わることができ、2度の遷宮
		を経験すれば技術の伝承を行うことができる。

		旧暦の「朔旦冬至(さくたんとうじ)」(11月1日が冬至にあたること)が、19から20年に一度の周期(メト
		ン周期)であるため。

		一世代がおよそ20年であるため。

		神嘗祭に供される穀物の保存年限が20年であるため。



		宇治橋から御正殿に至る参道の中間地点、左側にある銅板葺、 入母屋造の建物が、内宮神楽殿である。向かって右
		端から神楽殿、 御饌殿(みけでん)、授与所(じゅよしょ)となっている。神札・御守・御神号軸をはじめ、別宮の御
		神札や、神宮暦等の授与、 第62回式年遷宮御造営資金の申し込みを受け付けている。また、内宮参拝記念の御朱印
		もここでいただける。  


内宮神楽殿



		到着された先生のご一行と挨拶を交わし、連れ立って伊勢神宮の神楽殿に入り、宮司さんの挨拶を受ける。待合所で
		暫く待機して、準備が整ったら神楽殿へ入るのである。





		宮司さんと挨拶を交わし、自己紹介や奉納する絵の話など暫し談笑する。左から三人目の和尚さんは、先生の高校時
		代のご友人で天台宗・大興寺のご住職「神原玄應」師である。一昨年の、比叡山麓坂本で行われた「天台宗戸津説法」
		にも参加させて頂いたが、今回お会いしたら何と「大僧正」になっておられた。ヒェーッ!



先生の後ろの書は、これも何とか言う高名な書家が奉納されたものだそうである。




左から青沼先生、神宮宮司さん(何とか部長だった)、小柳さん、味酒さん


		この後神楽殿の中へ案内され奉納神楽を見たが、残念ながら「写真はご遠慮ください」との事で写真は無い。この日
		の奉納神楽を受けたのは我々の他に二組あって、それぞれ祝詞風の紹介があった。その後、巫女さん二人による神楽、
		男性一人による神楽、巫女さん二人による神楽と、三つの神楽を見て、三組全員へのお祓いを受け奉納式は終了した。
		正面右の方に先生の絵(冒頭の奉納絵画)が飾ってあったが、遠くてはっきりとは見れなかった。側へ寄って見たか
		ったがズケズケ上がっていくわけにもいかず残念だった。以下、伊勢神宮のHPより。だいたいこんな感じだった。

		<御饌(みけ)の儀>

		御饌の写真

		まずお祓いが行われ、御神札と神饌が供えられます。 次に祝詞(願い事)が御神前に奏上され、お供えが下げられて、
		御饌の儀は終了いたします。 御祈祷の時間は15分ほどで、 御神札とおさがりの神饌をお受けいただきます。


		<神楽 (かぐら)の儀>
 
		神楽の写真

		お祓いが行われ、雅楽が奏でられる中、御神札と神饌が供えられます。 次に祝詞(願い事)が御神前に奏上され、続い
		て典雅な舞(神楽・舞楽)が捧げられます。 そして、再び雅楽が奏でられる中、お供えが下げられて、終了いたします。
		この御祈祷に要する時間は、種別により舞の数が異なりますので所要時間は 25分〜40分くらいとなります。御神札と
		おさがりの神饌をお受けいただきます。 
		ここで頂いた神饌というのは、帰って見たら「らくがん」だった。ところが、我々が結婚式の引き出物で貰って帰る
		ような「らくがん」ではない。お茶の席で出るような、高級な砂糖で作った和菓子のような旨い「らくがん」だった。
		「伊勢神宮ともなると違うねぇ」とWifeと話したものだった。



神楽殿、出入り口





全員で記念撮影





新装なった神(新)殿へ。上左は出口、入り口は先にある。







伊勢神宮にはもう10回くらい来たが、神鶏を見たのは初めてだ。奈良の石上神宮には沢山居たが。







先生一行は20名ほどとは言え、一応福岡からのツアーで添乗員も附いてきているので、ここで別れて我々は車で宿へ向かう。



これが今夜の宿、鳥羽の「戸田家」である。昭和天皇もお泊まりになった。









何と玄関に「青沼先生ご一行様歓迎」の看板が。





ホテルのロビーから眺める鳥羽湾の夕暮れ。先生一行は電車で移動してこられたので、我々は暫く待っていた。月が出ている。







心理カウンセラー樋口さんの司会で、奉納記念祝賀会がスタート







さすがに海の幸満杯のご馳走だった。











味酒さん、神原大僧正の祝辞に続いて先生が挨拶し、全員一人一人挨拶をさせられた。



お開き前の記念撮影



		このホテルには、あちこちに小さな展示コーナーが設けてあった。上は明日行く予定の、斎宮へ斎王が京都から向かう
		行列の様子である。行列は、500人というあまりの人数の故に「群行」と呼ばれた。これらの人々が、山を越え谷を
		渡り、荒野を突き進んで伊勢へ来たのである。「斎王制度」は天武朝にその起源があるとされるが、国の制度では無く、
		天皇家という一家族の行事だった。天照大神という一族の祖先を、純粋に子孫が祀る催事としてスタートしたのである。

		武士の台頭とともにその制度は姿を消すが、それ故近年まで、どういう行事を行っていたのかはあまりよく判っていな
		かったが、斎宮の発掘やその他の研究により、だんだんその姿が見えてきた。64人もの姫皇女がどういう想いで鈴鹿
		山脈を超えてきたのか、思いを馳せると実に感慨深いものがある。














祝賀の宴が済むと、ホテル内にあるカラオケ・ルームで二次会となった。皆さんうまいもんである。







大僧正も小柳さんも唄います。



池田さんは高校の音楽の先生だった人で、最後の教員生活は何と、私の母校「朝倉高校だった」そうだ。驚き。さすがに良い声だった。





斎宮・宝塚古墳見学 2013.12.14




旅に出たいつもの習慣で朝早く目が覚めるので、Wifeを起こして暫しホテルの廻りの鳥羽湾を散歩した。





海上保安庁の巡視船や釣り船らしき小舟がいっぱい。向こうには近在の島々へ渡るフェリ−乗り場があった。






上はクリックで少し大きくなります。




朝早くから漁に出る。



フェリー乗り場の看板。「潮騒」の舞台になった神島は鳥羽湾だったのか。



ホテルへ戻って朝食前に夜が明けだした。





三木武夫がここに泊まった時、戸田家の主人に書いたもののようである。

志だけあっても途は開けんような気もするが。特に政治家は○が無いとアカンのじゃなかろうか。



その下には戸田家に集まった色々な文物が展示されている。小判もあった。







上は「伊勢物語」である。在原業平が斎王に恋して言い寄る話も、確か伊勢物語だったのでは?







斎宮博物館 & 斎宮跡
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斎宮の後は松坂へ来て、上の店で松阪牛(だったと思う)のすき焼き定食。おいしかった。





宝塚古墳&松阪市埋文センター
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		皆様お疲れ様で御座いました。色々お世話になり有り難う御座いました。

		青沼先生、伊勢神宮に絵画を奉納されるような、はなはだ名誉なお方とお知り合いになれて本当に光栄です。身に余る栄誉
		ですが、あまり先生のお役に立てていない事が心苦しい限りです。何とか早急に宝くじを当てて「青沼茜雲美術館」を建て
		たいと思っていますので、いましばらくお待ちください。何から何までお世話になり、本当に有り難う御座いました。