大阪府立弥生文化博物館 平成14年春季特別展 2002.4/13(土)〜6/16(日) 「青いガラスの燦き(きらめき)―丹後王国が見えてきた―」 【開館時間】 10:00〜17:00(入館 16:30まで) 【休館日】 月曜日(祝休日の場合は翌日) 【入場料】一般600円 高大生400円 中学生以下・65歳以上(要証明)障害者手帳を持つ方は無料 この博物館は、常設展は写真撮影自由で、開館後1年でその決断をした。しかし特別展は、撮影自由にすると貸し出して くれないところがあるというので、特別展に限り撮影禁止である。この一連の「丹後の旅」は、「鉄とガラスの旅」と銘 うっているので、どうしても出土品の紹介が欠かせない。そこで、博物館発行の「青いガラスの燦めき −見えてきた丹 後王国− 2002年4月13日発行」からSCANした画像でこれを補いたいと思う。記して深く感謝したい。
■古代日本文化の玄関口として、環日本海地域がかっては「表日本」であった、というのはもはや史界の常識である。稲作は勿論の 事、多くの文化や文明が日本海沿岸をその受け入れ口として移入されてきたことは疑いがない。もっとも、稲作については、中国華 南地方経由が最近有力であり、従来からの朝鮮半島経由説、南方経由説、或いはそれらの混合説などもまだまだ隆盛である。 そんな中にあって、明らかに「鉄」と「ガラス」における丹後地方の優位性、先進性は群を抜いている。北九州はその地理的条件か ら考えてもその優位性は当然であるが、丹後地方には一体どうしてここまで、鉄とガラスを中心とした華麗な文化が根付いたのであ ろうか? 副葬品からだけみれば、各地の弥生墳墓の被葬者の中で、これほどまでの華麗な装身具を身につけているのは北部九州及 び丹後の首長のみと言ってよい。 丹後地方における近年の考古学的な発見はめざましく、ガラスを中心とする豪華な装身具や、大量の鉄製品を副葬した墓が、発掘調 査により続々と発見されている。ガラスや水晶の玉、鉄の生産と、それらの交易により強大な勢力を保持した集団が、果たしてほん とに「丹後王国」と呼べるような、一大古代国家をこの地に築いていたのだろうか? もしそうなら、それを築いた人々はいったい どこから来たのか? なぜ丹後なのか? まさしく、燦(きら)めくように青いガラスの装飾品の数々を検討しつつ、古代のある時期燦然と輝いた丹後半島、弥生から巨大古 墳時代までにその覇を誇った、古代「丹後王国」に迫りたい。
■ガラスの歴史は古い。エジプトやメソポタミアの遺跡からは、少なくとも3,500年前に用いられていたガラス製品が出土している。 メソポタミア周辺でガラスが発明されてから、ガラスが宝器である時代は2〜3千年続く。古代エジプトでは、ガラスは長い間ファラオ の占有物であり、当時の人々にとっては、聖なる目的に捧げる最高に贅沢なものであった。ガラス製法の技術はこれらの地方からヨー ロッパへ渡り、紀元前後には鋳造、型押し、モザイク、カット、サンドイッチ、エッチング、マーブルといった技術がほぼ出揃ってい た、と見られる。色付きの不透明なガラスが主流であった時代に、やがて人々はガラスそのものの透明な美しさを発見する。ペルシャ 人が手にしていた水晶に見まがうばかりの透明な大杯は人々の驚きの的だった。私のWifeは数年間ガラス教室に通っていたが、その製 品は全て「吹きガラス」と呼ばれる製法で製作したものである。よくTVでも放映している、吹き竿を使って空気を送り込みガラスを 形成する技術である。ヨーロッパではこの技術は、紀元前後にはほぼ完成された技術になっていた。残された製品を見ると、当時は相 当に高い技術力を持っていた事が分かるのである。今日では復元不可能なほどの高い技術で製作したガラス製品も現存する。
中国におけるガラス製造は、これらの先進地に比べると約1000年ほど遅れていたとされている。しかし春秋戦国時代から漢代にかけて の遺跡からは、ガラス製の壁(へき)や玉が出土しているので、最新技術こそ遅れていたが、これらの優れたガラス製品を生み出す技 術が既に存在していた事は明らかだ。そしてその技術は、朝鮮半島を経由して古代の我が国にも伝わっていたはずである。では、古代 の日本においてもガラス製品は生産されていたのだろうか? 原材料は何処から入手していたのか? 工房は何処にあった? これらの問題については、「科学する邪馬台国」のなかの「ガラスの辿った道」コーナーで詳しく検証しているのでそちらをご参照い ただきたい。
■今から約2500年前、中国で、秦の始皇帝の時代より約500年ほど前の戦国時代につくられたガラス製品としてトンボ玉は有名 である。金太郎飴のように異なる色のガラスを巻き込んで、精巧に加工し小さなビ−ズにした素晴らしいガラス製品である。一般には 知られていないが、古代史ファンならみんな知っている。しかしこれもその起源は西方にあると言われている。このユニークな玉が中 国に伝えられ、工芸の極致とも言える技が生まれた。漢代に入ると、トンボ玉の他に、新たに中国独自の璧(へき)、蝉(せみ)、蚕 (かいこ)、豚(ぶた)、塞(つめもの) などの鋳造ガラスが多く作られるようになる。当時のガラスは、鉛、バリウムを多量に含ん でいた為、粘性度が低く鋳造に適していたのである。言い換えれば、「吹きガラス」には適さなかったのでガラス容器などは製造され なかったとも言える。蝉の形をしたガラス製品は、復活の象徴と考えられ死者の口の中に入れられた。蚕は、護符あるいは副葬するた めの装飾品として作られたものと思われる。塞(つめもの)は、死者の復活を信じていた古代人により、死者の目・耳・鼻・口・肛門 ・性器等に詰められた。高価な玉を詰めることによって、死体が腐敗しないと信じていたのである。ガラスは、玉の代用品として漢代 に盛んに利用された。
■1989年に発見された吉野ヶ里遺跡(弥生時代中期の環濠集落:佐賀県神崎郡)では、2000基ほどの甕棺が出土しているが、 人骨と共に多くの管玉が出土した。3〜5mm程度のガラス玉が1万個も出土し、これらにはすべて穴が空いていたので、首飾りとし て使われたと推測できる。青・緑・黄緑といった色付きのものが多く出土した。丹後地方の弥生時代の遺跡からも、多くのガラス製品 が出土しているが、管玉も出土例は多い。勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、棗玉(なつめだま)、丸玉(まるたま)、粟玉(あ わたま)、連玉(れんだま)、蜻蛉玉(とんぼだま)、切子玉(きりこだま)、そして釧(くしろ)等々が出土している。 吉野ヶ里遺跡より出土のガラス管玉は、その組成分析(前述「ガラスの辿った道」参照)により、大陸からの舶載品と考えられている が、この丹後地方のガラスはどうなのだろうか。
■ガラスの原料は「珪砂」その他である。ガラスははじめから自然界に存在している訳ではない。珪砂だけだと高温にしないとガラス 状にならないので、他にもいろんな原料が入られる。一番多いのが、「ソーダ灰」正式には「炭酸ナトリウム」、それから、「炭酸カ ルシウム」。この「珪砂」「ソーダ灰」「炭酸カルシウム」が、現代では一般に良く使われるガラスの3大原料である。これに色を出 したり、気泡を造ったりと用途に合わせて色々な物が混ぜられる。綺麗な青色のガラスは、酸化銅による発色である。当時、国内で使 われていたガラスは、ソーダ石灰ガラスか、鉛ガラスだった。現代のガラスに比べ鉛の割合が多い高濃度の鉛ガラスであるが、これは 耐水性を増す役割もしている。
ところが、峰山町出土のガラス(下)は、成分分析の結果、カリウムを多く含むカリガラスであることが判明した。古代におけるカリ ウムは何かと、その原料について調査された。まず考えられたのが木灰。しかし、木灰に必ず含まれるマグネシウムがこのガラスから は検出されなかったので、木灰は達っていた。次ぎにカリ長石が候補になったが、今度はアルミニウムの含有量が少なすぎ、あとは硝 酸カリ(硝石)しかないので、近くに硝石の鉱山があるはずだという事になったが、これも結局見つからなかった。
そこで浮上してきたのが、このカリガラスは渡来品だという説である。つまりこのガラスは日本で製造したものではなく大陸から来た もの(少なくとも原料は)だというのである。このガラスを分析すると、青色の発色源は銅、緑色系は鉄・コバルト・ニッケルだが、 鉄の還元状態によって緑と責緑に分かれている。つまり、原料だけでなく、製造法を変えることで色替えを行っていたと思われるのだ。 専門家の見方では、こういう分析の結果から、古代日本で、ガラスが作られていたとしても、国内では原料が乏しいために、大部分を 大陸(中国)から輸入して、日本で加工を行うといったシステムではなかったとされているようだ。全国でもカリガラスが出土してい るのは、峰山を含む丹後・担馬地方だけである。
■溶融坩堝(ようゆうるつぼ) 日本に入ってきたガラスが、日本で生産されたかどうかを検証した時、幾つかの「解」が考えられる。 (1).全く加工しないガラス製品を輸入した。 (2).ガラス製品としてではなく、加工を目的としたガラス材料として輸入した。 (3).全く独自にガラス製品を作り出す為に原材料として調達した。 結論から言えば、今日学術的に可能性が一番高いのは(1)と(2)である。それも(2)においても、おそらく高度な加工ではなく、 低温、単純な加工であっただろうとされている。(3)を行う場合、高温に耐えうる坩堝が必要になるからだ。 坩堝(るつぼ)とは、ガラスを溶かす為に用いる、陶器または磁器製の容器で、珪砂等のガラス原料を中に入れ溶融しガラスを作り出 す。加熱しても大丈夫な土や石で作られる事が多い。現在の所、弥生時代に坩堝が存在していた事の証拠はまだ無い。完全な坩堝は飛 鳥時代の遺跡、奈良県高市郡明日香村飛鳥の「飛鳥池遺跡」(7世紀末〜8世紀初))から出土している。従って弥生時代に、ガラス を日本国内に独自で作り出す技術があったとは考えにくいというのが、今日の「定説」のようである。 【奈良県国立文化財研究所「飛鳥・藤原宮発掘調査概報」1992年5月発行】
■青いガラス製勾玉・管玉・小玉を連ねた首飾り(写真下) (大宮町 左坂墳墓群、弥生時代中期末〜後期後葉、ガラス小玉は長さ約2〜4cm、大宮町教育委員会蔵) おびただしい数のガラス玉が副葬されている。すべて美しい青色である。勾玉・管玉・小玉と様々で、これらを連ねて首飾り・腕飾り ・耳飾りとしていたようだ。勾玉には、鋳型に流し込んで製作したものや、板ガラスを切って形をつくったものがある。
■弥生中期の玉の副葬(写真下) 丹後の弥生中期の墳墓の中では、丹後半島の南東方向に位置する舞鶴市、桑飼上(くわかいかみ)遺跡の碧玉製管玉が唯一の副葬例で あった。同じ中期に加悦(かや)町日吉ガ丘遺跡の方形貼石墓(はりいしぼ)から、朱とともに大量の碧玉製・緑色凝灰岩製の管玉が 出土した。これらの管玉は精巧なつくりの小型品で、被葬者の顔面部分から様々な方向を向いて検出された。首飾りの玉の緒を切って まいたとも考えられるが、中国の玉衣のように、管玉を縫い込んだ布を顔面にかけたのではないかと推定されている。
■青く輝くガラスの腕輪(写真:上下) 上記のガラスの釧(くしろ)は、発見当時、その青い燦めきと透き通るようなコバルトブルーの輝きで一躍有名になった。岩滝町大風 呂南遺跡の、1号墳の被葬者が身につけていた。胸部から、左腕に装着したと思われるガラスの腕輪が見つかったのだ。形はほぼ正円 で、外側に明確な稜線を持て断面は五角形である。この腕輪はカリガラス製で鋳型に流し込んだ後、磨いて仕上げたものと考えられる。 ガラスの腕輪は、現在まで日本で4点確認されている。丹後ではこの他に、大宮町の比丘尼屋敷(びくにやしき)墳墓から出土してい るものがある(下)。鉛ガラスのため表面は既に風化しているが、腕輪の断面部分から、本来は鮮やかな緑色であったことが確認され ている。 後の2個は、福岡県前原(まえばる)市の二塚(ふたづか)遺跡から出土した。その破片から2個体あったことが推定されているが、 破片のため完全な形は不明である。これは中国からもたらされたガラス原料か、ガラス製品を再加工して、日本で製作されたと推定さ れている。
■ガラス勾玉やガラス・碧玉製管玉で作られた頭飾りと耳飾り(上、下) (峰山町 赤坂今井墳丘墓、弥生時代後期末〜終末期、最大の勾玉の長さ:約4cm,復元品) 玉類を連ねた頭飾りは、福岡県立岩遺跡28号墳甕棺墓、佐賀県吉野ヶ里遺跡、大阪府亀井遺跡などの類例があり、赤阪今井墳丘墓は 立岩遺跡に次いで2番目の発見例である。この例のように、管玉を幾重にも垂れ下げ先端に勾玉を付けたものは、初めての出土となる。 王の近親者の頭飾りと見なされ、三連の玉を鉢巻き状の布に固定させたものとして復元されている。外側と内側はガラス管玉とガラス 勾玉、中央は碧玉製管玉とガラス勾玉の組み合わせである。これらのガラス管玉は鉛の含有量などから中国の原料とされ、さらに彩色 には古代中国人の人工顔料で、秦の始皇帝陵の兵馬俑の着色にも用いた「漢青」(かんせい)の結晶が使われている。この頭飾りは、 丹後の王がいかに主体的に中国と直接交渉をしていたかを示す資料ともなる。時期的には卑弥呼と同時代、弥生後期である。これほど までに豪華な装身具を身に付けている事から、この被葬者は、丹後の王の一族と考えて間違いないのではないかと考えられている。 実際に発掘された現物は鉛ガラスが使用されているため、かなり風化がすすんでおり、往事の輝きは褪(あ)せているので、弥生文化 博物館が、今回の特別展にあわせて復元品を製作して公開した。
■古代史上の謎の一つに、弥生・古墳時代に宝器であったガラスが、奈良時代以降我が国には全く根付かなかったという問題がある。 日本で明らかにガラスが生産されたという証拠は奈良時代にならないと見つからないのである。しかも、不思議な事にその後も殆ど日 本ではガラス製造の技術は発展しない。ヨーロッパのガラスを織田信長が手に人れるまで、殆ど歴史にガラスは登場しないのである。 ガラスの本格的な生産が我が国で行われるようになるのは、明治という近代になってからの事になる。 これは一体どういう事なのだろうか。日本では、土器・陶器が発達したのでガラスの器は必要なかったという説や、純度の高いガラス 製品を作り出す原料を、国内に見いだす事ができなかったのだという説などがある。一方、ヨーロッパでは、ガラスが出現して以来、 日常道具として使用されたので技術が継承され、発展しつづけてきたのだと言われる。メソポタミアの古代都市で出土したB.C. 2500年の粘土板には、楔形文字でガラスの製造方法、水差しのようなものへの加工法まで書かれている。 ■さて、ここまで丹後地方の古代ガラスに関する一通りの知識を学んで頂いたと思う。そして最後に、まだ検証していない大きな問題 が残っている事にお気づきだろう。そう、そうである。何故「丹後」なのか、という問題だ。冒頭の図を御覧頂いて、弥生時代のガラ ス製品の出土は、圧倒的に長崎県の対馬、佐賀県、そして丹後に集中していることがわかる。福岡県にもそれに次ぐ出土がある。 対馬、佐賀、福岡については、その地理的環境から、何となく理解できる。しかし丹後は一体どうした事だろう。大陸・半島からの人 々が対馬海流に乗ってやってきたのなら、別に丹後でなくとも良い。一番近いのは山口県北部であるし、島根県北部、鳥取県北部であ ってもいいではないか。なぜ丹後に集中しているのだろうか。 私見では、「鉄」の分布と関係があるのではないかと思う。即ち、丹後地方では「鉄」を本格的に生産していたのではないかと考える。 「製鉄」である。現在の所、弥生時代の製鉄炉跡は発見されておらず、弥生時代には製鉄は行われていなかったというのが定説だが、 ここ「丹後」ではそれを行っていたのではないだろうか。そしてその過程で得た、高温を導き出す技術をガラス製造にも応用したと考 えれば、ここにガラス製品がこんなに多い理由になりそうな気もする。しかし一方で、生産拠点だったとすれば、別の地域へ流通させ るのが目的であるような気もするのだ。他の地域に丹後産とおぼしきガラス製品が見受けられず、丹後から集中して出土するのが解せ ない。自分たちで造り、自分たちで使用していたと考えられなくもないが、いまいちスッキリしない。 現時点では通説に従って、丹後半島の勢力のみが、日本海沿岸の中でも大陸・半島と特別なルートを持っていて、彼らだけがガラスの 原料を輸入でき、その製造方法を熟知していたから、と理解しておこう。やがて何時の日かはっきりした理由のわかる日もくるだろう。 今はただ、青い燦めきを見て2000年前の我らが祖先たちが、一体どんな思いでそれを身につけていたかに想いをはせるとしよう。