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−南九州の弥生文化− 考古学セミナー
大阪府立弥生文化博物館




第3回 平成19年11月4日(日)
西都原考古博物館 北郷泰道先生




前回、前々回の混雑で学んだらしく、今回からは整理券を配布し出した。早くこうすれば良かったのに。






		本日の講師北郷氏は、我々も訪れたことのある宮崎県の西都原(さいとばる)からの来訪だ。北郷と書いて「ほんごう」
		と呼ぶ珍しい名前だが、宮崎にはちょくちょくある名前らしい。都城(みやこのじょう)にあるそうで、東国原宮崎県
		知事も都城出身だそうだ。男狭穂塚、女狭穂塚古墳の話などは見てきただけに親近感がわいて熱心に聞くことが出来た。
		氏自身は、非常にまじめな研究者という印象だった。




		「北部九州」を弥生文化の窓口として理解し、その弥生文化の蓄積の中で、次の古墳時代を準備したのが「畿内」だと
		する考えが一般的だが、果たしてこの考えは普遍性をもって成り立つのだろうか? 近年の発掘調査の成果は、南九州
		にもう一つの「窓口」と「蓄積」を示している。故に、北部九州を「第1」、畿内を「第2」と呼べば、南九州は「第
		3」の弥生文化と呼ぶことが出来る。
		その弥生時代の南九州に実ったものは何であり、その後の古墳時代にその実りをもたらしたものは何であったのか?





上右、陸稲系のプラントオパール。



上左、大陸型石製品(宮崎県高鍋町)。右は北部九州系の土器(赤く塗ってある)。




		松菊里(ソングンリ)型住居・孔列文土器・大陸系磨製石器・擦りきり石包丁、こうした初期稲作に伴う遺構と遺物の
		出土が、九州島において北部と南部に集中することが、近年の調査結果の蓄積の中で浮き彫りになっている。

		南九州に初期稲作が到来したことは数々の物証を数え上げる事が出来るが、一考を要するのは、南九州のこうした稲作
		に関連する遺構・遺物の出土傾向が、平野部のみではなく内陸部の地域で顕著になってきている点である。

		多くの遺跡の調査結果から、北部九州に見られる整然とした水田開発を将来する稲の到来ではなく、縄文時代から引き
		継がれた従来型の畑作の延長に受け入れられ、水田を開発する場合でも、大きな社会変革を伴うものではかったことを
		窺わせる。稲の到来の革命的な意義は、水田整備や灌漑など組織的な土地開発と、水利権の管理等を必要とした本格的
		な水田開発のなかから、血縁から地縁へ、そして権力的な首長の誕生へと繋がる点が、弥生時代の歴史的意義である。

		南九州においては、「3」が水田、「7」が畑という状況である。こうした状況を「3対7の弥生社会」と呼ぶ。














		南九州には、花弁状間仕切り住居と呼んでいる独特の竪穴住居がある。通常の竪穴住居は、円形や方形に掘り窪められ
		るが、この形式の住居は、住居内部に向かって突出した土壁が掘り残されているのである。平面形があたかも花びらを
		開いた状態に見えること、そして掘り残された土壁が、間仕切りの機能を持つと考えられることから、花弁状間仕切り
		住居と呼んでいる。
		その分布は宮崎県の新富町・西都市の所在する一ツ瀬川流域を北限として、西は宮崎県のえびの盆地周辺、南は鹿児島
		県の大隅半島肝属(きもつき)平野の範囲である。この分布の範囲は、後述する古墳時代の南九州独自の墓制である地
		下式横穴墓の分布に継承されることに注目されたい。
		ではなぜこのような得意な平面形をもつ住居が、南九州の限定された地域に成立したのだろうか。花弁状間仕切り住居
		の源は、朝鮮半島を起源とする「松菊里型住居」に求めることができる。






		南九州には「青銅器文化」は全くなかったと言ってよいほどだが、その文化の一角に加わらなかったとしても全く閉鎖
		的だったわけではない。畿内を中心に顕著な絵画土器や瀬戸内海系の凹線文や矢羽根透かしといった特徴を持つ土器の
		出土で、これらの地方との交流があったのは確かである。しかしその分布範囲に注意しなければならない。

		絵画土器は宮崎平野部から内陸部へは都城盆地まで、南は大隅半島の肝属平野の範囲、瀬戸内海系土器は、宮崎平野と
		肝属平野に限られる。この地域は「7対3の弥生社会」と見なすことができ、そしてこの分布の範囲が、後の前方後円
		墳の分布と重なるのである。すなわち、弥生時代に開拓された畿内・瀬戸内海地域と交流を持つ地域の中で前方後円墳
		は広がるが、逆に言えば、古墳時代に至ってもその領域を広げることは出来なかったとも言える。

		宮崎では多くの絵画土器を出土するし、近畿も同様である。瀬戸内海を通じて南九州が畿内と交流があったとすると、
		どうして銅鐸が伝わってこなかったかが一つの謎である。南九州には青銅器が無い。銅鏡も出土は10例もない。






		宮崎県域では中溝(なかみぞ)式土器、鹿児島県域では山ノ口式土器が、在地性の強い土器として成立し、さらに成川
		(なりかわ)式土器は弥生時代後期から古墳時代を経て奈良時代まで、南九州の長い伝統性を保持する文化の象徴的存
		在となった。加えて、免田式土器あるいは重弧文土器と呼ばれる特徴的な一群の土器がある。
		弥生時代後期の限られた時期に、突如として登場し消えていったこの土器は、その主体に邪馬台国時代のクニグニの内、
		女王国に属さず男王を擁立するクニグニを想起させる。南九州に「邪馬台国」が存在しうる余地はない。その代わり、
		女王国に属さないクニグニが存在していた。

		氏の語る邪馬台国像は、私が日頃唱えている視点と全く同じで同士を得た思いがした。すなわち、

		・「30ケ国」・・・邪馬台国が近畿とすると少なすぎる。陳寿は、魏志倭人伝には近畿のことは何も書いていない。
		・弥生時代前期・中期の、近畿では普遍的な銅鐸の記録が何もない。近畿地方は中国から全く見えていない。
		・狗奴国からは青銅器が出ない。これは南九州と同一であり、北部九州とは価値観が異なっていた、すなわち邪馬台国
		 連合には、南九州は属していなかった。

		等々




		上右は、串間市から江戸時代に玉類と一緒に出土したと伝わる壁(へき)。「北海道」の名付け親である「松浦武四郎」
		が貰い受けたと言われる。今は加賀藩の財産管理団体である「前田育徳会」が保有する。今回展示を要請したが貸し出
		してもらえなかったそうである。なんと狭量な。串間市からは、明刀銭も出土したと伝わっている。










		古墳時代の始まりを象徴する前方後円墳の成立は、かっては5世紀初頭を大きくくだらないだろうといわれてきた。し
		かし、平成7年(1995)に始まる西都原古墳群の保存整備事業に伴う発掘調査を初めとする成果によって、現在では3
		世紀半ば、つまりは畿内における前方後円墳の成立と連動する時期を射程にいれながら、南九州における古墳時代の開
		始が論じられるようになった。






		男狭穂塚古墳の形はよくわからない。昔は釣鐘型などと呼ばれていた。平成9年(1997)に、自治体の調査としてはは
		じめて「陵墓参考地」に調査を入れたが、レーザー探査機を使用した。最終的にホタテ貝型古墳と認定したが、その先
		壇部を見極めることはできなかった。墳長176mと測定したが、これはそれまでこの型の最大の古墳とされていた、
		奈良県馬見古墳群の乙女山古墳(130m:河合町)をはるかに凌駕するものだった。この形式の帆立貝型古墳は「日
		向」において成立したと考えたい。
		女狭穂塚古墳が九州最大の前方後円墳であることは昔から知られていた。今回の調査で墳長176mを測り、憤形は異
		なるが同じ長さとして企画されていたのである。この二つの古墳は、同時期に同等規模で築造されたものと言える。
		女狭穂塚古墳は、大阪府藤井寺市の仲津山古墳と60%の相似形を持ち、5世紀前後の典型的な前方後円墳である。








		地下式横穴墓は、南九州独自の墓制として成立した。その分布は、北限を宮崎県の高鍋町・新富町として宮崎平野に広
		がり、内陸部は熊本県の人吉盆地、鹿児島県の大口盆地、宮崎県のえびの盆地を西限として、南は鹿児島県の大隅半島
		の肝属平野を中心とした範囲に限定される。現在までに600体を越える地下式横穴墓出土の古墳時代人骨は、在来的
		形質を示す内陸部の人々と、外来的形質を示す平野部の人々の存在を我々に教えてくれる。そして、そこにある具体的
		な人物交流は現実のものであり、南九州にも古墳時代の渡来人達が南下してきた可能性を示唆している。




		男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳の、この2基の巨大古墳の存在は、記紀に記された畿内の大王と南九州の豪族との姻戚関
		係を抜きにしては考えられない。天皇家系図を見ても、日向からは后が何人も出ているし、4世紀後半から5世紀前半
		にかけて、外戚として権威をふるった在地勢力の存在は確実である。













	本日のセミナーには、歴史倶楽部の高野さんと郭公さんが来ていた。終了後郭公さんが車で「和泉黄金塚古墳」を案内してくれた。
	しかし草茫々で、近々発掘作業か整備作業があるようで、中へは入れなかった。もっとも「草木生い茂り、前に道を見ず」の状態
	だったので、柵がなくても中へは入れなかったかもしれない。数日後の新聞記事(末尾)によれば、ここも国指定史跡になるよう
	だから、整備されてから再度訪問する事にしよう。郭公さん、ありがとうございました。











暮れていく和泉黄金塚古墳




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