Music: Woman in Red
講演会 「纒向遺跡を堀る」

奈良県立図書情報館 2009.12.13



(画:寺沢薫氏)
	
	奈良の纒向遺跡から、「第166次 発掘調査」で大型建物の跡が検出されたというので、近畿地方ではその結果を受けての講演会が
	目白押しである。桜井市の教育委員会主査で、纒向遺跡発掘調査主任の橋本輝彦氏などは、あっちこっちの講演会に引っ張り出さ
	れて、先月は九州の国立九州博物館にも引っ張り出されて、発掘成果を説明していた。その直後、同じ壇上で私は「吉野ヶ里説」
	を一席ぶったのだが。橋本氏はその後もまだスケジュールが過密で、年が明けての2010年2月3月には河内松原市などの「歴史講座」
	にも顔を出している。事ほど左様に、今回の発掘調査によって出現した「大型建物跡」は、邪馬台国畿内説を唱える人々の目には、
	涙が出るほど嬉しい「物証」として写っているらしい。本日講演会の会場になった奈良県立図書情報館の館長、千田稔氏(元国際
	日本文化研究センター教授)などは、「これで(邪馬台国=纒向説の)ダメ押しです。」などと発言している。

	このフィーバーは、吉野ヶ里を初めとする九州各地の弥生遺跡を何度となく見てきた私たち(邪馬台国九州説の人々)からすると、
	「哀れな!」とさえ思える現象である。「こんな(ちっぽけな)遺跡の出現を邪馬台国と結びつけねばならないほど、畿内には邪
	馬台国候補地が無いのか」と、かわいそうにさえなる。昨年の発掘ではまだ広がりが分からなかった建物群が、今年の調査でその
	輪郭を現わしたので、邪馬台国畿内説を唱える人々は「これで纒向遺跡に卑弥呼の館があった事が証明された」と、言わば「浮か
	れている」のである。
	しかし纒向遺跡は邪馬台国ではない。少なくとも今までに出現している遺跡や出土物からだけでは、ここが邪馬台国だとはどうし
	ても判断できない。地元意識や「郷土史家的視点」を捨てて、客観的に、冷静に考えればそれはすぐ分かるはずなのだが。

	今日の講演会は、邪馬台国畿内説を唱える人々のその「浮かれ振り」を観察に来た、言うなれば「敵情視察」である。歴史倶楽部
	の皆さんにも声を掛けたが、申し込み多数で抽選となり、郭公さんしか顔を見せていなかったようだ。



我が歴史倶楽部の橋本さんはこの新大宮に住んでいるのだが、講演会の抽選に漏れたそうで大いに悔しがっていた。



郭公さんと会って、講演まで時間があったので、平城京跡の大極殿を見に行く事にした。その模様は巻末に。



単に「図書館」ではなく、「図書情報館」となっているところに奈良県の自負を垣間見るようだ。









	
	こちらは抽選に漏れた人が講演の内容をビデオで見るために作った特設会場のようだった。橋本さんはここにいたのかな。なんと、
	今日の講演会は300席に対して1200通の申し込みがあったらしい。実は郭公さんもはずれて、私が申し込んでいた2名枠で
	参加したのだった。郭公さんも当たってれば、何人かで聞けたんだが。









千田館長の挨拶に続いて、京大名誉教授の上田正昭氏の基調講演「邪馬台国と纒向遺跡」



	
	上田先生もすっかり白髪の老人になられて、名誉教授らしい雰囲気を漂わせておられたが、公演内容は以下のような話をダラダラ
	と喋ってはった。	
	
	・日本人 → 赤穂浪士が好き → 邪馬台国も好き → 本が売れる。
	・纒向 → これで邪馬台国はきまりか → 言い過ぎ? → まだわからん。
	・「魏志倭人伝」という本はない → 三国志の中の → 魏書を魏志と呼んだ(30巻)。
	・三国志には3種類あって → 「呉書」「蜀書」「魏書」である → 呉書」「蜀書」には外国のことは書いていない。
	・魏書の「倭人伝」 → 1930文字あって、(外国の話の中で)一番詳しい。
	・公孫氏 → 3代にわたって遼東半島を支配 → 青龍3年、卑弥呼が使いを派遣。
	・魏の一里で調べる → 水行十日、陸行一月=40日。
	・行程記事のみで議論したらアカン → 第壱段階は行程記事 → 第弐段階は風俗記事 → 第三段階の外交記事が重要。
	・陳寿は、海南島あたりを邪馬台国と考えていた。
	・「共立」という意味が大事 → このくだりは何か良くわからんかった。
	・都市牛利 → 都市を管理する(人)
	・九州の山門は甲類 → 畿内山門は乙類
	
	「邪馬台国と纒向遺跡」という題にしては、纒向遺跡のことは殆ど喋っていなかった。ちょっと詳しい邪馬台国マニアなら既知の
	ことばかりを話してはった。



上田先生のあと、橋本さんが例によって沢山の写真を見せて、発掘調査の結果を報告する。









	
	・現地説明会には1万2千人が来訪 → 1回毎には10分しか喋れなかった。
	・相当数の木工具が出土したが、そのうちスコップが95%を占めている → これは全国的に見ても非常にまれである。
	 → 普通は30%程度。
	・農耕に使う木工具は殆ど出土していない → また、畑・水田の類が全く出土しない → これは、農業をしない人々が住んで
	 いたのではないかと思わせる。
	・纒向では他地域からの土器が多く出土 → 東海系の土器が50%を占める → 10人のうち3人は他国の人。
	・朝鮮半島系の土器が出たが → 酸化アルミニウム成分を含んでいる → 中国から来た土器か?
	・竪穴式住居跡 → 確認されていない → 掘立柱式建物しか出ない → 3世紀中頃に柱を抜き取っている。
	・纒向は、昭和53年に寺沢薫氏が発掘しているが、それ以降で最大級の建物(今回が)である → 150畳敷。
	・ベニバナの花粉が大量に出土 → 3世紀中頃のもの → 染色に使用か? → 日本最古である。
	・纒向では最盛期は260年頃 → その後、現在景行天皇陵のある場所あたりへ移動した?
	・箸墓、若しくは石塚古墳のいずれかが、纒向ではでは最古の古墳で、これから古墳時代が始まるのではないか。











	
	続いて石野先生が、自分の著作から持ってきた資料で纒向遺跡の概要を喋るが、いつもながら何か要点がはっきりしない話だった。
	
	・昔纒向を掘ったときは何も無かった → 川の跡だけだった。
	・今回の大型建物跡の出土 → 最初、柿本人麻呂の館かと思ったが → 卑弥呼の館かもしれない。
	・破損した銅鐸やフイゴの口の出土 → 銅鐸から鏡へ移っていった → 2世紀の終わりごろ? → その後「倭国大乱」。













そのあと恒例のシンポジウム方式の座談会。これも何かはっきりしない話ばかりだった。



	
	<同志社大学教授 辰巳和弘氏>
	・大型建物跡の、A・・B・・C・・D軸 → 東西軸に何故並んでいるのか気になっていた。
	・石塚・矢塚・勝山の前方後円墳 → これらの古墳を意識して、この軸線があるのではないか。
	・石塚古墳+纒向遺跡 → 墓と建物のセット → これは吉野ヶ里にもある → 北の外郭+墳墓群。
	・前方後円墳は壺(の形) → 卑弥呼の弟/一人の男 → 石塚/矢塚/勝山に葬ったのでは?



	
	<本 図書情報館館長 千田稔氏>
	・九州にある(墓と建物のセット)の東西軸という考えが → 近畿纒向へも伝わってきている。
	・東西軸の意味 → 「君子は西面する」 → 縦軸が南北、横軸が東西 → 3,4世紀の慣習か? アホな! 
	・纒向の東西軸 → 大兵主神社にぶち当たっている。 → 兵主(ひょうず)神社:アメノヒボコを祀る。
	・倭国乱 → アメノヒボコと■■■■の戦い → 勝利した連中が → 邪馬台国になった。まともな学者の話かね!



	
	<石野氏>
	・銅鐸はコロされた → 兵庫考古館で実験した → 但馬ではばらばらになった銅鐸片が発見された。
	・埋めたままで発見される → 「毀せ」というお上の命令に「埋めて」従った。
	・新しい銅鐸と古い銅鐸 → 考え方が違う → 近畿と東海は伊那時 → 狗奴国はもっと東か?



	
	<上田氏>
	・規矩鏡 → 日本海側に多い → 考古学者はもっと考えろ!
	・邪馬台国は卑弥呼の後 → 大乱 → 男王を立てる → 大和朝廷になる。
	・九州説では → 邪馬台国は東遷した → 納得出出来ない。
	・纒向の(大型建物跡の)出土で → 邪馬台国問題は結着したか → そんな事は無い!

	<辰巳氏>
	・纒向遺跡は → 突然現れ、突然消える → 邪馬台国にふさわしい。
	・纒向では毎年毎年井戸を掘り、使っては埋めてしまう → 池上曽根遺跡にも井戸がある → 聖水を献上していたのでは?
	・纒向、箸墓には、大和川ではなく巻向川から水を入れている。

	<千田氏>
	・何でもかんでも祭祀遺跡というのはどうだろうか。



	
		聞いていて、何か大きく論点がずれていると思った。そもそも「邪馬台国」問題は考古学上の問題点ではない。
		これは中国の史書に書かれている、純粋に文献学上の問題なのだ。考古学の成果はそれと対比してこそ、文献の
		正しさを証明したり否定したり出来るのではないか? それなのに、この日の学者先生達は、魏志倭人伝の内容
		については全く無視しているように思えてならない。都合のいい部分や、当たり障りのない部分のみ解説して、
		後は考古学の成果を都合のいいように解釈しているだけだ。

		大型建物跡が纒向遺跡から出土したからと言って、それがどうして邪馬台国の卑弥呼の館と言うことになるのか?
		今回の発掘で、魏志倭人伝に書かれていることのほんのわずかでも証明するような遺物、遺跡が出現しているの
		か? それについては発掘者橋本氏自身が、「纒向遺跡=邪馬台国を証明するようなものは何も出ていない」と
		言っているではないか。
		いままで無かった大型建物跡が出て(それも、九州説の人々から見ればとても大型とは	呼べないような大きさ
		ではあるのだが)、卑弥呼の館と騒ぐ前に、畿内説論者達は今まで提示されてきた以下のような疑問点に答える
		必要があるだろう。すなわち、

		・魏志倭人伝では、倭人達の墓制として、「棺ありて槨なし。土を封じて冢を作る。」と記しているが、これは
		弥生時代後期後半、3世紀に、北九州の墓制の主流であった箱式石棺を指しているものと考える事ができる。
		「棺ありて槨なし。土を封じて冢を作る。」という魏志倭人伝の記述は、同時代の北部九州に見られる箱式石棺
		が一番ふさわしく、決して古墳ではない。「朱」や「銅鏡」「剣」「矛」などを副葬する墳墓も、北九州にのみ
		集中している。この形式の墳墓は、対馬にまで存在しており、邪馬台国と、それを取り巻く「邪馬台国連合」が、
		広く北部九州と壱岐・対馬にまで及んでいた事を示唆している。
		百歩譲って古墳だとしても、倭人伝に言う「卑弥呼以て死す。大きな冢(ちょう:つか)を作った。直径百余歩
		で、徇葬する者は奴婢百余人。」という記事からは、円墳ならばまだしも、前方後円墳とはとても解釈できない。

		・「兵は矛・楯・木弓を用いている。木弓は下を短く上を長くし、竹の矢の先は鉄鏃(てつぞく)だったり骨鏃
		である」と魏志倭人伝には書かれている。鉄の普及も、北部九州とそれ以外の地域では圧倒的な分布の差があり、
		南九州でもほとんど無く、鉄は北九州に集中しているのである。この時代の奈良県からの鉄の普及はゼロに近い。
		近畿圏には鉄はまだなかったのである。絹もしかり。

		・「銅鏡百枚」。鏡も、弥生時代全期を通じて墓に副葬される習慣があるのは、九州北部に限定される。100
		年経ってから古墳に埋葬したなどといういわゆる「伝世」などという考えを、考古学はホントに学問として採用
		していいのか?

		・「宮室・楼観・城柵が設けられていて、常に警備の者が守っている。」という記事と、纒向遺跡の出土状況は
		一体どこがかみ合っているのか。今回の大型建物跡は、果たしてあれを宮室と言えるのか? 楼観・城柵はどこ
		から出土しているのであろうか。柵跡はあったが、あれは城柵と呼べるようなものではなく、区切りの柵」であ
		るというのは発掘者の橋本氏自身が述べている。

		上の表は、安本美典氏がいろんな著書や雑誌に発表している、九州・近畿・関東における、魏志倭人伝の内容を
		比較したものである。弥生時代中後期における考古学的事実、文献に見る弥生期の人口の推定、遺物・遺跡の存
		在等々を比較検討しているが、これを見て、倭人伝に書かれた内容は九州以外の事である、という人がいたらお
		目にかかりたい。倭人伝は九州のことしか書いていないのである。邪馬台国の東は、「また人あり。皆倭種。」
		としか認識していない。つまり、国々があることは陳寿も認識していたはずだが、勿論行った事もなければ、話
		を聞いたこともないのである。

		今日では近畿説の大勢は、主として近畿圏の考古学者たちが主導権を握っているように見える。折からの考古学
		ブームに助けられ、また、奈良国立文化財研究所や橿原考古学研究所や奈良県行政の文化財担当部門の発表を無
		批判にただ掲載するだけの新聞・マスコミにあおられて、いわば盲目的に「邪馬台国=近畿」説を唱えているよ
		うな気がするのである。魏志倭人伝をはじめとする中国の史書や、古事記・日本書紀の内容さえも無視している
		ように思えてならない。
		紀元前1世紀から紀元後2世紀にかけての弥生時代中期には、北九州を中心に銅剣・銅矛が広く分布し、ひとつ
		の文化圏をつくり、一方、近畿を中心に銅鐸が分布して、やはりひとつの文化圏を作っていた。両者の文化が融
		合した形跡は見られないから、このふたつは交流をもたない異民族国家であったと推測できる。

		もし畿内説論者の言う邪馬台国が纒向にあって、ここから大和朝廷が全国に支配権を浸透させていったとすれば、
		なぜ自分たちの用いていた、銅鐸による呪術的性格を帯びた文化のことを後世に伝えていないのか。
		古事記・日本書紀には銅鐸はおろか、それを用いていた民族のこともまったく登場しないのである。記紀に登場
		するのは銅剣・銅矛・勾玉・銅鏡であって、これは戦闘的性格を帯びていた北九州文化圏のものであり、今でも
		皇室が保有する「三種の神器」は、剣・鏡・玉である。やがて古墳時代に入ると、そのままこの文化は近畿圏に
		も伝わり古墳からも多く出土するようになるが、北九州から夥しく出土する甕棺墓に起源がある事は明白である。

		「魏志倭人伝」は私に言わせれば「倭人伝」ではない。この書物の通称は「魏志邪馬台国伝」とすべきであった。
		この倭人の条は、九州にあった邪馬台国のことしか記録していない。それはとりもなおさず、魏からみて、邪馬
		台国=倭国という認識で良かったからである。勿論狗奴国のことも知っているし、東に倭人のクニが別にある事
		も知っていた。しかし、そっちと交渉したり、同盟を結ぼうとしたりした形跡はない。それは魏にとって、邪馬
		台国が倭国を代表していたからであり、この時代にすでに大和朝廷が日本を統一していたなどという見方は、怪
		しげな思惑に支配された全くの幻想だという事がよくわかる。



	
	終了後、郭公さんの友人「あすなろさん」と3人で新大宮駅前の焼き肉屋で反省会をした。「あすなろさん」は畿内説。私と郭公
	さんは九州説なので、あすなろさんは多少部が悪そうだった。後で聞いたら、橋本さんはやっぱりあの特設会場で聞いていたらし
	く、終了後に我々を捜したが分からなかったと言っていた。橋本さん、すみませんでした。我々も探せば良かったですね。




講演の前に、郭公さんと平城京を見学に行く。















遷都1300年に併せて建設中の大極殿は、もう殆ど完成している。最終段階の整備に入っているようだった。













しかし、絵になるねぇ。古都に立つと、いにしへ人の息吹まで感じられるような気になるから不思議だ。








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