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千人で運ぶ大王の石棺 2005.8.28(日) 大阪府高槻市・今城塚古墳







	歴史倶楽部の有志で奈良の橿原考古学研究所博物館で開催されている「奈良発掘2004年展」を見に行った翌日、今度は
	高槻の西本さんのお薦めで、高槻市が主催する「大王の石棺を運ぶ」催しに行った。高槻で大王と言えば、これはもう継体
	天皇である。その継体天皇の墓と目される「今城塚古墳」で、1000人の人を集めて、わざわざ熊本から瀬戸内海を渡っ
	て持ってきた石棺を、ひもで引っ張って動かそうと言うのだ。

	もともとこの石棺は、熊本の宇土市などが主催した「大王のひつぎ実験航海実行委員会」(小田富士雄福岡大名誉教授:考
	古学)が復元したもので、かれらの目的は、古代、ほんとに石棺を船で熊本から関西まで運べたのかどうかを検証しようと
	いうものだった。航海は熊本の考古学研究者グループがほぼ20年前に発案した。実現に向けて、2004年4月、研究者
	で作る石棺文化研究会や地域おこし団体・熊本県青年塾、熊本県宇土市、読売新聞西部本社などで実行委員会を発足させた。
	それを、大阪まで運んでくるのならいっそ高槻へ、と高槻市が便乗したもののようだ。
	6世紀前半の継体大王の陵墓とされる今城塚古墳(大阪府高槻市)、7世紀前半の推古女帝の初陵とされる植山古墳(奈良
	県橿原市)など、おもに関西のいくつかの石棺に、熊本県宇土半島産の阿蘇ピンク石(阿蘇溶結凝灰岩)が使われているこ
	とは、これまでの研究で明らかになっている。

	九州以外で確認された阿蘇ピンク石(馬門石)の石棺  5世紀後半〜7世紀前半(築造年代は推定) 

	〈1〉岡山市・造山古墳 
	〈2〉大阪府藤井寺市・長持山古墳 (伝・允恭天皇陵陪塚2号棺) 
	〈3〉大阪府羽曳野市・峯ヶ塚古墳 
	〈4〉奈良県天理市・鑵子塚古墳 
	〈5〉奈良県桜井市・兜塚古墳 
	〈6〉桜井市・慶雲寺 
	〈7〉桜井市・金屋ミロク谷 
	〈8〉岡山県瀬戸内市・築山古墳 
	〈9〉奈良市・野神古墳 
	〈10〉滋賀県野洲市・円山古墳 
	〈11〉野洲市・甲山古墳 
	〈12〉大阪府高槻市・今城塚古墳 
	〈13〉奈良県天理市・東乗鞍古墳
	〈14〉奈良県橿原市・植山古墳

	しかしなかには、我が歴史倶楽部の会員で奈良に住む橋本さんのように、「なんでわざわざ熊本から運んでこんならんねん。
	絶対どっかこの関西に石棺の産出場所があるで。わざわざ熊本からもってくるはずないわ。」という意見の持ち主もある。
	しかし岩石の組成分析から、ほぼそれは確認されているようである。しかし、それにしてもなぜわざわざ熊本から、という
	疑問は残る。橋本さんの意見ももっともなのである。

	・なぜ、大王のひつぎという重要な石棺に、九州のピンク色の石が使われているのか?関西でとれる石ではなく、わざわざ
	 赤い石を熊本から運んで来た理由は何か?
	・動力もなく人手に頼るしかない船で、クレ−ンなどもない時代に重量物をどうやって運んだのか?どんな船を用いたのだ
	 ろうか?
	・おもに近畿圏で石棺として用いられる、いわゆる阿蘇ピンク石製の石棺は、なぜか九州にはない。岡山、大阪、奈良、滋
	 賀の4府県に計14基。うち12基は近畿に集中し、2基だけ離れて岡山にある。岡山市の巨大古墳「造山古墳」と、牛
	 窓港から北方7キロの前方後円墳・築山(つきやま)古墳(瀬戸内市長船町)。いずれの古墳も、墳頂の木の下に、風雨
	 にさらされ、くすんだ色の石棺が横たわっている。なぜ近畿と岡山だけで、石棺産出元の九州では出現しないのか?

	これらは長い間考古学上の謎として残っていたし、今後もその謎を解明する努力は続けられていくことだろうが、今回の実
	験航海がこの謎に少しでも迫れば、今回の壮大なイベントを企画した関係者たちの努力もむくわれるというものだろう。

	今回の実験航海では、古代の船や石棺を復元し、実際に航海することで当時の航海術や航路、港などを推定した。大王の葬
	祭儀礼上、重要な石棺に九州の赤い石が使われた理由の解明につなげようという試みなのだ。寄港地は22か所。荒天に備
	えるための「予備日」を除く実質的な航海日は23日間だった。今回の実験航海では、
	〈1〉古代船は想定以上に風と波に弱く、石棺台船を引く航海はかなり困難なものだった。
	〈2〉推定復元した石棺台船は搬送力があり、当時のものに近いことが証明された。
	〈3〉石棺台船を引いた時の海王の速度2.5〜2ノット(時速約4.6〜3.7キロ)から試算し、荒天なども考慮する
	   と古代なら少なくとも50日はかかった。
	などの成果が得られた。



	復元された古代船で1006キロ、34日間の旅を終えた石棺は高槻市でのこのイベントを終えた翌29日、トラックで陸
	路、熊本に戻った。熊本を出て大阪までの航海日記は以下にある。

	YOMIURI Online|読売新聞|九州発|「大王のひつぎ実験航海」|海王がゆく|






西本さんとJR高槻駅で待ち合わせして、西本さんの車で今城塚古墳の近くまで。車はスーパーの駐車場に入れた。





道ばたに留めてあったMBS(関西放送)TVの車を眺める西本さん。ムギワラ帽子を用意してきてた。







会場は観覧テントまでしつらえてあって、すっかりイベント会場になっていた。いつもは人影もまばらなのだが。



マスコミもたくさん来ていたし、空にはヘリが2,3台舞っていた。白い布で囲まれた中に石棺が収まっている。






	上、下左は、挨拶する「大王のひつぎ実験航海実行委員会」委員長・小田富士雄福岡大名誉教授。「約1月かかって運んで
	来た石棺が、最終的にこういうイベントで締めくくられるのは感動です。」高槻市長と教育庁も臨席していた。
	下右はイベントの司会者。駆け出し落語家とアナウンサーのようだった。

 






	歴史倶楽部の皆さんに聞いても誰も知らなかったが、私の生まれ育った九州北部では「修羅」は「すら」として昔からあっ
	た。もともと大きな荷物を運ぶ運搬具だったようだが、私が子供の頃(昭和35−40年頃)は、子供たちが雪の上や草の
	上を滑るための玩具だった。私の田舎では草原はあまりなかったので、もっぱら冬になると毎年制作に取りかかっていた。
	上級生が下級生に作り方を教えて誰のものがよく滑るかみんなで競ったものである。それにしても、もうこんなものを作っ
	て遊んでいる子供たちは見かけないし、何よりも、山峡の私の田舎町ですら、もう雪が降らなくなった。


	この上に座って前の横木に足をかけ、縄を握って雪の斜面を滑り降りるのである。雪の日の子供たちの格好の遊びだったが、
	1時間も滑っていると寒さで手足がしびれてきた。大あわてで家に駆け込み、練炭や火鉢の上に手足をかざしたがいきなり
	血行の良くなったせいで、かゆくてたまらず、また雪の中に手足をつっこんだりしていた。あの時代からもう40年が過ぎ
	去った。

	「すら」(修羅)をはじめとして、北部九州には万葉集や日本書紀に残っているような言葉がわりとよく残っていたように
	思う。かっていくつぐらいあるか調べようとしたことがあるが、結局果たせないままである。誰か研究してくれれば、語彙
	から大和朝廷の起源を解き明かすという画期的な研究になりそうな気がするのだが。お前がやればいいじゃないかって、う
	うーん、そうなんだけどねぇ。


 

はなばなしいファンファーレに続いて、テントのそばで白い煙が舞い上がり、石棺とその蓋が登場。

 

 

	まず地元の小学生たちが石棺の蓋を引っ張った、1,2,3年生とあって小さく、「こんなんじゃうごかんやろ。」と西本
	さんと話していたが、驚いたことに100人くらいで引っ張ると子供でも石棺の蓋を動かせるのだった。「ヘェー。」と2
	人で感心することしきり。

 

	続いて4,5,6年生と交代すると、蓋の上でかけ声をかけているオッサンを乗せたまま、蓋は軽々と動いていった。人力
	も捨てたものじゃない。これなら結構な工事でも人力でまかなえたのかもしれない。

 



「えいしゃー!えいしゃー!」とかけ声をかけるオッサン。ちなみに「えいしゃー」とは古代のかけ声だと。ほんまかね。







我々が陣取った席の周りには、今城塚古墳から出土した埴輪が展示されていた。すべて本物。今日だけ収蔵庫から持ってきたもの。



こういう埴輪が取り囲んでいた築造当時の古墳はさぞりっぱなものだった事だろう。









	続いて石棺の身が登場。これはさすがに重かったようで、小学生から一般の部へと交代した。1回に250人ずつ位で交代
	した。都合1000人というわけである。実際には1500人くらいが参加したようだ。











さすがに大人の力は強い。みるみる広場の端まで行ってしまった。





広場の端まで行った石棺は、クレーンを使って蓋を身に乗せる作業にかかった。乗せ終わったらまた広場の中央まで運んでくる。






	一昨年、武人や家型埴輪が見つかったところはきれいに整備され、円筒埴輪が並べてあった。そこに石棺のレプリカも展示
	されていた。発掘当時、私はここでの現地説明会にも参加した。







クレーンが作業を行っている間、近所の平安女学院大学和太鼓部による演奏があった。















クレーン作業の終わった石棺を運ぶのに、我々も飛び入り参加した。まったく綱引きの要領だった。



	このイベントに参加して、人力の威力が体験できたことは喜びだった。古代人たちもこうして人海戦術で古墳を築き、石棺を
	運んだのだ。相当な人員が動員されたことだろう。前出の航海日誌を読むと、延べ30日にわたる航海も相当苦労して石棺を
	運んできている。古代にもああやって港港に寄港しながら運んできたとすると、大王の権力は、少なくとも西日本においては
	6世紀頃にはかなり浸透していたと見ていいだろう。当然熊本の宇土にまで指令が飛んで、その命令で石棺を作ったのだろう
	から、伝達網・輸送路も整備されていて、大王からの命令は各地で遂行されていったものと思われる。だからこそ、磐井の反
	乱のような(私はあれは反乱ではなく、大和の一方的な侵攻と見ているが。)事態は、即座に鎮圧しなければならなかったの
	だ。
	次第に西日本を統一していった大王たちは、やがて大和朝廷になっていく体制を確立するが、それでもまだまだ各地には反抗
	の火種はくすぶり、北日本のアテルイを坂上田村麻呂が征伐して、北海道を除く日本列島が完全に大和朝廷の支配下にはいる
	のは、継体天皇から約3世紀を経た桓武天皇の時代になってからである。

	この後西本さんの自宅に招かれて昼食をごちそうになった。おいしいイクラ料理をいただいてビール、焼酎までごちそうにな
	った。奥様、その節はお世話になりました。ありがとうございました。それにしても、西本さんはいい書斎とパソコンを持っ
	ていた。




	「岡山や関西の古墳の石棺で、九州の凝灰岩製らしいのが少数ある。それが九州のどこの石かを調べている。」という、倉敷
	考古学博物館の考古学者・間壁(まかべ)忠彦が、宇土市教育委員会の高木恭二を訪ねてきたのは今から30年ほど前だった。
	当時の考古学界では、古墳の石室や石棺という重い石材は、周辺に産する石を使うというのが常識だったので高木は驚いた。
	以来、九州各地、瀬戸内、畿内への高木の石棺行脚が始まった。熊本大学教授・渡辺一徳との共同研究で、関西や岡山で地元
	の石と思われていた石棺が実は阿蘇ピンク石製であることが次々と明らかになる。
	ところが、ピンク石石棺は地元からは全く出ず、畿内・瀬戸内の特定の古墳にしかないのだ。5世紀末の大王墳とされる峯ケ
	塚古墳(大阪府羽曳野市)などは、まるで“特注品”のようだった。
	「大和の大王家にだけ特別に運ばれ、吉備へは大王家から下賜されたのではないか」。高木にそうした考えが浮かんでいた頃、
	98年に高木は今城塚で、自ら「大王の石棺」を見つけた。今、継体天皇の墓とされている古墳である。そこで赤く塗られた
	石棺の破片を自ら発見したのである。「阿蘇ピンク石=大王級の石棺」にますます意を強くした高木に、さらにビッグニュー
	スが飛び込んで来た。
	2000年夏、橿原市教育委員会文化財課は、奈良県橿原市の植山古墳で、継体大王の孫である推古女帝と子の竹田皇子が合
	葬された、推古初陵(後に大阪府太子町の現・推古陵に移葬)を発見した。そしてその石棺が阿蘇ピンク石だった。その石棺
	は、まるで桜の花で染めたようなピンク色の石で出来ていたのである。



	このあたりの一連の報道は、YOMIURI ONLINEによって詳しい。そのURLは以下の通り。
 
	 Yomiuri Online|読売新聞|九州発|「大王のひつぎ実験航海」|大王と海|









邪馬台国大研究 / STUDY / 継体天皇