青沼茜雲 GARELLY1


		

		作品ギャラリー 古代史編
		
		青沼茜雲氏は、古代九州の豪族であった「磐井」の墓と目される福岡県八女市の「岩戸山古墳」傍らにアトリエを構えている。
		若き日太宰府に住んでいて昔から歴史的なものに興味があったようであり、何点か磐井を描いた作品がある。また地元で定期的
		に開催されている「郷土劇 筑紫の磐井」の、「磐井の劇をつくる会」にも特別顧問として名を連ねている。冒頭の、太宰府天
		満宮所蔵の「天空を行く磐井」は、この作者の磐井を描いたものとしては代表的な作品であり、その大胆な色づかい、構図は見
		る者を圧倒する。





		
		この作品は平成7年に、全国17の有名神社から借り受けた神社秘蔵の名作40点を集めて、伊勢神宮の「神宮美術館」で行わ
		れた「神々に捧げた美と技−全国神社秘蔵近代美術品展−」と題した特別展に出品され、日本画の大家たち(横山大観、上村松
		園、小野竹喬、鈴木清方、堂本印象、富岡鉄斎、前田青邨、棟方志功等々)、洋画の巨匠たち(小磯良平、須田国太郎ほか)に
		混じって、生存する画家の作品としてはただ一点選ばれ、展示されて賞賛を浴びた。

		「血か炎か−赤いキャンパスに武将の白い横顔が浮かび上がり、「情熱」と「冷徹」、「再生」と「死」などのダブルイメージ
		が交錯する青沼茜雲の「天空を行く磐井」(伊勢新聞 平成7年2月1日)」



		
		筑紫君磐井
		
		日本書紀継体天皇21年(527)の記事によると、大和朝廷は、新羅から奪われた任那の地を奪還するため、近江毛野臣に6万の兵を率
		いて渡海させることになったが、新羅はひそかに筑紫君磐井に賄路を送って毛野臣の軍の渡海を妨げることを勧めた。そこで、磐井
		は肥・豊(肥前・肥後と豊前・豊後)の二国をもあわせた勢力をもって、朝鮮半島からの貢船を略奪し、朝延にたち向ったので朝廷
		は国家の大事として物部大連麁鹿火を遣わして討伐させたという。同22年11月、御井群(現在の福岡県久留米市・三井郡)で激戦が
		行なわれ、磐井は敗れて斬られた。同12月に磐井の子の葛子は、糟屋の地(現在、同県粕屋郡)を屯倉として献上して父の罪に連座
		することを免れたという。「筑紫国風土記」逸文には、磐井は豊前国上膳県(現在、豊前市付近)に逃亡したという別伝と、生前に
		彼が築造した自分の墓と、そこに飾られた石人、石馬などのことが記されている。



		
		筑紫国造
		
		筑紫国造が成立したのは6世紀の後半ともみられているが、5世紀後半にはすでに肥・豊(肥前・肥後・豊前・豊後)にまたがる一大
		勢力圏をつくっていたとみられる。磐井の乱の後も国造の存続を許され、白村江の戦ののち唐に抑留されて天智10年(671)帰国した
		筑紫君薩野馬はその後裔とみられる。同族に筑紫鞍橋君・筑紫火君・筑紫火中君がみえる。八女丘陵上には、現在11基の前方後円墳
		を含む約150〜300基の古墳が発見され、その年代も5世紀中頃から6世紀後半までおよんでいる。磐井の乱以後も連続して大形墳墓が
		造営されており、筑紫君一族が滅びることなく存続したことを物語っている。



		
		八女古墳群の中の童男山(どうなんざん)古墳には奇妙な伝説がある。岩戸山古墳と同時期の6世紀後半に築造された円墳であるが、
		ここが徐福伝説に言う「徐福」の墓だというのである。秦の始皇帝が不老不死の仙薬を求め、仙術にたけた徐福が一族郎党を率いて
		九州に上陸したが、ここ八女で病に倒れたという。人々の看護にもかかわらず徐福はここで亡くなり、木の船は朽ちて石船になった。
		そこで童男山に塚を造って葬ったと言う。今でも徐福の命日には「ふすべ」という行事が行われている、とものの本にある。

		徐福の命日など誰が知っているのかと思うが、しかしここにこういう伝承が残って居るというのは、太古からのあることを伝えている
		のではないかという気がする。それは、磐井も含む「筑紫の君」一族が渡来人の末裔ではないかという考えである。詳細は「岩戸山歴
		史資料館」で検証しているが、八女古墳群からの出土物は大陸半島色が非常に強いと思う。和歌山市立博物館に展示してある同市大谷
		古墳から出土したイアリングといい馬具類といい、明らかに渡来系の遺物でそれはここ八女古墳群からの出土物と酷似している。しか
		も和歌山も根強く徐福伝説の残る土地である。

		また、最近の研究者たちの中には、「磐井の乱」は「乱」ではない、という見方をする者もいる。大和朝廷の九州・支配経営政策に反
		発した「磐井」の「大義の抵抗」であるというものだ。

		私見では、「倭国大乱」や、それに続く「大和朝廷」成立前後の闘いや、大和朝廷による熊襲・蝦夷征伐などは、渡来人どうしの派閥
		争いもしくは渡来人たちの部族間闘争であるというのが私の説である。渡来してきた朝鮮人・騎馬民族・中国人たちの集団は、それぞ
		れ日本中を騎馬により或いは徒歩により、駆けめぐって各地に拠点を築いた。それははるか縄文時代にも行われ、弥生に入っては環濠
		を築いてムラを守り、馬が移入されてからはそれらを持ってきた部族たちと闘い融合し、次第に日本列島に地盤を築いていったのだろ
		う。そして朝鮮系は中国系とあるいは騎馬民族系と、あるいはもともと日本にいて渡来人の力を借りて力を付けていた「国津神」たち
		と、闘い、融和し、和合しながら、日本全体が統一へ統一へと突き進んでいたのではないだろうか。

		「磐井」も、渡来系の末裔で九州北部に勢力を持っていた豪族で、これを支配したい大和の勢力が攻め込んできたというのが、私の
		「磐井の乱」に対する捉え方である。官営の歴史書である「日本書紀」には叛乱と明示されているが、「筑紫国風土記」では、大和朝
		廷側が突然攻め込んできたという表現になっている。(尚、本文には「筑後国風土記」と記されているが、そういう名の風土記の存在
		は今の所確認されていない。)



		
		上記青字の部分は、「邪馬台国大研究・遺跡巡り」の中の「岩戸山古墳」のコーナーに書いた文章であるが、青沼茜雲氏の描く磐井
		も、磐井の評価が変貌していくにつれてその表情に変化が見られる。作者が初めて磐井を描いた頃は、磐井は大和朝廷に刃向かった
		逆賊・国賊としての評価が強く、次第に上記で述べたような意見が強くなって来るにつれ、作者の描く磐井も表情穏やかな泰然とし
		た顔つきに変化していくのである。また上の郷土劇ポスターのタイトルも「叛乱、乱」から、ただの「筑紫の磐井」と変化している。
		磐井の復権である。

 



 
青沼氏の描く、初期の磐井 と 近年の磐井(KBCテレビ 「九州街道ものがたり」より)




		
		八女市は、日本書紀の 「この地方に女神あり、その名を八女津媛(やめつひめ)といい、常に山中にあり」 という一節からその名を
		貰い、これが八女という地名の由来とされる。八女地区の東、矢部村には八女津姫神社(創建西暦719年)が現存し、今もさまざまな行
		事が行われている。岩戸山古墳をはじめ多くの古墳群が存在することもあり、八女津媛を魏志倭人伝に言う「卑弥呼」に比定し、八女
		が邪馬台国だったという説を唱える人も多い。今年(2003)の3月7日物故した作家の黒岩重吾氏も「耶馬台国は八女津媛が君臨した
		矢部の山峡ではないか。」と唱えていた。

		以下2編の八女津媛を描いた青沼氏の作品も、たぶんに卑弥呼のイメージとダブっている。




		上記の絵は、八女津媛、卑弥呼と言うよりも観音様を思わせる。琳派のような金箔の写経の流れの中で、光背を纏った
		女性はまさしく仏様・菩薩である。現物ではなくこうやってカタログから見た限りでは日本画のようにも見える。