青沼茜雲先生 伊勢神宮に絵画奉納式 2013.12.14




斎宮博物館






		斎宮歴史博物館	出典:ウィキペディア(以下、青字部分すべて)

		斎宮歴史博物館(さいくうれきしはくぶつかん)は、三重県多気郡明和町竹川にある斎宮遺跡(国の史跡)に設置されて
		いる三重県立の博物館である。テーマ博物館であると同時に、埋蔵文化財センターとしての機能を有する。

		伊勢斎宮の遺跡は、南北朝期以降荒廃し、その遺跡も不明だったが、1970年(昭和45年)頃からの宅地造成に伴い、三重
		県多気郡明和町古里地区に斎宮遺跡の存在することが明らかとなり、1979年(昭和54年)には史跡指定を受けた。これを
		受け、三重県も斎宮跡発掘調査事務所を開設して本格的な調査発掘と保存に乗り出し、1983年(昭和58年)には史跡公園
		「斎宮跡」が開園した。1985年(昭和60年)には、斎宮跡に県立博物館を設置することが発案され、教育委員会文化課の
		もとで建設に向けた準備が進んだ。博物館予定地自体が遺跡であるため、慎重な発掘調査を経て、1988年(昭和63年)1月
		に起工、1989年4月より業務を開始し、10月に開館した。

		<施設>
		敷地面積18,000平方メートル、展示館建築面積は4,537平方メートル(延床面積5,077平方メートル)の鉄筋コンクリート
		造(一部現場緊張PC造)一階(一部二階)建で、以下の施設を有する。

		・常設展示室I
		「文字からわかる斎宮」として、文献史料、葱華輦、群行模型、斎王居室復元模型、斎宮に関係する古典文学等を展示。
		・常設展示室II
		「ものからわかる斎宮」として、考古資料(『斎宮の成立と整備』『斎宮の隆盛と繁栄』『斎宮の衰退と消滅』の3期に区
		分して展示)と模型(内院の柵列を再現した復元模型(実物大)、内院地区の調査経過をまとめた映像と連動した発掘調
		査区模型(20分の1)、床面に設置した斎宮跡全体の陶板航空写真と組み合わせた斎宮寮の復元模型(400分の1))による
		展示。
		・映像展示室
		常設映像として『斎王群行』『斎宮を歩く』『今よみがえる幻の宮』をハイビジョン上映。
		・展示ホール
		・特別展示室

 

斎宮博物館入場券 & 斎宮の想定復元擬態(斎王まつり)



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		斎宮である。さいくうと呼んだりさいぐうと濁る場合もある。歴史に興味の無い人には全く面白く無い場所かもしれない。
		しかし私は、九州の人にはあまり知られていないこの[斎宮」と「斎宮制度」について、もっと広く知られてもいいはず
		だと昔から思っているので、あえて皆様を案内してしまった。
		伊勢神宮と斎宮の関係は、天皇家について考える時、「天皇」という機関の持つ機能について考える時、格好の材料のよ
		うな気がするのである。ここで「斎宮制度」について復習して頂き、遥かいにしへの斎王たちに想いを馳せて欲しいと思
		う。




お願いしておいた学芸員の方が斎宮について説明してくれる。




		斎宮

		斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の
		御所であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。
		後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。



		
		<斎宮の起こり>

		「日本書紀」崇神天皇紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑
		に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)の始まりとされる。そして次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭
		姫命が各地を巡行し伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭った。この時のことを『日本書紀』垂仁天皇紀は「斎宮
		(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記し、これが斎王の忌み籠る宮、
		即ち後の斎宮御所の原型であったと推測される。また垂仁天皇紀は「天皇、倭姫命を以って御杖(みつえ)として、天
		照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ」とも述べ、以後斎王は天皇の代替わり毎に置かれて天照大神の「御杖代(みつえ
		しろ、神の意を受ける依代)」として伊勢神宮に奉仕したといい(ただし史料上は必ず置かれたかどうかは不明で、任
		期などもそれほど明確ではない)、用明天皇朝を契機に一時途絶えたが、天武天皇の時代に正式に制度として確立し
		(『扶桑略記』は天武天皇が壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの皇女大来皇女を捧げたのが初代とする)、
		以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれ、南北朝時代まで続く制度となった。

		なお、『扶桑略記』に初めて大来皇女が定められたとあること、同皇女の前任と伝える酢香手姫皇女(用明天皇皇女)
		との間に約50年の空白期間があること、その以前の稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)(雄略天皇皇女)、荳角
		皇女(ささげのひめみこ)(継体天皇皇女)、磐隈(いわくま)皇女(欽明天皇皇女)、菟道(うじ)皇女(敏達天皇
		皇女)、酢香手姫皇女が伊勢に来ていないことの3点から、酢香手姫以前の斎宮は後世の虚構とする説がある(筑紫申
		真説)。

		また福岡県糟屋郡久山町猪野にある天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)には、仲哀9年(200年)熊襲征伐の途中、
		「われを祭れば、戦をせずとも財宝の国を得ることができる」という神の託宣があったが、仲哀天皇が疑ったために、
		その祟りをうけ香椎宮で崩御し、そのことを知った神功皇后が、小山田の村に斎宮を建て、自ら神主となり、天照大神
		を祀ったという縁起がある。



		
		<卜定>

		先代の斎宮が退下すると、未婚の内親王または女王から候補者を選び出し、亀卜(亀の甲を火で焙って出来たひびで判
		断する卜占)により新たな斎宮を定める(卜定(ぼくじょう))。新斎宮が決定すると、邸に勅使が訪れて斎宮卜定を
		告げ、伊勢神宮にも奉幣使が遣わされて、斎宮はただちに潔斎に入る。




		
		<初斎院>

		宮城内の便所(便宜の場所)が卜定で定められて大内裏の殿舎(時々により異なる)が斎宮の潔斎所となる。これを初
		斎院(しょさいいん)と呼ぶが、その場所は雅楽寮、宮内省、主殿寮、左右近衛府などが記録に残る。斎宮は初斎院で
		1年間斎戒生活を送るとされているが、もっと短期になる場合も多い。



		
		<野宮>

		初斎院での潔斎の後、翌年8月上旬に入るのが野宮(ののみや)である。野宮は京外の清浄な地(平安時代以降は主に嵯
		峨野)を卜定し、斎宮のために一時的に造営される殿舎で、斎宮一代で取り壊されるならわしだった(野宮神社などが
		その跡地と言われるが、現在では嵯峨野のどこに野宮が存在したか正確には判っていない)。斎宮は初斎院に引き続き、
		この野宮で斎戒生活を送りながら翌年9月まで伊勢下向に備えた。なお、野宮は黒木(皮のついたままの木材)で造られ、
		このため黒木の鳥居が野宮の象徴とされた。『源氏物語』では前東宮と六条御息所の間に生まれた姫宮(後の秋好中宮)
		が「葵」帖で斎宮となったため、六条御息所がそれに同道することになり、『賢木巻』でこの野宮が光源氏との別れの
		舞台となり、後に能『野宮』の題材にもなった。






		
		<群行>

		初斎院・野宮を経て3年目の9月、野宮を出て禊の後、宮中で群行の儀に臨み、伊勢へ発向する。但し後述「退下」のよう
		に歴代の斎宮すべてが群行を行ったわけではない。



上のジオラマでライトの点滅している点が「群行」の通ったとされる道である。殆ど山中なのがわかる。上が行き、下か帰り。



		
		<退下>

		斎宮が任を終えることを、奈良時代から平安時代中期まで(8?10世紀頃)は退出と称したが、その後は退下(たいげ)ま
		たは下座と言った。斎宮の退下は通常、天皇の崩御或いは譲位の際とされるが、それ以外にも斎宮の父母や近親の死去に
		よる忌喪、潔斎中の密通などの不祥事、また斎宮の薨去による退下もあり、初斎院や野宮での潔斎中に退下した斎宮も多
		い。なお、伊勢での在任中に薨去した場合は現地に葬られたらしい(伊勢で薨去した斎宮として確実なのは平安時代の隆
		子女王と惇子内親王の2人で、いずれも斎宮跡近くに墓所と伝わる御陵が残る)。退下の後、前斎宮は数ヶ月の間伊勢で待
		機し準備が整った後に、奉迎使に伴われて帰京した。

		帰京の道程は二通りあり、天皇譲位の時は群行の往路と同じ鈴鹿峠・近江路を辿るが、その他の凶事(天皇崩御、近親者
		の喪など)の場合には伊賀・大和路(一志、川口、阿保、相楽)を経て帰還するのが通例であった。どちらの行程も最後
		は船で淀川を下り、難波津で禊の後河陽宮を経て入京した。

		また、酢香手姫皇女以前の斎宮は酢香手姫皇女が任を終えて葛城に移ったと記されるのみで、稚足姫皇女を除くと他の斎
		宮のその後は不明。単なる記載漏れか、当然帰るべき所(例えば宮廷の周囲)があったので省略されたか、それとも、酢
		香手姫皇女の移転先である「葛城」の記載が他の斎宮の移転先をも代表しているとみるか、様々に推測できる。



		
		<退下後の斎宮>

		退下後の前斎宮のその後はごく数人を除いてあまり知られていない。律令制では本来内親王の婚姻相手は皇族に限られる
		ため、奈良時代までは退下後の前斎宮が嫁いだのは天皇もしくは皇族のみであり、平安時代以降も内親王で臣下に降嫁し
		たのは雅子内親王(藤原師輔室)ただ1人であった(ただし女王ではもう一人、藤原教通室となった?子女王がいる)。
		また藤原道雅と密通した当子内親王は父三条天皇の怒りに触れて仲を裂かれており、結婚は禁忌ではなかったらしいが、
		多くの前斎宮は生涯独身だったとも思われる。
		ちなみに退下後に入内を果たした前斎宮に井上内親王(光仁天皇皇后、後廃位)、酒人内親王(桓武天皇妃)、朝原内親
		王(平城天皇妃)、徽子女王(村上天皇女御)の4人がいるが、井上・酒人・朝原の3内親王は母娘3代にわたり、斎宮とな
		りかつ入内した(南北朝時代の懽子内親王も光厳上皇妃であるが、天皇退位後の入内である)。

		その後院政期には、未婚のままで天皇の准母として非妻后の皇后(尊称皇后)、さらに女院となる内親王が現れる。この
		初例は白河天皇の愛娘?子内親王(郁芳門院)であり、彼女は斎宮経験者であった。以後これに倣い、斎宮または斎院か
		ら准母立后し女院となる内親王が南北朝時代まで続いた。



		

		<斎宮の終焉>

		平安時代末期になると、治承・寿永の乱(源平合戦)の混乱で斎宮は一時途絶する。その後復活したが(もう一つの斎王
		であった賀茂斎院は承久の乱を境に廃絶)、鎌倉時代後半には卜定さえ途絶えがちとなり、持明院統の歴代天皇において
		は置かれる事もなく、南北朝時代の幕開けとなる延元の乱により、時の斎宮祥子内親王(後醍醐天皇皇女)が群行せずに
		野宮から退下したのを最後に途絶した。


斎宮について、ジオラマを前に説明してくれる学芸員の方と、
		
		<斎宮の忌み詞>

		神に仕える斎宮は穢れを避け、また仏教も禁忌とするため、それらに関連する言葉が忌み詞として禁じられた。『延喜式』
		の巻第5(斎宮式)の忌詞条に次のとおり記されている。 内七言は仏教用語、外七言は穢れの言葉である。
		凡そ忌詞、内七言は、仏を「中子(なかご)」と称し、経を「染紙(そめがみ)」と称し、塔を「阿良良伎(あららぎ)」
		と称し、寺を「瓦葺(かわらふき)」と称し、僧を「髪長(かみなが)」と称し、尼を「女(め)髪長」と称し、斎(いも
		い)(仏僧の食事)を「片膳(かたじき)」と称せよ。外七言は、死を「奈保留(なほる。治る)」と称し、病を「夜須美
		(やすみ。休み)」と称し、哭(泣く)を「塩垂(しおたれ)」と称し、血を「阿世(あせ。汗)」と称し、打(うつ)を
		「撫(な)づ」と称し、宍(しし。肉)を「菌(くさひら。野菜や茸)」と称し、墓を「壌(つちくれ)」と称せ。又別の
		忌詞は、堂を「香燃(こりたき)」と称し、優婆塞を「角筈(つのはず)」と称せ。


それを熱心に聞く皆さん。


		<歴代斎宮>

		・飛鳥時代以前の斎宮	豊鍬入姫命 崇神天皇皇女 倭姫命 垂仁天皇皇女 五百野皇女 景行天皇皇女 伊和志真皇女
					仲哀天皇皇女? 栲幡姫(または稚足姫)皇女 雄略天皇皇女 荳角皇女 継体天皇皇女 
					磐隈皇女 欽明天皇皇女 菟道皇女 敏達天皇皇女 酢香手姫皇女 
					用明天皇皇女(『日本書紀』用明天皇紀に、「推古天皇の代まで斎宮をつとめ、後に葛城(母の
					里)に帰り亡くなったとの記述が推古天皇紀にある」との注がある。しかし推古天皇紀にその記
					述はない。)

		・斎宮制度成立以降の斎宮

		673-686 大来皇女 天武天皇皇女
		698-701 託基皇女 天武天皇皇女 志貴皇子妃
		701-706 泉皇女 天智天皇皇女
		706-707 田形皇女 天武天皇皇女 六人部王室 多紀内親王 智努女王 長皇子女? 円方女王 天武天皇曾孫 長屋王女
		715-721 久勢女王
		721-744 井上内親王 聖武天皇皇女 光仁天皇皇后
		744-749 県女王 高丘王女?
		749-752 小宅女王 天武天皇曾孫 三原王女[※ 1]
		758-764 安倍内親王 淳仁天皇皇女 磯部王室
		772-775 酒人内親王 光仁天皇皇女 桓武天皇妃
		775-781 浄庭女王 光仁天皇皇孫 神王女
		782-796 朝原内親王 桓武天皇皇女 平城天皇妃
		797-806 布勢内親王 桓武天皇皇女
		806-809 大原内親王 平城天皇皇女
		809-823 仁子内親王 嵯峨天皇皇女
		823-827 氏子内親王 淳和天皇皇女
		828-833 宣子女王 桓武天皇皇孫 仲野親王女
		833-850 久子内親王 仁明天皇皇女
		850-858 晏子内親王 文徳天皇皇女
		859-876 恬子内親王 文徳天皇皇女 
		877-880 識子内親王 清和天皇皇女
		882-884 掲子内親王 文徳天皇皇女(群行せず)
		884-887 繁子内親王 光孝天皇皇女
		889-897 元子女王 仁明天皇皇孫 本康親王女
		897-930 柔子内親王 宇多天皇皇女
		931-936 雅子内親王 醍醐天皇皇女 藤原師輔室
		936-936 斉子内親王 醍醐天皇皇女(群行せず)
		936-945 徽子女王(斎宮女御) 醍醐天皇皇孫 重明親王女 村上天皇女御
		946-946 英子内親王 醍醐天皇皇女(群行せず)
		947-954 悦子女王 醍醐天皇皇孫 重明親王女
		955-967 楽子内親王 村上天皇皇女
		968-969 輔子内親王 村上天皇皇女(群行せず)
		969-974 隆子女王 醍醐天皇皇孫 章明親王女
		975-984 規子内親王 村上天皇皇女
		984-986 済子女王 醍醐天皇皇孫 章明親王女(群行せず)
		986-1010 恭子女王 村上天皇皇孫 為平親王女
		1012-1016 当子内親王 三条天皇皇女
		1016-1036 ?子女王 村上天皇皇孫 具平親王女 藤原教通室
		1036-1045 良子内親王 後朱雀天皇皇女
		1046-1051 嘉子内親王 三条天皇皇孫 敦明親王女
		1051-1068 敬子女王 三条天皇皇孫 敦平親王女
		1069-1072 俊子内親王 後三条天皇皇女
		1073-1077 淳子女王 三条天皇曾孫 敦賢親王女
		1078-1084 ?子内親王(郁芳門院) 白河天皇皇女
		1087-1107 善子内親王 白河天皇皇女
		1108-1123 恂子内親王 白河天皇皇女
		1123-1141 守子女王 後三条天皇皇孫 輔仁親王女
		1142-1150 妍子内親王 鳥羽天皇皇女
		1151-1155 喜子内親王 堀河天皇皇女
		1156-1158 亮子内親王(殷富門院) 後白河天皇皇女(群行せず)
		1158-1165 好子内親王 後白河天皇皇女
		1166-1168 休子内親王 後白河天皇皇女(群行せず)
		1168-1172 惇子内親王 後白河天皇皇女
		1177-1179 功子内親王 高倉天皇皇女(群行せず)
		1185-1198 潔子内親王 高倉天皇皇女
		1199-1210 粛子内親王 後鳥羽天皇皇女
		1215-1221 ?子内親王 後鳥羽天皇皇女
		1226-1232 利子内親王(式乾門院) 高倉天皇皇孫 守貞親王女
		1237-1242 c子内親王 後堀河天皇皇女
		1244-1246 曦子内親王(仙華門院) 土御門天皇皇女(群行せず)
		1262-1272 ト子内親王 後嵯峨天皇皇女
		1306-1308 弉子内親王(達智門院) 後宇多天皇皇女(群行せず)
		1330-1331 懽子内親王(宣政門院) 後醍醐天皇皇女 光厳天皇中宮(群行せず)
		1333-1334 祥子内親王 後醍醐天皇皇女(群行せず)











ジオラマの下には現地の航空写真があって、ジオラマが実際にどのあたりに在ったかが判るようになっている。









斎宮展示室全景










































斎宮跡


斎王祭りで斎王に分したモデルさん。昔行った時この祭りに出くわして思わずシャッターを押してしまった。


		斎宮制度

		斎王制が制度的に確立したのは天武朝である。しかし制度的に確立するまで長い前史がある。この制度はヤマト朝廷と
		伊勢神宮の関係を反映し、古墳時代の祭祀のありようを色濃く残している。

		斎王制は古代律令制の諸規定には全く記載がない不思議な制度であった。斎王や斎王が居所とした斎宮、斎宮の運営方
		法、財源の贅(にえ)制についても全く記載がなかった。このことから斎王制は律令制とは異質の存在だったと考えら
		れる。斎王の記載は「日本書紀」に倭姫命が天照大神の御杖代(みつえしろ)として仕えたのに始まると言われる。
		これは「日本書記」が作られた頃の斎王と伊勢神宮のあり方をこの時代に投影したものと考えられている。斎王制の確
		立は天武朝とされるが、系譜的に継体朝まで遡る。継体天皇の時伊勢の日神祭祀に送られたのが角(ささげ)王女であ
		る。角王女の母は近江息長の有力首長の女性 麻績娘子(おみのいらつこ)である。
		6世紀中頃以降にヤマト政権にとって伊勢神は特別の意味を持ち、伊勢神に奉仕する王女を送るようになった。伊勢神
		がヤマト政権の大王の祖神として特別の意味を持つようになると、奉仕する女性も大王家の王女から選ばれて、しかも
		神意にかなうものを卜定している。斎王は伊勢の日神の近くに赴いて仕えている。そしてここに赴くまでに大和に設け
		られた斎宮にて潔斎の日々を送っていたようだ。「日本書紀」には大来王女の泊瀬(はつせ)斎宮、十市皇女の倉梯川
		上斎宮(くらはしかわかみいつきのみや)が記載されている。この後群行して伊勢に新設された斎宮に入つて、神性を
		帯びた身として伊勢大神に仕えて祭祀を執り行っている。斎王は、時の大王の未婚の娘であることを条件としているが、
		女帝の時代には斎王が選ばれていない。斎王は女帝の権能と重なっていたようである。

		8世紀天武朝期に伊勢神宮が国家守護神として位置づけられる。以後斎王は国際的緊張関係の中で、天皇の外交に係わ
		る権能も遂行している。また伊勢神宮を精神的な中心として律令制のもとに国家を安定させる願いが込められていたよ
		うだ。従って初期投階の斎王がヤマト政権の守護の役割を担っていた事から、律令制確立期以降は国家的な守護も祀る
		存在に、斎王の役割が変質しているようである。以後平安・鎌倉時代を経て南北朝時代の後醍醐天皇の時に最後の斎王
		がト定されたが、伊勢に赴くことなく途絶えてしまった。



		<選ばれた斎王>

		斎王制度の概要は、平安時代に編纂された法令集『延喜式』により知ることができる。これによれば、斎王は、天皇が
		即位すると未婚の内親王(または女王)の中から、卜定(ぼくじょう)と言う占いの儀式で選ばれた。斎王になると、
		宮中に定められた初斎院(しょさいいん)に入り、翌年の秋に都郊外の嵐山・野宮(ののみや)に移り潔斎の日々を送
		り身を清め、翌年9月に、伊勢神宮の神嘗祭(かんなめのまつり)に合わせて都を旅立った。出発日の朝、斎王は野宮
		を出て葛野川(現在の桂川)で禊(みそぎ)を行い、大極殿での発遣の儀式に臨む。大極殿で天皇は、斎王の額髪に小
		さな櫛を挿し、「都の方におもむきたもうな」と告げる。この儀礼は、発遣儀式のクライマックスともいうべきもので、
		平安文学の中では「別れのお櫛」という名で呼ばれている。




		<選ばれた斎王>

		斎王制度の概要は、平安時代に編纂された法令集『延喜式』により知ることができる。これによれば、斎王は、天皇が
		即位すると未婚の内親王(または女王)の中から、卜定(ぼくじょう)と言う占いの儀式で選ばれた。斎王になると、
		宮中に定められた初斎院(しょさいいん)に入り、翌年の秋に都郊外の嵐山・野宮(ののみや)に移り潔斎の日々を送
		り身を清め、翌年9月に、伊勢神宮の神嘗祭(かんなめのまつり)に合わせて都を旅立った。出発日の朝、斎王は野宮
		を出て葛野川(現在の桂川)で禊(みそぎ)を行い、大極殿での発遣の儀式に臨む。大極殿で天皇は、斎王の額髪に小
		さな櫛を挿し、「都の方におもむきたもうな」と告げる。この儀礼は、発遣儀式のクライマックスともいうべきもので、
		平安文学の中では「別れのお櫛」という名で呼ばれている。
 



		<初代は大来皇女(おおくのみこ)>   武家社会の到来とともに幕 

		元々の起源は相当古そうであるが、記録に残る斎王(さいおう)制度は天武天皇の時代から始まった。南北朝時代まで
		約660年間続き、大津皇子の姉・大来皇女(おおくのひめみこ)を初代に60余名の斎王が伊勢へと赴いている。斎王
		は未婚の皇女に限られ、ト定(ぼくじょう)という亀の甲羅を焼く占いの方法で選ばれたという。斎王は選ばれると、
		都で3年の潔斎の後、斎王に仕える官人・官女ら約500人の供まわりを連れ、5泊6日の行程で伊勢へと郡行した。
		中には選ばれたとき2才だった幼女や、群行時32才の斎王もいた。天皇の譲位、崩御、近親者の喪に際して任を解かれ、
		大体任期は10年未満だった。
		斎王の最も重要な務めは伊勢神宮の三節祭り(6・12月の月次祭(つきよみさい)、9月の神嘗祭(かんなめさい))へ
		の奉仕。20km離れた神宮(伊勢神宮:正式には伊勢神宮は神宮と呼ぶ)へ1泊がかりで赴いた。普段の生活は祈りの日
		々を過ごし、また和歌を詠んだり、貝会わせのゲームに興じ、宮廷のような生活が営まれていたらしい。   
		最も華やかだったのは平安時代で、「伊勢物語」「源氏物語」などの平安文学に登場。伊勢物語では主人公と斎王との
		ロマンスが描かれ、題名の由来にもなったとされている。その斎王制度も承久の乱の後、斎王の不在期間が多くなり、
		南北朝動乱の中で終わりを迎えている。武家社会の到来とともにその歴史を閉じたのである。
 
		明和町では、毎年6月の第一土曜・日曜に「斎王まつり」を開催している。前夜祭に始まって、斎王群行や各種アトラ
		クション、<明和町大淀>で行ったといわれる禊(みそぎ)の再現など、いにしえの雰囲気たっぷりの催しである。
		着飾った斎王にかしずく女官達や公達。きらびやかに着飾った斎王には、在原業平(ありわらのなりひら)でなくとも
		ほのかな恋心を抱いてしまいそうである。



		<寮内でのまつり>

		斎宮では、斎王自身が清らかであることはもちろん、寮の官人および寮内各所が常に清浄であることが求められ、都に
		準じた様々なまつりや年中行事が行われた。宮域内各所から土馬(素焼きの馬)や人面墨書土器(人の顔を墨で描いた
		土器)、ミニチュア土器など、まつりに用いられたと考えられる遺物が出土している。



ボランティアのガイドさんの案内で、斎宮跡を見学する。博物館から近鉄「斎宮駅」の「いつきの宮歴史体験館」まで30分程歩く。



		<国史跡 斎宮跡・発掘でよみがえった斎宮>   三重県多気郡明和町

		昭和45年(1970)、現在博物館の建つ古里地区(ふるさとちく)で発掘調査が行われ、長い間埋もれていた斎宮が再び
		その姿を現した。これまでの調査の結果、斎宮では、奈良時代後期になると史跡東部で、区画道路により碁盤目状に区
		切られた方格地割(ほうかくちわり)が造営され、建物が整然と建ち並んでいたことが判明している。この地割は、約
		120メートル四方の区画が東西7列・南北4列並んで構成されるという大規模なものだった。



		 斎宮跡は、古代から中世にかけての約660年間にわたり、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた未婚の皇女・斎王の宮殿が
		あった所である。遺跡の規模は、東西約2キロメートル、南北約0.7キロメートル、総面積は約137ヘクタール(およそ甲
		子園球場35個分)と全国屈指の広大なもの。1970年(昭和45年)に始まった発掘調査は現在も続いており、「幻の宮」
		は少しずつその姿を現し始めている



		ここが幻の斎宮跡と調査の手が着けられたのは、制度がなくなって約700年たった昭和45年(1970)からである。東西約
		2km、南約0.7kmの約137haが国の史跡に指定され、発掘調査が進められている。そこからは、掘立柱建物、土馬、墨書土
		器などの遺構、遺物が見つかった。広大な上に一部旧参宮街道に面して住宅街も含まれるため、調査は14%ほどが済んだ
		だけである。全体の調査が完了するには後200年位かかるのではないかと言われている。発掘後は埋め戻され、また
		昔の畑や田圃に戻った。






		一帯は芝生が広がる史跡公園として整備されている。「斎王の森」は斎王の御殿があった場所と伝承されてきた。近く
		には掘立柱建物跡と井戸跡の遺構があり、斎王の森の前で初夏、ハナショウブが美しく咲く。発掘による出土品や斎宮
		に関する資料は、斎宮歴史博物館に保存・展示されている。





「斎宮跡歴史ロマン広場」と命名された大きな広場が広がっている。ここにミニ平安京があったのである。







「祓川」(はらいがわ)の跡。昔は大きな川だった。これはミニチュアにして作ってある(ようだ)。















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近鉄線の線路脇に「斎宮」の10分の1模型が作ってあった。









斎宮寮の想定復元模型(三重県明和町)



		
		<斎宮寮と祭祀>

		伊勢での斎宮の生活の地は、伊勢神宮から約20キロ離れた斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)であった。普段はここで
		寮内の斎殿を遥拝しながら潔斎の日々を送り、年に3度、「三時祭」(6月・12月の月次祭と9月の神嘗祭。三節祭とも)
		に限って神宮へ赴き神事に奉仕した。斎宮寮には寮頭以下総勢500人あまりの人々が仕え、137ヘクタール余りの敷地に碁
		盤目状の区画が並ぶ大規模なものだったことが、遺跡の発掘から判明している。特筆すべきは緑(青?)釉陶器の出土で
		あり、色に何か意味があった可能性も考えられる。なお、斎宮跡は昭和45年(1970年)の発掘調査でその存在が確認され
		同54年に国の史跡に指定されたが、その後も発掘中である。
		三時祭は外宮では各月の15・16日の、内宮は16・17日の両日に行われるが、斎宮はその2日目に参加し、太玉串を宮司から
		受取り、瑞垣御門の前の西側に立てる。また、2月祈年祭、11月新嘗祭で多気、度会の両神郡内の115座の神々に幣帛を分
		配する。


















いつきの宮歴史体験館






		いつきの宮歴史体験館    出典:ウィキペディア

		いつきのみや歴史体験館は「史跡斎宮跡」の保存活用・整備の一環として、文化庁の補助を受けて実施している、地方
		拠点史跡総合整備事業(歴史ロマン再生事業)により建設され、平成11年10月 2日に開館した。施設内では、斎宮が最
		も栄えた平安時代を中心に、歴史や文化を身近に体験・学習できる事業を実施している。また、当施設の北側に、斎宮
		跡歴史ロマン広場が開園(平成14年3月3日)し、斎宮の規模や構造を、よりビジュアルに見学出来る。
		また、1/10に縮小した模型では、発掘調査成果に基いて復元した建物群が見れるし、いつきのみや歴史体験館から斎宮
		歴史博物館へ、整備の進む史跡斎宮跡の散策を通して、斎宮と斎王、そしてこの地でくりひろげられた歴史の数々に思
		いをはせ流事が出来るようになっている。

		■ 体験の内容
		--------------------------------------------------------------------------------
		いつきのみや歴史体験館では、かつて、この地で斎王をはじめとする王朝人たちがくりひろげていた平安時代の遊びや
		生活文化を、いつでも気軽に体験できるメニューと、じっくり平安文化を味わって貰うメニューとが準備されている。
		十二単や直衣など、本格的な王朝貴族の装束を試着したり、年中行事にちなんだ食べ物や小物をつくったり、古代の技
		術文化などを体験する草木染めや機織りなど、さまざまなメニューが体験できるようになっている。

		■ 施設の案内
		--------------------------------------------------------------------------------
		いつきのみや歴史体験館は、史跡斎宮跡で発見された建物を復元したものではないが、斎宮が最も栄えた平安時代を背
		景に、貴族の住まいであった「寝殿造」と古代の役所の建物をモデルとした木造建築である。当時の建築技術を生かし、
		部材の組み立てに釘等は一切使用せず、木材は三重県産の杉・檜を用いているなど、建物そのものが、古代建築の体験
		空間になっている。



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斎王の乗った輿(こし)が置いてあって、



裏から中へ入るようになっている。体験館だから乗っていいのだ。



狭いねぇと言う人、快適そうと言う人、様々である。





貝合わせの貝が置いてあったり、十二単が揃っていたり、時間があったらゆっくり試してみたいような気がする。















斎宮跡の詳しい地図が必要な方はココをクリックしてください。


お昼の時間が来たので、駐車場に待っていたバスに乗り込んで松坂へ向かう。






		上の地図は、私がかって歴史倶楽部の例会で、この地方に来たとき用意した地図である。個人的にも何度か訪れて、
		雨の「本居宣長の館」などを訪ねた事がある。他にも「鳥羽竜発見地」という太古の恐竜の骨が発見された場所なども
		あって、なかなか歴史深い場所なのだ。相差(おうさ)の宿の魚も旨かったなぁ。


斎宮Q&A
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