丹後という名前は、もともとは丹波国(現在の京都府中部と兵庫県中部)であったが、都(京都)から見て丹波の後ろにあ るという事で「丹後」と呼ばれるようになったと言う。古くは但波(たにわ)と呼ばれ、日本海側において一つの文化圏を 確立し倭政権とも対等に交流をもった国であったとも考えられる。そんな但波国のほぼ中央を、南北に貫いて日本海へ由良 川が流れ込んでおり、その上流から支流に2km程さかのぼった山間(現大江町)に、元伊勢神社と言う神社がある。 内宮皇大神社、外宮豊受大神社、天岩戸神社と呼ばれる3神社である。このうち(元伊勢)内宮と外宮は、三重県伊勢神宮 の元になった神社と言われている。相当古そうな縁起をもち、近在庶民以外にも親しまれ、特に江戸時代には多くの崇敬者 を集めたようである。 町内には内宮・外宮の地名のほか、五十鈴川、宮川、真名井ノ池、宇治橋、猿田彦神社など伊勢神宮にまつわる名称が数多 く存在しており、無視できない歴史を秘めているような気がする。
駐車場に車を止め、竹筒の「お志し入れ」に500円納めて歩き出す。足が具合悪いという西本さんは膝にサポーターを巻 いて歩く。ゴルフもこれを付けて社内NO1の地位を保っているそうだ。杉の古木が立ち並ぶ表参道を登っていく。途中、 癌封じの老杉にお祈りする。駐車場から本殿前まで5、6分。ほとんど整備されてない自然石の石段だ。参道は閑寂とした たたずまいで、2、3組の参拝者たちと挨拶を交わす程度で殆ど人には会わない。神秘的な雰囲気が漂っている。しかし最 近は、正月3が日で5万人の参拝客があるそうだ。
内宮の由来(下の看板を参照)によれば、 2千10年前、10代崇神天皇は「大宮地を求め鎮め奉れ」という天照大神の教えに従い、この但波へ遷幸し、天照大神を 祀る神社を創建した。しかし4年後突然、皇大神は倭(やまと)へ帰り、54年後、伊勢に鎮座した、となっている。 一方、伊勢神宮(伊勢)の由来によれば、創建の由来は、約2千年前垂仁天皇の時代、天照大神を祭る地を求めて伊勢に着 いた。天照大神は「ここに鎮まりたい」と告げたのでこの地に「伊勢神宮」が出来たとなっている。また伊勢の外宮の由来 では、伊勢神宮創建から5百年後、天照大神の御饌(食事係)として「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」を丹後国か ら迎え入れ、これを祀って外宮としたと、書かれている(天皇陵巡り:伊勢神宮の項参照)。 雄略天皇の22年、天皇の夢枕に天照大神が現れて「但波にいたころが懐かしい。豊受大神に会いたい」と言われたので丹 後から現在の地(伊勢)へ移されたと伊勢神宮の古記録にある。
伊勢神宮は、最初から伊勢にあったわけではなく、天照大神が大和の笠縫邑を発し丹後に仮鎮座し、その後全国20数カ所 を転々として、伊勢に落ち着いたのである。ここは、崇神天皇の39年、4年間、天照大神の御神体である「神鏡」が祀ら れた所なのだ。本殿の両側には脇宮2社が建てられ、それを取り囲むように83社の小宮が並んでいる。鳥居は黒木で、京 都嵯峨野の野々宮神社とここ以外には例がないそうだ。(野々宮神社の方は、今はコンクリート製の黒木ダミーになったそ うである。) 上左の写真は、「麻呂子親王お手植えの杉」と呼ばれ、土蜘蛛退治に丹後へ派遣された麻呂子親王(聖徳太子の弟)が自ら 植えた杉だとされ、かっては参道に三本の杉が聳えていたそうであるが、現存するのは一本のみである。 天照大神と言い、麻呂子親王と言い、この地(丹後)にこういう伝承が残り、伊勢神宮との間に何か符合するような伝承も 残るという事は、古代、丹後と大和朝廷の間に何か大きな関係があった事を想起させる。
樹齢数百年と思われる巨木の間を行くと、本殿前の手水舎に出る。上左の鳥居が「黒木の鳥居」である。桧の原木そのもの で造った鳥居で、この黒木鳥居というのは京都嵐山の「野々宮神社」が昔は黒木だったが、今はコンクリート製になったの で、おそらく現在では、日本中で唯一の黒木鳥居だろうとの事だ。皮を剥がないまま組まれている。
皇大神社の社殿は神明造であり、本殿の勝男木は十本、千木は内そぎで、左右に棟持柱がある。また、参道脇にある御門神 社は、社殿が竹で構築された大変珍しい形をしている。かってこの神社は、熱心な神道崇拝者たちと地元の人たちによって 支えられ、明治の頃には元伊勢参りが盛んで門前には、旅館が立ち並んだという。明治から大正の頃、山陰・若狭地方の 「伊勢参り」は、この元伊勢内宮を指していたと言われ、参道には土産物屋・旅館が立ち並び門前町を形成していた。現在 もその名残はわずかに見かけられるが伊勢神宮のような賑わいは見られない。面影はないが、昔を伝える雰囲気は残ってい る。威厳、風格もある、古式高い神社である。
大和政権が丹後を制圧したのは、ほぼ飛鳥時代の初期(6世紀の終盤)頃とされ、記紀によると聖徳太子の弟である当麻皇 子(たぎまのみこ)により攻め滅ぼしたとある。丹後の民話も、大和から駆けつけた麿子親王(まろこしんのう=聖徳太子 の弟)により丹後に住む鬼が退治され間人(たいざ)の立岩に封じ込まれ、以後丹後の国は平静になったと物語る。「当麻 皇子」「磨子親王」と名前は異なるが聖徳太子の弟とされる人物が登場し、朝廷から丹後地方へ派遣され、丹後を「攻め滅 ぼし」「鬼を退治し」この内宮にも来て「杉を植え」ている。その後ここに住み着いたとされる「磨子の墓」というのもあ るそうである。その母で、聖徳太子の実母である穴穂部間人親王(あなほべのはしひとしんのう)が一時居寓したという間 人(たいざ)という地名も現存する。大江の鬼や麿子親王、穴穂部間人皇后等の伝説と共に、天照大御神が大和からやって きたよいう伝承も、おそらくは、大和朝廷による丹後(丹波)国制圧を表しているように私には思える。 2千10年前というような年号問題は置いておくとして、崇神・垂仁両天皇は、おそらく古墳時代(弥生時代の末期から古 墳時代?)頃に実在したと考えられる天皇で、特に崇神は、記紀に見る「神武東征」のモデルではないかとされている。 つまり大和朝廷がまだその礎を築き始めた頃の大王(おおきみ)で、おそらくは覇権を求めて日本全国を制圧して廻ってい た有力な豪族だったのではないかと思う。大王自ら剣を振りかざし、各地の豪族達をその傘下に組みし続け、「寧所に暇あ らず」というような生活を繰り返して、やがてその集団は大和朝廷として国家の体(てい)をなすようになっていった。 その過程で、丹波(丹後)もその大きな勢力の中に組み込まれ、各地にその被制圧の事績が伝承として残ったのではないか。 丹後の国が、弥生時代から鉄、ガラス製造、玉造りといった先端技術を持った、渡来人直伝の技術を携えた当時の先進地域 であった可能性については、各遺跡を巡って検討を重ねてきた。この地方のことは、古墳時代の倭国動乱・大和朝廷泰明期 にあってもすでに広く各地に、少なくとも近畿一円には広まっていたのではないかと考えられる。だとすると、それを取り 込みたいとする勢力がここへ攻め込んでくるのは当然のなりゆきだ。天照大御神が大和からまず丹後に一時的に遷座したと いうのは、大和朝廷(の前身?)が真っ先にここを勢力下に取り込んだ事の証左のような気もする。伊勢に鎮座したのは丹 後の次である。 【元伊勢神社「皇大神社」だが、実は丹後(宮津市)には同じく元伊勢を名乗る籠(この)神社というのがある。こちらの 方が格式が高い事と、宮司「海部氏」の由来が遙か古代に遡る事から、皇大神社は偽物だとする説がある。皇大神社は、所 在不明となっている不甲神社(延喜式内宮)である。もともとは天手力雄神社(丹後屈指の古社)である。麻呂子親王が勧請し た神社である。等々の説が江戸時代より伝えられている。】
名 称 皇大神社 所 在 地 京都府加佐郡大江町字内宮 祭 神 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ) 摂社 左殿 天手力雄命(あめのたぢからをのみこと) 右殿 栲機千々姫命(たくはたちぢひめのみこと) 奥 宮 天岩戸神社 末 社 熊野神社、三女神社以下80社 祝 部 朝暉(あさひ)氏 昭和初期に断絶 諸 事 60年に一度の立替を伝えるが、現在の建物は明治元年のもの。