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歴史シンポジウム
「青銅器の生産と弥生社会」2001.3.10 大阪府寝屋川市




	平成12年(2000)5月から8月にかけて、大阪府寝屋川市石津東町から南町に所在する「楠(くすのき)遺跡」で発掘調
	査が行われた。この地域は、現在マンション建設などで急速に開発が進んでおり、そのため寝屋川市は、各工事の前に緊急
	にトレンチを入れ遺跡の発掘調査を続けている。
	これまでの調査(1997年)で「楠遺跡」からは、古墳時代中期の遺構や初期須恵器・韓式土器・陶製紡錘車などが出土し、
	渡来人達の居住したムラではないかと推測されていた。この近辺には「秦」(ハダ)や「太秦」(ウズマサ)という渡来系
	と思われる地名が残り、また、古事記に出てくる「茨田堤」(まんだのつつみ)の築造には渡来人が関与した記事が記載さ
	れており、渡来人伝承を色濃く残しているのである。
	そんな中、今回の調査で古墳時代遺跡の下に、弥生時代の遺構・遺物が存在する事が判明した。さらに、青銅器製造に用い
	られたと思われる土製鋳型の外枠や、青銅器製造に関連する幾つかの土器が出土し注目を浴びた。



 



これが今回話題となった「銅製品の鋳型」である(下)。その製品が何かはまだ判明していない。






	古来大阪府下においては、西摂の茨木市東奈良遺跡から出土した完形に近い銅鐸鋳型や、和泉平野の池上・曽根遺跡からの
	鋳造関係遺物など青銅器製造と関わりのある遺跡が多く存在し、今回北河内地方でも鋳型枠が発掘されたことにより、この
	地方でも青銅器製造に関わっていたことがはっきりした。


	平成13(2001)年3月10日、寝屋川市の多目的ホール「エスポアール」において、この遺跡をめぐっての歴史シンポジ
	ウム「青銅器の生産と弥生社会 〜楠遺跡出土の青銅器鋳造関連遺物をめぐって〜」が開催された。実際発掘に従事した寝
	屋川市教育委員会の濱田氏の「楠遺跡発掘報告」や、私が参加している「郷土の文化財を訪ねる会」を主催する、(財)大
	阪府文化財調査研究センター三好氏の、「近畿地方における弥生時代の青銅器技術」の報告、京都国立博物館考古室長難波
	洋三氏の「近畿地方の青銅器文化」についての報告などがあり、午後からは、奈良女子大学教授広瀬和雄氏の「畿内弥生社
	会と青銅器」と題した講演が行われた。それに続いて大阪国際女子大学喜多谷美宣教授による司会で、この遺跡の性格や位
	置づけをめぐってのパネルディスカッションが行われた。


	以下は、このシンポジウムに参加しての報告である。


		
		−報告1:「楠遺跡出土の青銅器鋳造の道具」− 濱田延充(寝屋川市教育委員会)
		−報告2:「弥生時代の青銅器製作技術」−   三好孝一(大阪府文化財調査研究センター)
		−報告3:「近畿地方の青銅器文化」−     難波洋三(京都国立博物館 考古室長)

	
	ここで昼食というスケジュールになっているが、私は午後から参加したので午前中の報告は資料を貰っただけである。

		
		−講演: 「畿内弥生社会と青銅器」−     広瀬和雄(奈良大学教授)
		−パネルディスカッション:−      司会 喜谷美宣(大阪国際女子大学教授)



 


	畿内弥生社会と青銅器

	広瀬和雄(奈良女子大学大学院)


	1.いままでの弥生文化のイメージ

	@  「弥生時代の大多数の人びとは農民であった、したがって農村だけで社会が成り立っていた」、
	       そして「農村は自給自足経済」をおくっていた。はたしてそうだろうか。
	A   弥生時代=弥生文化ではない。日本列島には続縄文文化、弥生文化、貝塚後期文化という
	      異なった文化が共存していた。

	2 弥生文化の特色

	@ 大いなる技術革新「水田稲作や青銅器・鉄器の製作使用−が進行した。文明の正の要素。
	A 戦争・階級社会・環境破壊がはじまった。文明の負の要素。
	B 国際化(東アジア化)の波にのまれていく。

	3. 大型環濠集落の構造

	@ 「戦争に備えた防御集落」との通説があるが、そうとは言い切れない。
	A 多数の人びとが居住し、人口密度が高かった。池上曽根遺跡で5OO〜1000人との説。
	B 多才な職業をもった人びとが専任していた。
	  − 手工業生産(青銅器など)・交易・農業・漁労・司祭・渡来人・首長など −
	C 交易の拠点であった。
	D 「神殿」や首長居宅が建てられていた。

	4.弥生時代の分業生産

	@ 弥生時代の手工業生産は、つぎの3類型でなりたっていた。
	A 「専業」工房一青銅器もそうではないか−、大型環濠集落、農閑期生産。
	B こうした分業生産が、大型環濠集落で統合されていた。

	5.弥生都市と農村

	@ 弥生時代の社会は、大多数の農村とごく少数一1国単位位で1〜2ケ所くらい−の大型環
	   濠集落で構成されていた。
	A 分業生産された生活財・生産財・威信財(青銅器など)・権力財(鉄製武器など)は、
	   大型環濠集落(拠点集落)を経由して各地の農村へもたらされた。
	B 分業と交易を首長がまかなった。各地の首長は相互にネットワークを結んでいたが、大
	   型環濠集落に住まいした大首長が、その中心にいた。
	C 一定地域の人びとが再生産していくための<政治的・経済杓・宗教的センター機能を担
	  ったひとびとが集任していた場>が大型環濠集落であった。それは弥生都市と概念づけられる。


	
	広瀬氏は、弥生時代にあって環濠をもっているような集落は、いわば「都市」だったのではないかと言う。そして周りに
	4,5軒の竪穴式住居に住む小集落をいくつも従えていたのではないかとする。これらの小集落から、環濠を持つ都市の
	中へ交易に来ていたのではないか。環濠の中には、金属器や木工具を製造する業者が居て、小集落からの作物や動物など
	の食料と交換していたのだろうと説く。
	とすれば、1つの環濠集落があれば、その周りにはいくつもの小集落があって、その単位で小さなクニが構成されていた
	のかもしれない。青銅器の生産も、首長の差配の元、この環濠集落の中で生産され、祭祀に、生活にと使用するため、近
	隣に流通していったとも考えられる。

	おもしろい見方だが、私は、環濠はやはり防御の意味を強く持っているのではないかと思う。近隣の住民が気軽に入って
	きて交易をする場だとしたら、板付遺跡のようなあんな急な傾斜を持つ環濠は不要だろうと思う。北九州の環濠はどこも
	深い。あれは中へ招くためではなくて拒絶のためだと考えた方が自然だ。もっとも、池上曽根遺跡のような、近畿圏に多
	い浅い環濠ばかり見ていたら、広瀬氏のような意見になるのかもしれない。近畿の環濠はどれも浅い。もしかしたら、北
	九州に始まった環濠は当初防御施設で、それが近畿に達する頃には意味をなさなくなっていたのかもしれない。北九州で
	は渡来してきた部族が異なるため戦に明け暮れていたが、近畿の弥生社会ではもう争いは消滅したかそれに近い状態だっ
	たと考えれば、広瀬氏の説もあり得ないことではない。





シンポジウム

 





	難波氏は、近畿における青銅器の分布や、北河内地方における青銅器の出土状況などの説明をしていたが、話はやはり専門
	の銅鐸の話が多かった。








	寝屋川市教育委員会の浜田氏は、聴衆に向かって 「きっとそのうち寝屋川からも環濠集落を見つける事をお約束します。」
	とか言っていたが、いくら寝屋川の講演会とはいえ、ちょっとベンチャラが過ぎたのでは。広瀬氏なども苦笑いしていた。

 





	今回出土の青銅器鋳型が、一体何を作るためのものなのかの結論は出なかったが、この地方でも青銅器を制作していた事の
	証拠は出たわけだ。概してこういうシンポジウムはあまりおもしろくないが、今日はなかなかおもしろかった。




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