<網野銚子山古墳> 古墳時代前期後半(5世紀初め)に築造された全長198mの前方後円墳で日本海側最大の大きさを持つ。後円部径115m、 同高さ 16m、前方部幅80m、同高10m。墳丘は三段に築かれ、それぞれの斜面には葺石をふき、各段のテラス上には、 円筒埴輪の列がめぐらしてあった。神明山古墳、蛭子山古墳とともに丹後 3大古墳の一つに数えられる。古代丹後地方の隆 盛を今に伝える代表的な古墳の一つで、崇神天皇の時代、四道将軍の1人としてこの地に遣わされた丹波道主命の墓ともいわ れるが、丹波道主命の墓は、黒部銚子山古墳(弥栄町)にも伝承が残る。古墳の東側の寛平法皇陵古墳、西側の 小銚子古墳 とともに、大正11年に国史跡に指定された。
墳上に立つと前方後円形墳だという事がよくわかる。墳頂部には、今も埴輪片などが落ちていることがあるそうだが、今日 は見あたらなかった。古墳の東には、陪塚的存在の寛平法皇塚古墳があって、今は小さな神社がたててあり、その両古墳の 間に「浦島太郎の屋敷跡地」という恐るべき石碑が立っている。それによれば、竜宮から戻った浦島太郎が玉手箱をあけて、 爺さんになった姿に驚いた浦島がシワを引き抜いて近くの木に投げつけましたという。それが下写真の左側に写っている大 木だ。浦島はその後、この木の近くに屋敷を建てて暮らしたという伝承である。
墳頂からは日本海がきれいに見える。古代にあっては海からも、そびえ立つ大墳墓が眺められた事だろう。思うに、海岸近 くに築造された古墳には、そう言う意味も込められているのではないだろうか。つまり、海から見えるようにと言うことで ある。そしてそれは、自分の後にこの地を目指してくる者達への道しるべでもあるし、先駆者としての墓標でもあるような 気がしてならない。
この古墳は、日本海に注ぐ 福田川の下流右岸の丘陵に連なる台地上に位置し、網野町の市街地と日本海を見下ろしている。 隣りの弥栄町にも黒部銚子山古墳(全長 100m)という古墳があり、これと区別するために網野銚子山古墳と呼ばれる事が多 い。昭和40・41年同志社大学考古学研究会によって実測された時の計測値は198mであったが、昭和60年夏、発掘 調査された結果では、後円部で約3〜8m墳丘が広がっていることが確認され、全長は200mを越すのではないかと推定 されている。
三段築成の墳丘の下段と中段の間のテラスには円筒埴輪の列が並んでいることも確認され、これは、畿内の大型前方後円墳 と同じような築造形態である事から、大和政権の影響を受けているのではないかと言う意見も強い。しかし私見では、大和 がその影響を受けているという事もまた考えられるのではないかと思う。なんでもかんでも大和の影響下にあったと言う発 想は、既に学問の徒としての柔軟性に欠けているような気もするのだが。
また、古墳からは幅17m〜25mの周濠状の遺構もみつかっているが、墳丘のすその高さと濠状の底とに差がなく、墓域 と区別する為の遺構だろうとと考えられている。陪塚と考えられている東側の寛平法皇陵古墳からは、竪穴式石室内部に石 枕が副葬してあった。 銚子山古墳の築造年代は、墳丘の外形や立地、また埴輪などから4世紀末から5世紀初頭の年代が考えられ、丹後地方の古 墳のなかでは、加悦町の蛭子山(えびすやま)古墳に次いで古い古墳である。この古さは、むしろここから大和に影響を及 ぼしたのではないかと十分考えられるように思う。
日本海側3大古墳は、京都府下でも最大である。蛭子山(えびすやま)古墳は5位だが、網野銚子山、神明山古墳は1、2 位を誇っている。 1 網野銚子山古墳 竹野郡網野町網野 前方後円墳 中期 198m 2 神 明 山 古 墳 竹野郡丹後町宮 前方後円墳 中期 190m 3 久津川車塚古墳 城陽市平川車塚 前方後円墳 中期 180m 4 椿井大塚山古墳 相楽郡山城町椿井三階 前方後円墳 前期 175m 5 蛭子山1号墳 与謝郡加悦町明石藤野 前方後円墳 前期 145m ちなみに全国的には以下のようになる。 1 大仙陵古墳 大阪府堺市 前方後円墳 中期 486m 伝仁徳天皇陵 2 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市 前方後円墳 中期 420m 伝応神天皇陵 3 上石津ミンザイ古墳 大阪府堺市 前歩後円墳 中期 365m 伝履中天皇陵 36 網野銚子山古墳 京都府竹野郡網野町 43 神明山古墳 京都府竹野郡丹後町 残念ながら蛭子山古墳は全国50位に漏れている。
銚子山古墳の墳丘は、ほぼ全国の定型化した前方後円墳の形態をとっているが、他にはあまり例のない特徴として、墳丘の 二段目のテラス面が、前方部側と後円部側が続いていない墳丘形態となっている。従来、墳丘は全部を下から盛り土したも のであろうと推定されていたが、墳丘の一段目の一部は地山の砂丘を利用していることがわかった。我らが歴史倶楽部の、 会員の皆様の推測は、いずれも正しかった事になる。一部地山、一部盛り土だったのだ。 ある研究者によれば、銚子山古墳の墳丘の体積は111万立方mに上るということで、大型ダンプカーで18,000台分 というとてつもない土砂量だそうである。後円部頂上に立てられている埴輪は、総数で約2000本と考えられている。普 通の円筒埴輪の、頂部が丸くなっていて真ん中に穴があいている丹後特有の無頸壺形(むけいつぼがた)円筒埴輪である。 一般的には丹後型円筒埴輪と呼ばれる事が多い。また、墳丘の斜面全体に積み上げられていた葺石は、200万個程度の石 が使用されていると考えられ、これは銚子山古墳とほぽ同じ規模の前方後円墳である、神戸市の五色塚古墳で使われた葺石 量が223万個とされていることから推定できる。古墳築造に費やされた労働力の大きさを図るとき、その規模の大きさに 唖然としてしまう。
2004年夏、網野町の森さんと言われる方から、このHPの写真転載を依頼され了承のメイルを差し上げたら、以下のような 感謝のメイルが来た。丹後日下氏の末裔!「丹波の遠津臣」! 驚きだ! 地方には地方の真実がたくさん隠されているの かもしれない。それにしても、古地名が消えてしまうのは断腸の思いである。日本人は自分たちの歴史を自分たちで壊そう としている。地名も古代を知る有力な証人なのに。全く残念でならない。確か「丹後市」とかになるのではなかったかな。 From: 海 [mailto:xxxxxxxxxx.ne.jp] Sent: Sunday, August 01, 2004 1:05 PM To: himiko@zeus.eonet.ne.jp Subject: ありがとうございました 早速、HP写真転載の許可をくださりありがとうございました。合併により、古代から続く「竹野郡、中郡、熊野郡」の地 名が公称としては消えてしまいました。残念です。 なお、私、丹後日下部氏の末裔になります。網野神社に伝わる「日下部、森系図(森姓に改姓したのは永禄年間です)」に は古代からの記録があります(どこまで正確かは別として)。系図中の注記には、網野銚子山古墳の被葬者を暗示するよう な記載(網野神社は1452年まで松原遠津神社とも言われていたらしい)もあります。古事記記載の「丹波の遠津臣」を そぞろ想起させる神社名です。 網野町 森 -----Original Message-----