■扇谷遺跡(峰山町) 途中ヶ丘、扇谷の両遺跡の興亡は互いに相関関係にあったようなふしがある。扇谷遺跡は、弥生前期末から中期始め(1世 紀末〜2世紀初め)にかけての高地性大環濠集落で、竹野川流域を一望する丘陵にある。二重の環濠が巡らされ、V字形の 内濠は延長1km、最大幅6m、深さ4mの巨大なものである。途中が丘遺跡と同じように、大量の土器、石器、陶けん (土笛)、鉄斧などの鉄製品やガラス玉などが出土した。途中が丘遺跡とは2km程しか離れていない。 写真でわかるように、この環濠の深さ、鋭さは尋常ではない。環濠の底から上端まで4m、傾斜角は50度以上で、とても 一人で登れるような角度ではない。環濠は比高が30〜40mの丘陵の中腹を二重に巡らせてある。
下の写真で、道路の左側を環濠が二重に巡っていた。標識の立っている辺りの少し先の方、ちょうど車が移っている辺りが 峠の頂だ。 外濠の範囲は長軸で約270m、短軸が180mである。外濠の15〜20m内側に内濠がある。環濠内の殆どが急斜面地 で、頂部が平坦だとは言っても、とても大規模な集落を営めるような広さはない。どうして、こんな場所にあんな大規模な 環濠を巡らせなければならなかったのだろうか?
柱穴はあったが、住居跡は確認されていない。遺跡は、弥生前期末から中期初頭のごく短期間に営まれた集落のようだ。こ この環濠は、環濠とは集落を守るためのものだという説明が一番ピッタリくる。こんな高地に、外敵を濠に落として上がっ てこれないようにしてまで、守らなければならないものは何だったのだろう。それはおそらく、ここから出土した遺物たち が語っているように思える。ここは正に弥生時代の争乱を反映した遺跡だったのだ。
扇谷遺跡の環濠からは、丹後の弥生時代を象徴するような、「鉄」「玉」「ガラス」が出土している。同じく丹後の弥生の 象徴である台状墓も、隣接する七尾遺跡から2基見つかっている。環濠からは他にも、土笛、多数の紡錘車等が出土したほ か、鋳造の板状鉄製品(インゴット)、鍛(たん)造の鉄も見つかっている。ガラスの塊、鍛冶滓なども出土している事か ら、ガラス生産と、低温の鉄製品生産の可能性もある。碧玉と水晶の玉造りが行われていた事は確認されている。山城、大 和、播磨といった地方の土器と類似した土器も出土したことから、それらの地方と交流があったと推測される。 これらの事実からおそらくこのムラは、途中が丘遺跡を営んだ人たちと同じ部族で、2つの集落の間を行き来しながら、こ こ扇谷に、先端技術工房を築いたのだろう。そして、その技術工房のノーハウを外敵から守るために、何十人もが従事して 延々2kmにも及ぶ環濠を掘って「秘密工場」を守ったのに違いない。 そして生産された「製品」は、交易の対価として近畿周辺の地域へ運ばれ、その地方の産物と交換されたり、権威の格付け を示す装飾品として利用されたりしたものと思われる。