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台湾の旅 2010年1月17日 台北二二八事件紀念館







	二・二八事件	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (以下、青字部分すべて。)

	二・二八事件(にいにいはちじけん)は、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、当時はまだ日本国籍
	を有していた本省人(台湾人)と外省人との大規模な抗争。約40年後、戒厳令の終了と政府側の遺族への謝罪により漸く終結した。
	本省人はこの事件を台湾大虐殺と呼んでいる。
	1947年2月27日、台北市で闇タバコを販売していた本省人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、
	翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることと
	なった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。







二・二八紀念公園内にある二・二八紀念館。建物は旧台湾放送協会( THK)台北支局。














	<背景>
	1945年に日本が敗戦した後の台湾には、連合国軍の委託を受けて日本軍の武装解除を行うために大陸から蒋介石率いる中国国民党政府
	の官僚や軍人が進駐し行政を引き継いだ。
	当初、少なからぬ本省人が台湾の「祖国復帰」を喜び、大陸から来た国民党政府の官僚や軍人らを港で歓迎したが、やがて彼らの腐敗
	の凄まじさに驚き、失望した。大陸から来た軍人・官僚は国共内戦の影響で質が悪く強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が
	罰せられぬことがしばしばあり、もし罰せられる場合でも、犯人の省籍をマスコミ等で報じることは厳しく禁じられた。また、台湾の
	資材が中国人官僚らによって接収・横領され、上海の国際市場で競売にかけられるに到り、台湾の物価は高騰、インフレによって企業
	の倒産が相次ぎ、失業も深刻化した。
	比較的不正の少なかった日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたいものであった。
	人々の不満は、いやが上にも高まっていった。 当時の台湾人たちは「犬去りて、豚来たる」(犬(日本人)は五月蠅くとも役に立つが、
	豚(国民党)はただ貪り食うのみ)と揶揄した。






	上左のオジイサンが館内を案内して解説してくれたのだが、日本統治時代がいかに良かったかを力説していた。これはリップサービス
	などではなく、第二次大戦終了後に訪れた、この事件に象徴されるような恐怖時代がいかにひどかったかを知っているからだろう。
	単なるノスタルジーだけではなく、軍人を除けば、ほんとに日本人は親切で優秀だったと言う。


オジサンの名刺。オジサンも昔日本語教育を受けたのだ。
ちゃんと日本名も持っていて名刺に刷り込むほど誇らしいのだろう。

	この事件後に施かれた戒厳令は、何とその後40年にわたって続き、1987年まで継続したのである。私が東京転勤になる直前だ。
	
	台湾にはもともと、マレー・ポリネシア系の先住民だけが住んでいたが、17世紀ごろから対岸の中国大陸・福建省からの移民が増え、
	中国化が始まった。だが、228紀念館の資料によると、台湾では移民によって中国化が進む一方で、オランダによる台湾南部の支配
	(1624-61年)や、海賊出身の鄭成功による政権(1661-83年)が存在したほか、大陸から海を隔てているという地理的要因もあり、大
	陸的な中国の文化とは異なる、海洋的な台湾独自の文化が作られていった。























	中国大陸と台湾の違いは、1895年に清朝が日清戦争に負け、台湾を日本に割譲したことにより、さらに強まった。紀念館の別の資料に
	よると、日本による植民地支配は、本質的には収奪を目的とした圧政だったが、「鶏卵を得るために、まずは鶏を育てる」という例え
	に象徴される戦略で、日本は台湾の交通網を建設し、衛生状態を改善するなど、近代化政策を行った。
	日本が台湾で近代化を進めている間も、中国大陸では戦乱が続き、日本が戦争に負けるまでの50年間で、台湾と中国の文化的な違いが
	大きくなった。第二次世界大戦が始まると、台湾では強制的な皇民化教育によって「日本人化」が進められ、中国大陸の人々との違い
	がさらに広がった。


	<経緯>
	1947年2月27日、台北市で闇タバコを販売していた女性(林江邁40歳、2人子持ちの寡婦)を、中華民国の官憲(台湾専売局台北支局密
	売取締員6名および警官4名)が摘発した。女性は土下座して許しを懇願したが、取締官は女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金
	を没収したのである。
	戦後の台湾では、酒・タバコ・砂糖・塩等は全て中華民国によって専売となっていた。しかし、大陸ではタバコは自由販売が許されて
	いたため、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を持っていた。タバコ売りの女性に同情して、多くの台湾人が集まった。
	すると取締官は今度は民衆に発砲、まったく無関係な台湾人(陳文渓)を射殺し、逃亡した。
	この事件をきっかけに、中華民国への怒りが遂に爆発した。翌28日には抗議のデモ隊が市庁舎へ大挙して押しかけた。しかし、中華民
	国側は強硬姿勢を崩さず、憲兵隊は市庁舎の屋上に機関銃を据えて、非武装のデモ隊へ向けて無差別に掃射を行う。多くの市民が殺害
	され、傷を負った。 この後、国府軍は、台北以外の各地でも台湾人への無差別発砲や処刑を行っている。






	本省人側は国民政府に占拠されている諸施設へ大規模な抗議行動を展開。日本語や台湾語で話しかけたうえ、答えられない者を外省人
	と認めると暴行するなどの自衛手段を行った。また、本省人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上が
	れ!」との呼びかけた。
	劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿勢を示した。しかし、在台湾行政長官兼警備総司令・陳儀は、大陸
	の国民党政府に密かに援軍を要請した。彼は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えて
	いる」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒に対し、武力をもって殲滅すべし」との電
	報を蒋介石に送っている。






	蒋介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし、翌月、第21師団と憲兵隊を大陸から援軍として派遣した。これと連動して、陳儀の部隊も一
	斉に反撃を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治下で高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多
	くは殺害された。また、国民党軍の一部は一般市民にも無差別的な発砲を行っている。基隆では街頭にて検問所を設け、市民に対し、
	北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、
	そのまま基隆港に投げ込んだという。台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃
	ち、善戦した(「独立自衛隊」、「学生隊」等)。しかし、最後はこれらも制圧され、台湾全土が国府軍の支配下に収まるのである。






	この事件によって、約28,000人もの本省人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。実際の被害
	者の数はさらに多いとの説が今尚根強く存在しており、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行な
	われている。
	事件の際発令された戒厳令は40年後の1987年まで継続し、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、多くの台湾人が投獄、処刑されてき
	た。また、内外の批判によって国民党政府が漸く戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。今日の台
	湾に近い形の「民主化」が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことである。








	<その後>
	事件後、関係者の多くは処刑されるか身を隠すか、あるいは海外逃亡を企てた。
	李登輝は留学経験者という知識分子であったため処刑を恐れて知人宅に潜伏し、ほとぼりの冷めるのをまった。邱永漢は学生運動のリ
	ーダーであったが、当局の眼を掻い潜って出航。香港を経由して日本に逃亡した。亡命者の中には反国民党を掲げたものもあったが、
	当時は東西冷戦の時代であり、反国民党=親共産党とみなされて、日米ではその主張は理解されなかった。
	事件収束後も、長らく国民党は知識分子や左翼分子を徹底的に弾圧した(白色テロ)ため、この事件については、長らく公に発言する
	ことはタブーとなっていた。




	しかし時が経つにつれ、これを話題にすることができる状況も生まれてくる。当初、国民党は台湾人に高等教育を与えると反乱の元に
	なる、と考えていたが、経済建設を進めるに当たって専門家の必要性が明白となり、方針を転換して大学の建設を認めた。
	これによって台湾人の教育レベルが上がり、政治意識も向上。その結果、70年代には美麗島事件、中歴事件などの民主化運動が頻発
	し、国民党もこれを無視できなくなった。
	また台湾統治が長期化するにつれ、国民党政府が次第に台湾人を登用入党させたため、台湾人は党および政府の権力を漸進的に掌握す
	るようになった。特に、1988年に李登輝が本省人として初の総統に就任して以降は、本格的な民主化時代がはじまり、事件について語
	ることが「解禁」された。
	1989年に公開された侯孝賢監督の映画『悲情城市』は二・二八事件を直接的に描いた初めての劇映画であった。この映画がヴェネチア
	国際映画祭で金賞を受賞し、二・二八事件は世界的に知られる事となった。
	事件当時の証言や告発をする動きもみられるようになり、政府に対する反逆として定義されていた二・二八事件も、現在は自由と民主
	主義を求める国民的な抵抗運動として公式に再評価されるに至った。台北市には記念公園・資料館が建てられ、被害者を偲んでいる。

	なお、二・二八事件については、当時台湾共産党が中国共産党の指令を受けて、国民党政権を倒すべく民衆の蜂起を煽ったとの説もあ
	るが、これに対し、それは蒋介石が台湾人を虐殺するための言い訳だったという反論もある。




	<事件の分析>
	国民党がなぜ、このような過酷な手段を採ったのかについては議論があるが、一つには彼らが大陸時代に行った、統治方法をそのまま
	台湾でも採用した、ということが考えられる。国民党政治の基本は軍隊や暗殺団を利用した恐怖政治であり、従わないものは徹底的に
	弾圧するものだった。その傾向は抗日戦や内戦によって拍車がかけられ、1947年当時にはピークに達していたと考えられる。
	また彼らはこの蜂起の背後に中国共産党が糸を引いていたのではないかと疑心暗鬼に陥っており、その疑いは事件後の知識人層への徹
	底弾圧になって現れる。当時、知識人には共産党シンパが多かったからである(陳水扁もマルクス主義を研究したために逮捕された経
	験があり[要出典]、李登輝も一時期マルクス主義に傾倒していた)。
	一方、台湾人は日本の法治政治に慣れそれを当然のものと考えていたため、警官や軍隊が群集を無差別に虐殺する事態を想定してはい
	なかったようである。そのため陳儀が対話姿勢を見せるとそれに応じ、彼に時間稼ぎの余裕を与えることとなった。

	<参考文献>
	何義麟 『二・二八事件――「台湾人」形成のエスノポリティクス』東京大学出版会、2003年3月、ISBN 4130362143
	戴国W 『台湾』 岩波新書、1988年10月。
	黄昭堂編訳 『台湾情勢報告書――2・28事件に関する米駐華大使館の報告』 台湾現代史研究会、1973年。
	田村志津枝 『悲情城市の人びと――台湾と日本のうた』 晶文社、1992年12月、ISBN 4794961030
	若林正丈 『東アジアの国家と社会(2)』 東京大学出版会、1992年10月、ISBN4130330624
	若林正丈 『台湾――変容し躊躇するアイデンティティ』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2001年11月、ISBN 4480059180
	阮美妹原作・監修、張瑞廷作画、柯嘉馬・保田誠司訳 『漫画 台湾二二八事件』まどか出版、2006年2月、ISBN 4944235291
	阮美妹 『台湾二二八の真実―消えた父を探して』 まどか出版、2006年2月、ISBN4944235283
	小林よしのり『新ゴーマニズム宣言スペシャル・台湾論』小学館・前衛出版(台湾の出版の台湾名『台灣論・新傲骨精神』)2001年2月




	お恥ずかしいことに、私はここへ来るまでこの事件の事は全く知らなかった。世界史はあまり得意ではなく、おまけに近世史への関心
	があまりなかった事もあって、台湾史などいわば「ほったらかし」の状態だった。古代史の分野においては、台湾の歴史も調べてはみ
	たのだけれども、注目に値するような遺跡も無く、中国本土や韓国に比べて、私の関心を引く国ではなかったのは事実である。むしろ、
	現代中国との帰属問題、日米安保上における台湾の役割と言った現代史上における関心のほうが強かった。
	しかしここへ来て、この事件を知ってからの台湾に関する私の興味は高まったが、しかしそれは台湾それ自体に対する興味ではない。
	それは日本に関する興味である。

	私の海外体験はそう多くは無い。勿論駐在体験はないし、仕事、遊び、歴史倶楽部での研修を合計しても、このHPを製作している
	2011年1月下旬現在で、USA西海岸2週間、韓国3回(各3泊4日)、中国3回(4泊−6泊)、イギリス2週間、イタリア2週間、
	今回の台湾、それに台湾の後に行ったフランス2週間、くらいである。商社の人達に比べたら、全くお遊び程度の海外滞在経験しかな
	い。
	その乏しい海外経験のなかで、一昨年にイタリアへ行った時、「なんか日本はこういう海外の国とは違うよなぁ」という思いを抱いた。
	何がどう違うのかはその時は判らなかった。帰国してからもその事をみんなに話しても、「何がどうちゃいまんねん?」と問われ、明
	確には答えられなかった。
	この台湾旅行でもよくわからなかったが、台湾の後に(2010年 7月)フランスへ行ったとき、「そうか、日本はもしかしたら世界中で
	一番まともな国なんじゃなかろうか」という考えが閃いた。そう思うと何もかもが符合してくる。

	そう、日本という国は実に「まとも」なのである。勿論イギリスやイタリアがまともではないという意味ではない。これらの国もそれ
	なりにまともである。でなければ、あれだけの文明国家を築けるわけはないし、古代ローマ帝国や大英帝国の大航海時代がもたらした
	文明は、世界中を席巻できるはずはないのだ。しかしながら、これらの諸外国と、日本或いは日本人は明らかに何かが違う。それは精
	神性に基づくものであって自然科学や文明などと呼ばれるハードウェアとは異なるものだ。

	西欧を廻ってみると、彼等がいかに原点で「キリスト教」と結びついているかがよく理解できる。神にここまで支配されていていいの
	かと私などは思ってしまうが、おそらくそれはイスラム教でも同じなのだろうと思う。彼等には「神が必要」なのである。彼等は神の
	いない世界では生きていけないのだ。神を創造し、その神の規範に従ってこそ彼等は生きていける。言い換えれば、神が居なければ彼
	等は自分たちが動物に戻ってしまうことを知っているのだ。

	その点は、アジアの中でも特に日本人とは大きく異なる。日本人は原始宗教に近いアニミズムを受け入れ神道とし、やがて仏教も受け
	入れ、それらの教義から自分たちに合う物だけを選択してきた。日本人にとっての神は「規範」や「戒律」ではなく、自らが取捨選択
	した「道徳」なのである。
	現代の日本人で、唯物論を信奉していない人はいないと思う。多くの日本人は、死ねば骨になって「無」に帰るということを知ってい
	る。死後の極楽浄土や桃源郷があるなどと信じている人はまずいない。それでも正月には神社に参拝し、お盆には先祖を迎えに墓へ行
	く。これは「道徳」なのである。自分たちで「やってはいけないこと」「越えてはいけない線」を暗黙の内に定め、それに従って生活
	している。天照大神や仏陀に言われてそうしているのではない。それは極めて「人間的」であり「道徳的」な生活なのである。これは
	西欧とは大きく異なる。
	台湾において、こういう理念の元に教育が行われたからこそ、その教育を受けた人達は「日本統治時代は良かった」と思うのである。
	「年寄りは敬え」「弱者は助けろ」「年長者は年少者の面倒を見ろ」「女子供をいじめる奴はカスだ」「人生で一番卑劣なことは卑怯
	な振る舞いである」等々、これらの教えは、科学や地理や歴史や語学の根底にあって、学生の寄って立つ基盤となっていたのである。

	こういう発想は支那にはない。仏教や道教や儒教や朱子学は、日本に入ってきて初めて「生きた」学問となったのであり、本家本元に
	はもう存在しない。これらの理念は、わずかに台湾と日本のみに残っているように思える。

	228事件における国民党の弾圧は、実は今も形を変えて、中国本土政府が廻りの国や自国民に対して取っている施策と同じなのだ。


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	台湾総統、罵声の中で追悼 2・28事件式典で	2009/02/28 18:10   【共同通信】

	【高雄(台湾南部)28日共同】
	蒋介石の国民党政権が台湾全土で台湾人の抵抗運動を弾圧した「2・28事件」から62年目の28日、同党の馬英九総統は高雄で野
	党系団体主催の追悼式典に出席し、犠牲者の遺族らの前で当時の政府の責任を認めた上で「あのような悲劇が二度と起こらないよう願
	う」と述べた。
	昨年5月に国民党が与党になってから初の事件記念日で、式典には馬政権の対中政策などに不満を持つ野党や台湾独立派が出席。「馬
	英九やめろ」などと罵声が飛び、総統の声はかき消され会場は一時騒然となった。
	事件は本省人(台湾出身者)と蒋介石を筆頭とする外省人(中国大陸出身者)による対立の「原点」といわれ、台湾社会に今も深い傷
	あとを残す。馬総統は最近、関連行事に立て続けに参加して犠牲者との「和解」をアピールする一方、蒋介石の再評価も進めており、
	野党などの反発は強い。
	 陳水扁前政権は「蒋介石は台湾人を弾圧した独裁者」と批判し、蒋介石をたたえた「中正記念堂」(台北)の名称を変更したが、馬
	総統は政権交代後すぐに元に戻すことを決めた。事件の犠牲者遺族代表、林黎彩さん(63)は馬政権を「信用できない」と痛烈に批
	判した。
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	「毛沢東の狂気」が蘇る時	2011.2.3 12:39 (1/2ページ)sankei-web
	【石平のChina Watch】

	 天安門に掲げられる故毛沢東主席の肖像画前に立つ衛兵(長谷川周人撮影)

	最近、中国の国内メディアで、「毛沢東」にまつわるいくつかの興味深い記事が見つかった。
	 1つは、人民日報社の自社サイトである「人民網」が1月17日に掲載した記事で、1957年11月に毛沢東がソ連で開かれた社
	会主義陣営の各国首脳会議に参加したときのエピソードを紹介したものである。記事によると、毛沢東はこの会議で、当時のソ連共産
	党フルシチョフ第一書記の提唱する「西側との平和的共存論」に猛烈に反発して次のような過激な「核戦争論」をぶち上げたという。
	 「われわれは西側諸国と話し合いすることは何もない。武力をもって彼らを打ち破ればよいのだ。核戦争になっても別に構わない。
	世界に27億人がいる。半分が死んでも後の半分が残る。中国の人口は6億だが半分が消えてもなお3億がいる。われわれは一体何を
	恐れるのだろうか」と。
	 毛沢東のこの「核戦争演説」が終わったとき、在席の各国首脳はいっせいに凍りついて言葉も出なかったという。さすがの共産党指
	導者たちも、「世界人口の半分が死んでも構わない」という毛沢東の暴論に「圧倒」されて閉口したようである。
	 毛沢東という狂気の政治指導者の暴虐さをよく知っている中国の知識人なら、この発言を聞いても別に驚かないのだが、筆者の私が
	興味深く思ったのはむしろ、人の命を何とも思わない共産党指導者の異常さを露呈し、党のイメージダウンにつながるであろうこの
	「問題発言」が、他ならぬ共産党機関紙の人民日報社の自社サイトで暴かれたことである。
	 ここでも、前回本欄が取り上げた中国メディアの姿勢の変化が見え、中国における「進歩の兆し」として捉えることもできようが、
	その一方で、まったく正反対の方向性を思わせるような新聞記事もある。
	
	2011.2.3 12:39 (2/2ページ)

	 1月19日、内陸部の大都会である重慶市の地元新聞『重慶日報』は、同じく「毛沢東」に関連する記事を掲載した。最近、重慶市
	共産党委員会の動員により、市の幹部たちは1930年代に毛沢東が共産党ゲリラ軍を率いて戦った井岡山(せいこうざん)という山
	岳地帯へ赴き、そこでゲリラ部隊が着用した「紅軍服」に着替え、「毛主席の紅軍兵士」になりきった心構えで、「毛沢東思想の神髄」
	を学び「共産主義精神の原点に立ち戻った」ということだ。
	 1月17日、同じ重慶市地元紙の『華西都市報』は重慶市共産党委員会のもうひとつの「業績」を伝えた。同委員会はこの数年、市
	の幹部や普通の会社員や学校生徒を含めた「延べ8000万人」の市民を動員し10万回以上の「赤い歌を歌う合唱会」を開き、毛沢
	東時代の「赤い歌」を集団で歌う活動を行ったという。
	 どうやら重慶市の共産党委員会は、幹部から子供まで全市民を巻き込んで「毛沢東に戻ろう」とする政治運動を展開している様子だ
	が、その立役者は、「毛沢東好きの野心家」として全国的に知られている、重慶市共産党委員会書記の薄煕来氏である。
	 彼が旗手となって展開している「毛沢東に戻ろう」とする政治運動の背景にはトウ小平以来の市場経済路線がもたらした貧富の格差
	の拡大などの社会的ゆがみに対する民衆の不満と反感があろう。それを利用して中国の政治・経済・外交路線をふたたび「毛沢東的な
	もの」に戻そうとする動きは実に憂慮すべきものだ。
	 毛沢東時代と比べると軍事力が飛躍的に増大した今の中国が「世界人口の半分が死んでも構わない」という毛沢東流の狂気を取り戻
	そうとしたら、それこそ、日本を含めた周辺国にとっての「民族滅亡」の脅威となるのではないか。

                   ◇
	【プロフィル】石平
	 せき・へい 1962年中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。88年来日し、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研
	究機関を経て、評論活動に入る。『謀略家たちの中国』など著書多数。平成19年、日本国籍を取得。
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	■中国軍拡への強い危機感
	 [アメリカreport]	ワシントン駐在編集特別委員・古森義久	2011.2.4 03:36 sankei-web

	 まさに「米中もし戦わば」だった。米国と中国が全面戦争も含めて軍事衝突するシナリオが専門家たちにより繰り返し論じられるの
	だ。米国議会の超党派の政策諮問機関「米中経済安保調査委員会」が1月27日に開いた公聴会だった。
	 軍事となると頭を砂に突っ込みがちなわが日本にとってそこに中国が絡めば最も背を向けたいテーマかもしれないが、米中関係の現
	実として改めて伝えるべきだと痛感した。中国の軍事力増強と新戦略構築を米国側がこれほどまでに心配しているのかと驚かされたこ
	とも大きかった。
	 公聴会のタイトルは「中国の積極防衛戦略と地域へのそのインパクト」だった。中国の人民解放軍が「積極防衛」の名の下に大規模
	な軍拡を進め、東アジアでの軍事能力を高め、この地域から米軍を締め出すことを意図しているという認識がこの取り組みの大前提で
	ある。なにしろオバマ大統領が中国の胡錦濤国家主席とホワイトハウスで会談し、米中協調をうたってから8日後の中国軍事政策への
	懸念の本格表明だから、米側の対中姿勢の建前と本音、光と影の交錯としても興味深い。

	 公聴会は朝から夕方近くまで、11人の証人がそれぞれの見解を詳しく述べた。議員側代表の証人としてはまず上院最長老の民主党
	ダニエル・イノウエ議員が「中国の海軍力拡大、サイバー戦争能力の増大、対艦、対衛星ミサイルの新開発、ステルス戦闘機や空母の
	新生産などはみなアジア太平洋地域の安全保障にとって重大な出来事だ」と警告した。
	 下院軍事委員会の有力メンバーの共和党ロブ・ウィトマン議員は「中国の軍拡は米側の予想より速い速度と大きな規模で進み、アジ
	ア太平洋地域の軍事バランスを危険な方向に傾け、米国の同盟諸国を支援するための兵力投入能力を脅かしている」と日本への影響も
	含めて証言した。
	 ランド研究所の軍事専門家ロジャー・クリフ研究員の証言はさらに具体的となる。中国軍の「積極防衛」の主体「接近阻止」戦略で
	は中国側は本土から約1500キロの第1列島線内の米側の海空軍基地や空母を破壊できる弾道、巡航両ミサイル、攻撃機を保有しつ
	つあるというのだ。第1列島線とは台湾、フィリピン、沖縄、九州などを結ぶ線を指す。
	 「接近阻止は優勢な敵との正面対決を避け、奇襲攻撃、重点集中攻撃、高速度保持などをドクトリンとしている。中国軍はこの戦略
	に沿って兵器類を着々と取得してきた」
	 米海軍のステーシー・ペドロゾ大佐は以下のように証言した。「中国軍は第1列島線でのコントロールの確立を2010年代、小笠
	原諸島やグアムを結ぶ第2列島線内でのそれを20年を目標に目指し、空母数隻を配備して、40年までには太平洋とインド洋の米軍
	の支配に終止符を打つことを意図している」
	 中国の狙いは究極的には米国主導のアジアや世界の現秩序への挑戦というわけだ。ではその戦略はアジアの同盟国、友好国にどんな
	意味を持つのか。戦略予算評価センターのジム・トーマス副所長が証言した。

	 「中国の軍拡、とくに接近阻止能力の確保は南シナ海、東シナ海の領土など権益を中国と争う米側の諸国に米国依存を難しくするた
	め、これら諸国は自主防衛を強化するか、中国に屈服するかの選択を迫られる」

	 日本にとっても国家の基盤を左右される切迫した課題なのである。
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