Music: Lady Madonna

丹後町間人 2002.6.30

	
	丹後町間人。間人と書いてこれを「たいざ」と呼べるのは近畿圏に住んでいる人の中でもそう多くはないだろう。この付近
	へ来たことがなければ、まずすんなり「たいざ」とは呼べない。由来を聞いてみると、ここは、聖徳太子の生母・間人(は
	しうど)皇后が、大和政権の蘇我氏と物部氏との争乱を避けるために身を寄せた地と伝えられている。この地を去る際、皇
	后は自らの名をこの地に贈ったが、住民たちは「恐れ多くて呼び捨てにするなど。」と、皇后が退座(たいざ)した事にち
	なんで「たいざ」という呼び方にしたとされる。

	穴穂部間人皇后は、第31代用明天皇の皇后で、587年用明天皇が崩じると、都での蘇我・物部両氏の権力争いを逃れ、
	当時蘇我氏の領地であったと考えられる丹後に数年滞在した。その時丹後に上陸した場所が、「大浜の里」と呼ばれた今の
	「後ケ浜」であったと言われる。この話にどの位の信憑性があるのかは定かでないが、現在、幼い聖徳太子を抱えて逃げて
	きた間人皇后と太子の像が、その上陸の地で日本海を眺めている。
	しかし、当地の案内にあるように、もし587年に逃げてきたとすれば、聖徳太子はもう10代後半と考えられ、この像ほ
	ど幼くは無かったのではないだろうか? 勿論、記紀にはこの逃避行の記事はない。






	異母兄の用明天皇(聖徳太子の父)の死後、同母弟の穴穂部皇子(あなほべのみこ)を推す大連・物部守屋と、泊瀬部皇子
	を擁立した大臣・蘇我馬子が対立する。用明天皇が崩じたことによって崇仏排仏の争いは一転して皇位継承をめぐる抗争と
	なったのである。

	そもそも、聖徳太子の母穴穂部間人皇后(用明天皇の皇后)と穴穂部皇子と泊瀬部皇子は同母姉弟であったが、穴穂部皇子
	は蘇我氏の皇子でありながら物部派についていた。だが、物部氏の形勢不利になると穴穂部間人皇后の説得により蘇我氏に
	寝返ろうとしたりする。
	かつて穴穂部皇子は、敏達天皇の殯(もがり)宮で炊屋姫(後の推古天皇)を犯そうとし、その際炊屋姫を守った三輪逆を
	殺害しているのである。炊屋姫の馬子への断罪もあり、馬子は直ちに兵を動かし穴穂部皇子らを殺害する。続けて、蘇我一
	族はこれを契機に、物部一族の殲滅に向かう。物部守屋は一族を集結し、稲城(いなぎ)をきずいて防備を固めた。やがて
	蘇我一族はこの稲城を攻め、厩戸皇子(聖徳太子)もこの軍勢に加わった。太子は、白膠(ぬるで)の木で四天王の像を刻
	み、「勝利を得れば、四天王寺に建立して恩を無窮に報じよう」と祈願し、馬子もまた寺塔を建立することを誓って猛攻に
	転じた。戦後、太子はこのときの誓願を果たすため大阪難波に四天王を勧請した。これが現在の大阪市にある四天王寺であ
	る。馬子も法興寺(飛鳥寺)を建立している。

	こういった当時の状況を考えると、遠く丹後の地へ、間人皇后が聖徳太子をともなって避難し、しかも数年滞在するという
	のは一寸無理があるような気もする。


立岩(たていわ)を正面に見据えて立つ間人皇后と聖徳太子の母子像。(丹後町間人の後ヶ浜海岸で)

 




	日本海側には奇勝・奇岩が多いが、ここ丹後町の後ヶ浜海岸にある立岩(たていわ)は、周囲1kmもある巨岩で、聖徳太
	子の弟、麻呂子(まろこ)親王が、退治した鬼を岩に閉じ込めたとの伝説が残っている。遠くから見るととても1kmもあ
	るようには見えないが、おそらく登ってみたらエライ事になるのだろうという予感がする。今朝4時に起きて、みんなが寝
	ているときに付近の海岸へ釣りに行った橋本さんと松田さんは、「ここまでくりゃよかったですねぇ」などと話している。




	「間人皇后の母子像」は、「古代の里資料館」から車で10分も掛からない海岸にある。大阪・京都方面からだと、JR京
	都駅から特急で「網野駅」まで2時間半。網野駅から間人まで丹海バスで約20分程らしい。バスは1時間に1本である。
	京都からの間人直行便もある(丹海バス)ようだが、これも一日1本のようだ。

	室町時代に間人を治めた丹後の守護「一色氏」の武将、荒川武蔵守は漁業を奨励し、間人港は江戸時代には北前船の寄港地
	として栄えた。現在もズワイガニの水揚げが多く、近畿圏では「間人ガニ」の名で知られている。また、奈良平城京跡から
	「丹後国竹野郡間人郷土師部乙山中男作物海草六斤」と墨書された神護景雲4年( 769)の木簡が発見され、当時からこの地
	が海産物を租として納めるほどの豊かな地であったことも判明している。


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