いつも「邪馬台国大研究」ホームページをご覧頂いてありがとうございます。お陰様でアクセス数も
		160万を超え、ひとえに、読者諸氏のご支援の賜と深く感謝します。

		 さて、このたびは「季刊邪馬台国」の定期購読のお願いです。ご承知のように、この雑誌は古代史
		専門の民間商業ベースでの雑誌ですが、今や「古代史」専門雑誌としては、日本でも最後の雑誌とな
		ってしまいました。しかし専門雑誌の宿命か、この雑誌も現在風前の灯(ともしび)です。即ち「廃
		刊」の恐れが大なのです。
		 経営的にはこの雑誌は創刊以来三十数年、黒字になった事がありません。それでも古代史ファンの
		為に、専門家とアマチュアを結ぶ歴史界の研究推進の一助になればという想いで、経営者の理解の元、
		発刊し続けてきました。しかしながら、昨今の活字離れ、紙本離れの流れの中にあって、もう持ちこ
		たえられない場面に差し掛かっています。
		 福岡という一地方都市からこういう「古代史」専門雑誌を出すことの難しさもさることながら、若
		者の歴史離れ、今までの誤った歴史教育などが、日本人をますます自国の歴史理解・歴史認識から遠
		ざけています。
		 ここに至って、今127号から編集陣を刷新し、新編集長河村哲夫を委員長とする「編纂委員会」
		を立ち上げ、新たな体制で再スタートすることになりました。微力ながら小生も副編集長として編集
		に関わっています。そのような状況ですから「編纂委員会」メンバーは全員無給、すなわちボランテ
		ィアです。
		三十数年という歴史ある「古代史雑誌」を廃刊にしたくないという思いから、全員、もっと面白い雑
		誌に、もっと読者が増える雑誌にとの想いで参加しています。どしどしアイデアをお寄せください。

		 そこでこのホームペ−ジの読者諸氏にも、宜しかったら「季刊邪馬台国」の定期購読者になってい
		ただけないかとお願いする次第です。お志のある方は、以下の振込用紙の内容を郵便局の用紙に書い
		て頂いて、ご入金いただければ幸いです。この振込用紙を印刷して郵便局に持参しても振り込めない
		(特にATMでは)と思いますので、内容を写して下さい。

		 「季刊邪馬台国」は、消費税の変更に伴い、121号(2014年4月号)から定価1,350円となってい
		ます。予約購読をお申し込みの方は、何号からと明記の上、1年分(4号分、5,400 円)をお払い込
		みください。またバックナンバーをご希望の方は、以下の在庫の内からご希望の号数と、その該当金
		額をご記入の上、お払い込み下さい。

		<在庫>

			○33・35・43〜49号    ・・・・・・・@1,050円
			○52〜55・57・59〜61号 ・・・・・・・@1,275円
			○62〜114・116〜120号 ・・・・・・・@1,300円
			○121〜127号        ・・・・・・・@1,350円


		 尚、ご入金頂く際、通信欄に「邪馬台国大研究」とご記入頂けたら管理上助かります。
		以上、何とぞ宜しくお願い申し挙げます                      
							              平成二十七年師走吉日
                              「季刊 邪馬台国」副編集長 井上筑前













「古代史コラム」 弥生人は字が読めたか?

		昔から、弥生人は文字を知っていたかという議論がある。日本語の起源と相まって非常に論議を呼ん
		でいるテーマであるが、「漢委奴国王」金印は紀元57年に奴国王に渡っている。後漢の初代光武帝
		が建武中元二年に金印を授けたとの記事が「後漢書・東夷傳」に見える。奴国が文献に現れる初見と
		される。字の読めない民族にこんなものを渡しても仕方がない。当然奴国王は書かれた意味を知って
		いたと考えるべきだ。
		また、卑弥呼の景初二年( 238)六月(景初三年の間違い?:魏が、燕王を名乗って暴れ回る、帯方
		郡太守の公孫淵親子を滅ぼすのが景初二年八月なので、その直前に帯方郡へ行く事は不可能とされて
		いる。これについては特に異論はなく、いわば「誤りだ」というのが定説になっている。)に、難升
		米を団長とする卑弥呼の使節団が魏を訪れ、魏の皇帝に引見している。その際皇帝が女王に出した詔
		書を、おそらくは原文のまま東夷伝に掲載することによって、この朝貢時の説明一切を省いている。
		この詔書の部分は倭人伝の他の箇所よりも資料的価値が高いとされているが、これとて字の読めない
		女王に渡すいわれは無い。以下の訳文は多少意にそぐわない部分もあるが、ま、概ね可とすれば、卑
		弥呼はこれを読めたと考えるべきだろう。



		景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、
		詔書報倭女王曰:
		「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女
		生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏
		倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道
		路勤勞、今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦
		五匹【臣松之以爲地應爲[糸弟]、漢文帝著saup衣謂之戈[糸弟]是也。此字不體、非魏朝之失、則
		傳冩者誤也】、絳地suu[扁糸旁芻]粟kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]十張、sen[冠艸脚倩]絳五十匹、
		紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]五張、
		白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録
		受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。」









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