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古代出雲文化展
平成9年12月、出雲の遺跡を一堂に集めた古代出雲文化展が大阪で開催された。11月一緒に出雲へ行った連中で、実は夏にも一度出雲へ行ったのだが、その際は列車の時間に間に合わず、松江市で行われていたこの文化展を見る事が出来なかった。見るには見たのだが松江市に着いてこの催しを知ったので、会場が2つに分かれているのを知らず、実際に発掘された遺物は見ないまま悔しい思いをして大阪へ戻ったのだった。その時大阪でも開催されるという案内があったので、この展覧会を楽しみにしていたのである。友人達は、それぞれ子供と一緒に行ったり、仕事の合間をぬったりして行ったようだ。私は例によってWifeと見学した。

加茂岩倉・神荒谷遺跡の遺物、八雲立つ風土記の丘資料館の展示物、その他出雲地方の考古遺物がこれでもかと言うほど並んでいた。358本の銅剣がズラリと並んだ様は圧巻だった。神荒谷の銅鐸も入れ子状態のものや、土が付いたままのものなど感動ものだった。遺物を復元した剣・短剣・鏡・銅鐸が展示されていたが、製作当初の青銅の輝く黄金色が神々しく、なるほどこれなら古代の人々はまさしく宝としてあがめたに違いない、と思われた。出雲の玉造りの製造工程や、出雲大社の変遷なども展示してあった。

出雲は古代史においては特異な存在である。記紀神話には高天原に抵抗する勢力として描かれ、そして最終的には高天原に屈するのであるが、神話上では筑紫とも大和とも違う異彩を放っている。しかしながら、長い間出雲地方においてはめだった考古学上の発見が少なかった。北九州や大和に比べれば殆ど無きに等しかったと言っても良い。それがここ数年、めざましい発見が相次いでいるのだ。加茂岩倉遺跡の銅鐸。神庭荒神谷のおびただしい数の銅剣。今回は展示は無かったが、出雲大社の境内から出土した、三本束ねの巨大な心御柱。(この展示会の3年後に出現した。)今回の展示は、そんな出雲が、古代史の上において「俺はここにいるぞ!」とその存在を強くアピールしているように思えてならない。










加茂岩倉遺跡出土の銅鐸(下左)と神庭荒神谷遺跡出土の358本の銅剣。
会場では、銅剣は1本1本固定して壁一面に展示してあり圧巻だった。





























加茂岩倉出土の銅鐸には、さまざまな模様が描かれている。出雲独特の文様もある。
	
	下左の写真は古墳時代の短剣とその複製品。黄金色が素晴らしい。環頭太刀も復元してあった。右側は加茂町神原神社古墳
	からの	出土品。景初三年銘の三角縁神獣鏡も出土している。



	
	出雲の古墳には(正確には出雲だけでなく山陰地方)、近畿には無い四隅が突出した古墳がある。左は西谷3号墓の復元模
	型。吉備地方(岡山県一帯)が産地といわれる、大きな花台のような特殊器台もこれらの四隅突出古墳から出土する。
	又6,7世紀には他の地方に類をみない石棺式石室や横穴式石室が生まれた。右の石室は、松江市向山1号墳の模型。盛り
	土の下に子持ち壺があった。どうせ土の中に埋めてしまうのに天井岩は屋根型をしており、被葬者を葬った跡も儀式に使用
	されていたようである。入り口はぶ厚い石板で作られている。

 



















	
	加茂岩倉で出土した19号銅鐸。入れ子になった銅鐸が見える。下右側の通称子持ち壺と呼ばれる壺は韓国にその源がある
	ようだ。韓国からの日本海ルートは古代から存在していたに違いない。






上は玉造現場の想像復元図。出雲は、古代から勾玉製造のメッカであった。玉造温泉にその名を残している。


























 

	
	出雲大社の変遷の模様。左が平安時代で本殿の高さは48mもあったと記録されている。それ以前は96mあったとされてい
	るらしいが、これは信じがたい。右は鎌倉時代。下左は江戸時代初期である。次第に低くなってくるが、現在(下右)でも
	24mあり神殿では日本一の高さである。現在の大社は江戸時代中期(1744)に立てられたもので国宝である。高床式建物の
	様式を留めている伊勢神宮とともに、古代建築の2大建造物であるが、伊勢神宮の高さは9mしかない。

 













	
	展覧会閉幕までに3回も見に行ってしまった。358本の銅剣、加茂岩倉の銅鐸はさすがに迫力がある。古代出雲は一体いか
	なる勢力が支配していたのだろう。おそらくは、近畿の勢力と並ぶ程の権力者がいたに違いない。筑紫と出雲と大和、こ
	の3者間の勢力図の結末がおそらく大和朝廷の礎となるのだろう。



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