最新のDNA分析結果によれば、日本民族が中国・韓国・東南アジア・北方ツングース等々の混合DNAを持っているのはまず間 違いない事実である。中でも中国、韓国の比率は高く、見方によっては、我々は縄文人・中国人・韓国人の混合民族とも言 える。特に韓国はその地理的な位置関係から言っても、我が国古代の国家形成に多大の影響を与えたであろう事は容易に想 像できる。事実、我が国の国土から発掘される古代の遺跡・遺物からは、古代韓民族との関わりを示すものが山ほど出土し ている。(最近は韓国の遺跡からも我が国固有の産物が出土しており、韓国からの一方的な移入ではなく相互に交流があっ たことが証明されている。)
滋賀県安土町の安土考古博物館において、2001年4月22日〜6月3日の間、「韓国(からくに)より渡り来て」とい う展覧会が開催された。歴史倶楽部の河原さんと連れだって、6月3日のよく晴れた展示最終日に見学した。各地の遺跡か ら出土した韓国(からくに)ゆかりの遺物を一堂に集めた、「古代大韓国(からくに)展」とも呼べそうな展覧会だった。 日本中の博物館から集められた遺物は、大半が西日本の遺跡から出土したものだったが、そのおよそ半分くらいは私は既に 個々の博物館で見学していた。 しかしこの展示のように、同類のものが山と並べられている様は圧巻だった。しかしながら特別展の常で、例によって会場 内は撮影禁止だったので、ここに展覧会の模様はお伝えできない。展示物の幾つかを、特別展目録からSCANした画像でご覧 いただこうと思う。
上4つはいずれも朝鮮半島出土のもので、東京国立博物館に「小倉コレクション」として収蔵されている。まったく同じ形 式のものは日本中の古墳で見ることができる。すぐ上右側のイアリングは、福岡の岩戸山古墳、和歌山の大谷古墳から出土 しているものとまったく同型である。
上は銅製 「ひのし」 と呼ぶ。古代のアイロンである。中におそらく炭を入れて、熱で着物の皺を伸ばしたもののようだ。 我が国ではまだ2例しか出土例がない。(奈良県新沢千塚古墳群、大阪府高井田山古墳)。しかし、韓国の武寧王妃の墓か ら同じものが出土しており、極めて高貴な生活備品とされている。「新撰姓氏録」などで、国王や王家の出だと、後の世の 渡来人達が主張するのは案外ほんとなのかもしれない。
渡来した人々は、渡来直後から当分の間は、当然自国の風俗・風習を営み、服装も今まで来ていたものをそのまま使用した と考えられる。祭りや儀式の時には特にその傾向が強かっただろうと想像できる。しかしながら、そのような渡来人達の異 国風の面影を伝える資料は今日殆ど残されていない。そのなかで、もしかしたらこれは渡来人の風貌を伝えているのではな いかとされる人物埴輪が数例知られている。 千葉県市原市山倉1号墳出土の人物埴輪(上右)、埼玉県行田市酒巻14号墳出土の人物埴輪例(上左)などがそうである。 山倉1号墳は全長45mの前方後円墳で、横穴式石室の開口部左に造られたテラスに、合計13体の人物埴輪が並べられて おり、そのほぼ中央に、長い筒袖の服を着用し、天冠を被る男性像2体が配置されていた。衣服は右前に合わされ、袴もゆ ったりと脚結(あゆい)をつけずに着用し、腰帯も締めず太刀も着用していないこと、また足には先端が尖り大きく反り返 った靴をはいていることなどから、渡来人或いは渡来人をまねた人物の埴輪だろうという意見が強い。
福岡県甘木市。ここが私のふるさとである。ここの城下町「秋月」で私は生まれ育った。 その甘木(朝倉地方含む)は、昔から古代遺跡の宝庫だった。私の学んだ朝倉高校の史学部は、昔から地域の文化財発掘と その保護に努めており、その活動は九州ではちょっと有名であった。元九州大学教授で考古学専攻だった、故鏡山猛氏も、 「朝倉は筑紫の宝庫である。」と述べている。弥生時代から古墳時代にかけての遺跡がゴロゴロしており、近隣の浮羽郡・ 三井郡と併せて広大な古代文化圏を誇っていたものと思われる。 近年、「吉野ヶ里遺跡」「原ノ辻遺跡」と併せて北九州における弥生時代の三大環濠遺跡である「平塚川添遺跡」が出現し て、ますますこの地方の古代は、各方面からの照射を浴びているといってよい。吉野ヶ里を発掘し一躍考古学会に名前が売 れ、佐賀県副教育長からいまや大学教授となった高島忠夫氏も、「平塚川添遺跡」の出現を知って「今度北九州で何か出る とすれば甘木朝倉だろうと思ってました。」と述べている。 さて、そんな甘木朝倉(* 注)地方に、古代韓国との強い結びつきを示す古墳時代の遺跡がある。この展覧会にもきっちり 出土品が展示されていた。遠く琵琶湖のほとりで、ふるさとの遺跡から出たものを見るのは何とも感慨深い。
「池の上・古寺墳墓群」は古墳時代初期の墳墓群で、現在の甘木中学校が移転された際、その工事中に発見された。79基 の墳墓で構成されており、大半が4〜5世紀の築造である。竪穴式や横穴式の石室はなく、石蓋土壙墓(いしぶたどこうぼ) が多い。墳丘の規模も小さく副葬品も「池の上6号墳」を除けばさしたるものもなく、発見当時はさほど注目を浴びること もなかった。 ただ、「池の上6号墳」出土の馬具(轡)は、学者によっては日本最古の馬具ではないかとの意見もある。この墓からは他 にも鍛冶具等が出土しており、この墳墓群の中では突出しているため、この地方の首長だったのではないかという見方もあ る。遺跡の場所そのものは現在中学校の敷地の中で、どこに墳墓があったのか、どこから馬具が出土したのか、案内板もな く、皆目わからない。
5世紀になると、副葬品の中に伽耶系陶質土器等が多量に出土するようになり、しかもそれらの多くは伽耶の風俗をそのま ま踏襲するように土壙墓のなかに副葬されている。近年、それらの中に近傍の「朝倉窯跡群」産の初期須恵器が多量に含ま れている事がわかってきた。「朝倉窯跡群」は、韓国から渡ってきた人々が住み着き、北九州における須恵器生産を開始し た所である事が最近判明した遺跡であるが、池の上墳墓に葬られた人々も、おそらく伽耶から渡ってきて、朝倉地方の首長 の指導の元、須恵器生産に従事していた人々だったのだろう。
池の上・古寺墳墓群には、朝鮮半島南部地域の女性墓と共通する葬送習俗の見られるものがある。 算盤玉形の陶製紡錘車を副葬した墓がそれである。池の上D1・19号墳は石蓋土壙墓で、前者では陶製紡錘車が被葬者の 足付近から、後者では右肩当たりから出土している。26号墳は土壙墓で、被葬者の頭付近から出土している。古寺2・3 号墳では壙墓内に副葬され、9号土壙墓では壙墓西側供献されていた。副葬品中の土器の特徴から、これらは伽耶地域から 渡来して、故郷の風俗を失うまでに至っていない渡来人一世の女性墓と考えられている。 どういう経緯でこの一団が故郷を捨ててきたのかはわからないが、彼らはこの朝倉の地に根付いて、やがて伽耶人から日本 人となっていったのである。もしかしたら私の友人達の中には彼女の子孫がいるのかも知れないし、ひよっとしたら私自身 がこの渡来人達の子孫なのかもしれない。
(* 注) 一般には「甘木・朝倉地方」と呼ばれるが、正確な行政区としては、甘木市は東西2つの朝倉郡に挟まれている。 もともとは広大な朝倉郡だったのだが、安長寺の門前町だった甘木が市制を敷いた時、朝倉郡は統合を嫌がり、現在東西に 分離する格好で存在している。甘木市の東側には杷木町・朝倉町・小石原村・宝珠山村等があり、西側には夜須町・三輪町 がある。幾度か統合の話があったが、朝倉郡各町がその都度反対し現在に至っている。もし甘木・朝倉が合併したとすると、 その大きさは福岡市を抜き、北九州市につぐ福岡県第二の都市となるのであるが、現地ではそういう気運にはなっていない。 ともかくそういう経緯で、甘木市の中にある高校は、昔から「朝倉高校」「朝倉東高校」「朝倉農業学校」と全て「朝倉」 が付いている。 甘木・朝倉地方は、平成の大合併で、小石原村・宝珠山村が合併して東峰村に、夜須町・三輪町も合併して筑前町となった。 さらに平成18年3月20日付けで、甘木市と杷木町と朝倉町も合併して新しく「朝倉市」が誕生する。したがって朝倉市 は、新しい二つの朝倉郡の2つ町にはさまれる格好になる。(平成18年2月1日) 滋賀県を中心とする近畿地方(奈良・大阪・兵庫・和歌山・三重)の古墳から、炊飯具のミニチュアが出土する。古墳時代 後期の群集墳横穴式石室からのみ出土し、滋賀県が圧倒的に多い。竈(かまど)、甑(こしき)、釜(かま)、鍋(なべ) がセットで、実物より相当小さめである(7cm〜35cm)。このようなミニチュアの炊飯具を古墳に副葬する習慣は朝 鮮半島にはなく、中国の漢代・唐代において盛んに墳墓に副葬される。しかし、副葬されているミニチュア土器の竈(かま ど)、甑(こしき)、釜(かま)の形態は中国にはなく、明らかに朝鮮半島のものである。ミニチュアではなく本物の竈 (かまど)、甑(こしき)も出土しているが、それが出土するのは明らかに渡来系集団の集落跡からである。 従って、ミニチュアの炊飯具を副葬した横穴式石室の主は、明らかに渡来人かその影響を受けた人物と考えてよい。我が国 の近畿地方に、朝鮮からの渡来が大規模に行われた事の証拠である。会場には以下のようなミニチュア炊飯具がずらりと並 んでいて圧巻だった。
京都大学名誉教授の上田正昭氏が所有している、平安時代のはじめ弘仁6年(815)に編纂された「新撰姓氏録」(しんせ んしょうじろく)という書物がある。これは、当時の山城・大和・摂津・河内・和泉の5ケ国に居住していた政府要人の家 柄を書き表した書物で、これによれば1182氏のうち326氏(27.6%)が、自ら渡来氏族であることを主張してい る。本来は本文30巻・目録1巻であったが、現存するのは抄録本のみ。畿内の有力氏族を皇別・神別・諸蕃に分類し、そ の始祖・同祖関係を記す。この上田正昭氏所蔵本は、おそらく江戸時代の写本で、いわゆる混成本系統の重要な1本とされ ている。 これらの氏族は、その始祖を中国の皇帝や、百済・伽耶など朝鮮半島の国王、或いは「百済国人」「高麗国人」「任那国人」 「新羅国人」「韓国人」「呉国人」など日本国外の人々に求めており、これら祖先が海を渡って来日したと主張しているの である。皇帝や国王というのは多少の見栄や虚栄心が働いているのだと思うが、先祖は明らかに渡来人だと平安初期の子孫 達は知っていたのである。 我が国最古の文献である「古事記」「日本書紀」にも、渡来してきた氏族についての記述は多い。応神天皇の時代に渡って きた「阿知使主」(倭漢直氏の祖)、おなじく応神期の百済から来た「弓月君」(秦造氏の祖)、応神期の「王仁」(西文 首氏の祖)、欽明天皇時代の「王辰爾」(船史氏の祖)、等々。その他にも時代を経るごとに、「続日本記」などの文献も 作られるようになり、帰化人の誰それはXX氏の始祖、・・・・という記事が目立って増えてくる。やがて、律令時代の渡 来人達は財政や記録、天文、税徴等という幅広い分野で重用されるようになり帰化人と呼ばれて我が国古代の行政機関での 重要なポストを占めるようになるのである。
2000年11月の、藤村新一氏による「旧石器時代の石器発見」捏造事件が発覚するまでは、氏自身が発掘した高森遺跡や上高 森遺跡の成果から、日本にも原人がいたことが証明されるのを期待する向きは多かった。一時は60万年前を遡る100万 年前という数字も出現した。北京原人でも50万年前である。それを遙かに遡る時代に、日本列島にも人が住んでいたとい うイメージは、歴史ファンならずとも多くの人々に古代の夢とロマンを与えてきた。平成13年8月現在、これらが全くの 捏造であたという事実が判明しつつある。石器のみならず、遺跡そのものも捏造の疑いがあるのである。全く罪深いことを してくれたと言うほかない。 中国大陸、朝鮮半島からの人々の渡来は、日本がまだ大陸と陸続きだった遙か旧石器時代から連綿と続いてきた。渡ってき た総数がいったいどの位のものになるのか見当も付かないが、おそらく膨大な数に達することだろう。そして、縄文・弥生 ・古墳と徐々にその形跡を遺跡に残しながら、歴史時代になるとその足跡は文献にも記録されるようになる。古代国家の萌 芽が出現した5−6世紀頃には、「日本書紀」にこれら渡来人達の記事が出現するし、先に見た「新撰抄事録」などもその 一つである。 渡来人達は、各時代ごとに我が国に多くの文化と技術を運んできた。勿論渡来は一率ではないし、渡ってきた民族も一様で はない。しかし連綿と続いたこれら渡来人達によって我が国の基礎は作られたとも言えるのだ。
渡来人或いはその影響を受けた人々の墳墓については、このHPの「遺跡巡り」で幾つか取り上げている。これらの古墳・ 墳墓からの出土物の中には、明らかに韓国(からくに)のもの、或いはその影響を受けていると思えるものがある。お時間 が許せば、是非ご訪問戴きたい。 遺跡名 時代 URL 吉武遺跡(福岡) 弥生 http://www.inoues.net/ruins/yoshitake.html 江田船山古墳(熊本) 古墳 http://www.inoues.net/ruins/edafunayama.html 高井田山古墳(大阪) 古墳 http://www.inoues.net/ruins/takaida.html 藤ノ木古墳(奈良) 古墳 http://www.inoues.net/ruins/ikaruga.html 新沢千塚古墳(奈良) 古墳 http://www.inoues.net/niizawasenduka.html 沖ノ島祭祀遺跡(福岡) 弥生 http://www.inoues.net/ruins/okinosima.html 一須賀古墳群(大阪) 古墳 http://www.inoues.net/ruins/ichisuka.html 百穴古墳群(滋賀) 古墳 http://www.inoues.net/ohtu/ohtu_meguri.html 大谷古墳(和歌山) 古墳 http://www.inoues.net/ruins/otani_kofun.html 岩戸山古墳(福岡) 古墳 http://www.inoues.net/ruins/iwatoyama_kofun.htm