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日向・薩摩・大隅の群像

−南九州の弥生文化− 2007年9月29日(日)〜12月9日 大阪府立弥生文化博物館







	大阪府立弥生文化博物館で開催された、「平成19年秋季特別展「日向・薩摩・大隅の原像」−南九州の弥生文化−展」を、開
	会当日2007年9月29日(日)に見學に行った。開催初日に、博物館館長金関恕氏による「東アジアの中の広田遺跡」とい
	う講演があったので、それを聞きに行くのも目的だった。その後、歴史倶楽部例会としてみんなで水野正好氏による「倭国・狗
	奴国論」も聞きに行った。また私は、期間中開催された4回におよぶ「考古学セミナー」にも参加したので、初日に「近つ飛鳥
	博物館」と共同で使える「年間パスポート券」を購入した。1回の入場料が600円で、年間パスポート券は1500円である。
	しかも「近つ飛鳥」にも行けるし、これはダントツのお買い得。期間中6回も訪問したので、「広田遺跡」から出土した「貝符」
	などは、もう見なくても絵に描けるほどだ。




	平成19 年秋季特別展 「日向・薩摩・大隅の原像」 −南九州の弥生文化− 【大阪府立弥生文化博物館HPより転載:青字】

	南九州では、広大な海に育まれた温暖な気候のもと、シラス台地の発達する独特の風土において、南からそして北からの多様な
	文化の交流がなされ、その中で花弁形住居などに代表される独特の弥生文化が形成されました。 
	今回の特別展では南九州の弥生文化を多彩な視点から見つめ、日向・薩摩・大隅と呼ばれたこの地の原像に迫ります。さらに旧石
	器時代・縄紋時代から古墳時代・古代にいたるまでを、ひとつの流れでとらえ、その中で南九州の弥生文化を考えます。 
	弥生文化が物語る、魅力あふれる南九州の姿をぜひご覧ください。


	会 期 2007 年9月29日(土)〜12 月9 日(日) 
	会 場 大阪府立弥生文化博物館(和泉市池上町4丁目8-27 0725-46-2162) 
	主 催 大阪府立弥生文化博物館・日本経済新聞社 
	後 援 宮崎県・宮崎県教育委員会・鹿児島県・鹿児島県教育委員会・和泉市・和泉市教育委員会・泉大津市・泉大津市教育委員
	   会・財団法人大阪21 世紀協会・テレビ大阪 
	協 賛 株式会社国際交流サービス 
	協 力 宮崎県大阪事務所・鹿児島県大阪事務所・霧島酒造株式会社・田苑酒造株式会社


			展 示構成 総出展数約640 点(予定)

			T.畿内からみた南九州
			U.森と海 そして台地−南九州文化の礎
				1. 黒潮の海 森の山 広がる台地 
				2. シラス台地の「原(ばる)」と「迫(さこ)」 
				3. 地層にみる火山噴火 
			V.弥生の前に−南九州の旧石器・縄紋文化
				1. 槍から弓矢へ 
				2. 栄える縄紋文化−上野原遺跡とその時代−
				3. 広がる縄紋世界 
			W.南九州弥生文化の実像
				1. 縄紋から弥生へ 
					1) 畑と水田 
					2) 大陸とのつながり 
					3) 器にのこる布と網 
				2. 弥生到来 
					1) 日向 
					2) 薩摩 
					3) 大隅 
				3. 貝装飾の美−種子島の広田遺跡−
				4. 土器にみる交流 
				5. 弥生から古墳へ 
					1) 日向 
					2) 薩摩と大隅 
				6. 南の絵画 
				7. 南の墓制 
			X.弥生の後に−古墳・古代の南九州
				1. 伝統の器 
				2. 地下式横穴墓の世界 
				3. 薩摩国・大隅国の成立 
			Y.民俗からみた南九州
				1. 受け継ぐもの 変わりゆくもの 
				2. ラオスと鹿児島の類似−竹の民俗資料から−





上図はクリックすると拡大します。










































	沖縄では先史時代以来貝交易が連綿と続いていて、これが沖縄の古代史の大きな特徴となっている。先史時代とは歴史時代に
	対応する時代区分の用語で、文字による記録が登場する前の時期をさす。沖縄では王国形成前、だいたい13世紀くらいまで
	である。貝交易とは,サンゴ礁地域の大型巻貝を、日本列島本土の倭人が腕輪などに使うために入手した経済行為をいう。倭
	の人々は沖縄までわざわざ貝殻をとりに来ていたので、貝交易は黒潮海域を往来する遠距離交易だったといえる。また貝交易
	の相手は倭人だけでなく、ときには中国人でもあった。貝交易の対象はゴホウラやイモガイ、ヤコウガイなど、サンゴ礁の海
	に生息する特徴的な大型巻貝である。サンゴ礁が現在のように島のまわりに完成するのは、二千数百年前、大和の弥生時代の
	頃である。

	弥生時代の貝交易は、北部九州の弥生人がゴホウラやイモガイを用いて腕輪を作ろうとした事に端を発している。弥生人がど
	うして南の貝殻を使おうとしたのかその理由は定かでないが、南の島に大きくて美しい貝殻のあることを、彼らが何かのきっ
	かけで知ったことは確かである。弥生人はきまった季節に、沖縄を初めとする南方の島々へやって来たことだろう。

	弥生人がゴホウラやイモガイでつくった腕輪のことを、考古学では「南海産貝輪」といっている。腕輪は大変奇妙な形をして
	いる。同じ時期のほかの腕輪も同様な分厚い形をしていて、これらがただ腕にはめるだけのアクセサリーではなかったことを
	示している。北部九州の弥生人の墓地で、南海産貝輪をはめてみつかるのはほんの一握りの人物である。また、多くの場合、
	ゴホウラ腕輪は成人男性の右腕に、イモガイ腕輪は成人女性の左腕または両腕にはめられている。子供もはめているが、骨か
	ら性別を判断できず、おそらくゴホウラをはめていたのは男児、イモガイは女児なのだろう。
	こうした出土状況から,南海産貝輪をはめる人物は子供のころから決められていて、集落では特別な位置を占めていたと推測
	できる。弥生人の墓地からは、このほかに中国製の鏡や、銅剣などの武器、ヒスイやガラスの玉類を豊富に身につけた少数の
	人物もみつかるが、このような人物は南海産貝輪をはめていない。つまり貝の腕輪をはめた人々は、貴重な金属器と装身具で
	身を飾った人々とは異なる役割を担う人々であったと考えられる。考古学者は一般に、腕輪をはめた人物は農耕儀礼にかかわ
	る宗教者、着飾った人物は政治的な有力者とみて両者を区別している。





上は鹿児島県鹿屋市串良町岡崎にあったデッキ(弓)。



弓を台座に取り付けた、洋弓のクロスボウに似た弓は、国内でも鹿児島県にのみ分布しており、特に大隅半島で見られる。





	お断りと謝辞 このHP及び以下のセミナーでの写真・資料等については、大阪府立弥生文化博物館発行の、この特別展の
	図録、及び講演会・セミナーで配賦された資料を参照、転載した。記して謝意を表明する。



特別講演会

	 9 月30 日(日) 「東アジアの中の広田遺跡」
			 金関 恕(大阪府立弥生文化博物館長)
	10 月 7 日(日) 「倭国・狗奴国論」 
			 水野正好(財団法人大阪府文化財センター理事長)




考古学セミナー

	10 月 8 日(月祝)「南九州に栄えた縄紋文化−もう一つの縄紋文化論−」 
			  新東晃一(鹿児島県立埋蔵文化財センター次長兼南の縄文調査室室長) 
	10 月21 日(日) 「隼人・熊襲と古代国家」 
			  田中 聡(立命館大学文学部非常勤講師) 
	11 月 4 日(日) 「南九州の果実と結実〜第3の弥生文化とそれから〜」 
			  北郷泰道(宮崎県立西都原考古博物館総括学芸員) 
	12 月 9 日(日) 「竹の文化誌−南九州と東南アジアの比較の視座から−」 
			  川野和昭(鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸課長) 





	この「考古学セミナー」は、4回とも出席すると景品がもらえますという変わったセミナーだった。そのせいかどうかは知らないが、
	どの回も参加者多数で、2回目からは整理券を配りだした。講習室外のモニターを見ながらの参加者もいてなかなか盛況なセミナー
	だった。最終日、4回目のスタンプを貰ったのでそれを持って景品を貰いに行くと、なんと下の写真にある「焼酎詰め合わせセット」
	だった。セミナー中、何回か講演後のディスカッションにも参加していた学芸員の「東」君は、日向の出身で鹿児島の文化財センタ
	ーに勤務していたこともあって、彼が焼酎を選択したもののようだ。彼は新東晃一講師とも昔から顔見知りのようで、今回の特別展
	でも中心となって活躍したそうだ。展示場でも期間中、見学者に向かって熱心に解説していた。また、セミナーの「修了証書」もい
	ただいて、何か単位を一つ取ったような気分になった。






	信越・関東・東北と東日本一色だった「縄文文化」が、近年の発掘で西日本にも存在したことが明らかになって、それどころか、も
	しかしたら縄文文化も西から来たのではないかという様相を呈してきた昨今、この特別展はまさに時期を得た展示会と言えるだろう。
	ここに見る縄文文化は、東日本とはまた違った縄文文化が西日本に根付いていたことを我々に教えてくれるし、それは必ずしも、一
	方から一方へ移動していった、いわゆる「伝播」による文化ではなくて、それぞれの地域で独自に発生し進展してきたもののように
	も思える。種子島の広田遺跡から出土した「貝符」の文様は、中国「殷」の青銅器の文様とよく似ているし、ラオスの竹細工製品は
	私が子供の頃に福岡の山間で使っていた「魚ビク」とそっくり同じである。琉球のスイジ貝やヤコブ貝で造った貝製品は、南九州の
	みならず、北九州から山口県、ひいては畿内にも伝わっている。南九州の古代文化は、色濃く南方の影を残していると言って良い。

	遙かなるオホーツの彼方から、或いは遙かなる南十字星の見える島々から、我々の祖先はこの東アジアの東端にある島へ渡ってきた
	のだ。そしてそれぞれ独自の文化を育てながら、長い年月を経て交流し、融合し、或いは闘って、縄文文化を築き上げた。それは稲
	作という、また新しい文化の到来とともに消滅し、融合し、或いは残存して、今日にまでその生活の痕跡を残している。
	今日、シルクロードの交流点となっている中国西部の都市や中央アジアの都市をさして、よく「人種のるつぼ」という言葉を使うが、
	現代でも部族間の争いが絶えない現状を見るにつけ、ホントの意味での「人種のるつぼ」は古代の日本列島なのではないかと思う。
	しかもこの「るつぼ」の中では融合が成功し、2,3千年の熟成期間を経て現代の「日本人」ができあがっているような気がする。
















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