Sound: Twist and Shout 2





	平成10年(1998)10月24日・25日の二日間に渡って、滋賀県野洲町の野洲文化ホールにおいて「銅鐸サミット&シンポジ
	ウム」というイベントが開催された。野洲町立銅鐸博物館(正式名称は歴史民族資料館)の10周年記念事業として開催
	普通の講演会とは一寸趣が異なっていた。まず、二日間に渡る催しである事。次に、サミットというからには偉いさん
	が沢山集まって何かやるのかな、と思っていたらほんとにそうだった事。そして、講師、パネラーの顔ぶれが多彩だっ
	た事。なかなか面白い催しだったと言える。




JR野洲駅の前にいきなりでかい銅鐸が立っている。

野洲町文化センター。







		各TV局の取材もすごかった。カメラマンも大勢で、バシャバシャフラッシュを焚いていた。

    


	銅鐸が出土した町の町長ばかり4人が集まって、それぞれの町の銅鐸にまつわる手柄話・苦労話を披露したりサミット
	宣言をしたりして、今後のサミット開催も誓い合っていた。サミットの趣旨説明は、銅鐸が出土した全国の約160ほ
	どの市町村にもしたそうである。今後は参加する町長たちが増えるかもしれない。

  




	馬場章夫氏は関西ではわりと知られたパーソナリティーである。私も何度かラジオで声を聞いたことがあるが、歴史が
	好きだとはしらなかった。「この銅鐸をもらって帰りたい」と叫んでいた。銅鐸出土時町長たちが何をしていたかとか、
	銅鐸についてどの位知っていたかとか、普通の講演会とは違った質問を色々町長達に浴びせていた。
	町長たちは、それぞれパネルやスクリーンを使って自分の町のアピールをしていた。






	上は、基調講演を行う難波洋三氏。氏は、1.「鋳造技術をめぐる問題」、2.「銅鐸変遷における画期」、3.「加
	茂岩倉遺跡出土銅鐸の位置づけ」、というテーマで2時間にわたって講演を行った。分類・編年に始まって、製造方法、
	形態変化と論が進むにつれて次第に学術的になり、面白遊山の考古学マニア(私の見たところ大半はこれであった。)
	たちは退屈しだしたようであった。難波氏は、出雲の銅鐸は出雲で制作したものではなくすべて大和地方がその生産地
	であろう、という意見だった。

	歴史クラブの女性会員、寺ちゃんと嶋ちゃんも加えて講演終了後野洲の町で一杯飲んだ。平さんは、「出雲の銅鐸は絶
	対出雲でつくったんやで。みんながみんな奈良でつくっとる訳ないわ。」と主張していた。

    

    



翌25日
講演1:奈良大学学長 水野正好氏。


この人の話は相変わらずおもしろい。演壇から身を乗り出して聴衆に相づちを求めるスタイルも相変わらずだった。 特に、今回水野氏の話がおもしろかったのは、ここ野洲の大岩山で「昭和の銅鐸発見」があった時、氏は滋賀県で唯一の行政側文化財員だったのだ。氏によると、「その時滋賀県には考古学者は私も含めて3人しかおりませんでした。」と言う事である。 銅鐸発見の一報を聞いたときの話や、京大の梅原末治教授に現場一番乗りで先を越された話や、銅鐸を1個だまって家へもって帰っていた作業員の話とか、昨日とは打って変わって聴衆は笑いこけていた。明治に発見された銅鐸が現在1個も野洲に残っていないのを知っていた氏は、 今回如何にして滋賀県に残しておくかに苦労した、という事であった。しかし、その後文化庁に移った時は、「今度は如何にして地方の埋蔵物を文化庁のものにするかに腐心した。」と言ってまた聴衆を笑わせていた。
氏の邪馬台国論も相変わらずで、「山口県から東北に至る広い範囲が、魏志倭人伝にいう女王国であって、卑弥呼は大和の天理市のあたりに居た。」とするが、自身でもこの説が珍説なのを知っているのか、こう言っていた。「たぶんこの後のシンポジウムでは私の説は叩かれるでしょう。」
そして、退場間際こうも付け加えて満座の聴衆から喝采を浴びていた。「まぁ、みててください。私がいかに打たれ強いか、という事を。」






講演2:大阪大学助教授 福永伸哉氏

氏の講演はこれで二度目である。前回は、高槻市主催の安満宮山古墳を巡っての「邪馬台国シンポジウム」でやはり鏡についてしゃべっていた。 氏は、銅鐸が「聞く銅鐸」と「見る銅鐸」の新旧に区別される、という話からはじめて、銅鐸が埋められている理由について、新しい勢力が(新宗教と表現していた)近畿を襲ったからであるとし、その勢力とは、初期大和政権へ移行しつつある「邪馬台国」の政治勢力であったとする。 その邪馬台国は天理の山辺の道あたりにあったものだろうと言う。箸墓が卑弥呼の墓とする都出比呂志氏の説を鏡の側面から援護している感じだ。そういえば、同じ阪大で二人は同僚である。もしかしたら師弟関係にあるのかな。顔もよく似ている。
配られた資料の銅鐸と鏡の分布図を元にして、狗奴国は愛知地方であり、邪馬台国に負けてから新しい鏡が入ってきていないとする。そして三角縁神獣鏡の配布から、愛知の先に出土するのは、邪馬台国が愛知の狗奴国を包囲するためその地方に配ったからだと言う。また氏は、狗奴国に勝った邪馬台国が青銅器の制作全般を コントロールしていたのだろうとも述べていた。




	残念ながらここで、用事のため退席してしまった。山尾氏の話とシンポジウムは聞けなかった。ほんとに残念である。
	水野氏の打たれ強さも見逃した。まことに残念。







	このサミットの1年後、平成11年10月に野洲銅鐸博物館から手紙が来た。一体何事?と開けてみると、このサミットの
	内容が本になったから買ってくれというものだった。1,600円は高いと思ったが、このときの内容を確認する意味で、
	「まぁ、いいか」と買ってしまった。この時の言葉のまんまを(多少修正ありか?)収録してあるのには驚いたが、水
	野さんの「まぁ見ててください、いかに私が打たれ強いか」というようなセリフは無かった。

 

{徹底討論 − 銅鐸と邪馬台国」1999年10月1日初版1刷 サンライズ出版発行 銅鐸博物館編著

 

邪馬台国大研究・ホームページ/ inoues.net / 銅鐸サミット