このフォーラムの主催者は「むきばんだ応援団」である。米子出身で関西外大の助教授である、考古学者の佐古和枝氏が始 めた妻木晩田遺跡の保存運動が、次第に広がりを見せ一大市民運動に発展し、とうとうこんな団体まで作ってしまった。 「むきばんだ遺跡全国フォーラム'99」と銘打って、99年9月に地元鳥取で第一回のフォーラムが開催され、以後東京、鳥 取と開催され今回の大阪で最後となる。 毎回異なる学者や関係者を招き、遺跡の紹介と保存の必要性を訴えて来た。毎回500人くらいの会場がほぼ満員だそうである。 フォーラムの前の休憩時間に後ろから「井上さん」と声をかけられてびっくりしたが、歴史倶楽部のメンバー河原さんだっ た。
昨日アメリカ(だったかな?中国だっけ?)から帰ってきたという坪井氏は、最近文化勲章を貰ったというので、講演終了 後花束贈呈を受けた。予定に無かったらしく、「坪井先生、ちょっと待って下さい。」という司会者の言葉に、先生は演壇 で「なんや、なんや」という顔をしていた。受けた後、「ほんに思いがけないこって。」 講演の内容については、誠に誠に申し訳ないことに、猛烈な睡魔に襲われてしまいほとんど寝ていた。坪井先生ごめんね。
妻木晩田の出現で弥生時代に対する認識はどう変わるのか、というのがフォーラム1部のテーマだ。各氏はそれぞれ自分の 研究範囲をふまえておもしろい見方を提言していた。四国を中心に鉄を研究している村上氏。出雲で多くの青銅器に接し出 雲王国の存在を予感する渡辺氏。また大阪で渡来系の遺跡を山ほど発掘した藤田氏。特に最近の山陰地方に置ける鉄器の出 土数をめぐっては、邪馬台国や大和朝廷とも関わってくるだけに議論伯仲という感じだった。ここ妻木晩田でも以下のよう に多くの鉄製品を出土している。なぜ大和には鉄が少なくて山陰でどうしてこんなに多いのか? (古代史の謎「出雲王国は存在したか?」のHP参照) 山陰地方の技術は、もしかすると当時九州と並んで最も進んだ部類に属するのではないだろうか? 九州、山陰、そして大和(奈良)という順番で渡来人達の文化は進んでいったとは考えられないか? 等々、全く私が今考えているような事を学者先生達も考えているのだった。と言うよりも、最近の各地からの出土物の成果 は、誰しもそういう考えにたどり着くのかもしれない。妻木晩田の出現も、そういう「環日本海文化」について再度考え直 すきっかけを世の中に投げかけたと言っていい。160ha という広大なエリアに、機能分化した社会を持ち、階級があり、武 器を持ち墳墓を作り、環濠まであった。これらの人々或いは彼らの子孫が、やがて「石馬谷古墳」や「向山古墳」をこの地 に残し、そして「上淀廃寺」にまで至ったのだろう、という推測は容易に立て得る。
2部は「保存」がテーマだ。基調講演を行った坪井氏と「応援団」の佐古氏も加わり、国指定の遺跡となったこの遺跡をど う保存していくかに議論が集中した。 「お役人には珍しく柔らかい頭の持ち主」と紹介されていた文化庁の岡村調査官も加わり、実におもしろいフォーラムだっ た。吉野ヶ里の発掘を担当した高島氏は以前は佐賀県の役人(副教育長)で今は大学教授という、いわば学者側と行政側の 2面で活躍しただけに話の内容は重みがあった。岡村氏の、「以前は、遺跡と言うと考古学者は発掘した自分のもんという 考えが強かった。一体遺跡はだれのものなのか、という原点に立ち返って考えると答えは明らかで、又その保存法も見えて くる。」という言葉には力付けられる。 又坪井氏が、「今遺跡の廻りには杉や桧などが植林されているが、弥生当時にはこんなものはなかったはずで、もし保存す るのなら、植生も当時のままにしたほうがいい。」という言葉には皆うなずいていた。佐古氏は、付近に1,2週間連続して 泊まれるような宿泊施設を作ってもらい、誰もが弥生時代を体験できるような遺跡として保存が出来たらいいと思う。」と 述べていた。 司会の金関館長と坪井氏は、2人が行ったアメリカの先住民(アメリカ・インディアン)遺跡の保存の仕方などを紹介して いた。みんな、今からが大変だという思いでは共通していたが、私は、坪井氏がぼそっと言った言葉が妙に印象的で心に残 っている。それは、「まぁ遺跡というものは最終的にはいつか風化して無くなっていくもんだしねぇ。」というものだ。