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第68代後一条天皇

2001.9.2 菩提樹院陵 京都市左京区吉田神楽岡町






				【第68代 後一条(ごいちじょう)天皇】
				別名: 敦成(あつひら)
				誕生: 寛弘5年(1008)〜 長元9年(1036) (29才) 
				在位: 長和5年(1016)〜 長元9年(1036)
				父:  一条天皇 第2皇子
				母:  藤原彰子(しょうし:藤原道長の娘)
				皇后: 藤原威子
				皇子女:章子内親王、馨子内親王 
				宮居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
				御陵: 菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ:京都市左京区吉田神楽岡町)



 

		冷泉天皇陵から白川街道を横切って西へ15分ほど歩くと陽成天皇陵があり、この陵から後一条天皇陵へは2,3分である。
		「吉田山荘」の並びにある。周りは住宅地で、陽成天皇陵と違って、こちらは一段高く築かれている。




		藤原道長の圧力で三条天皇は退位し、一条天皇の中宮で、道長の娘彰子の生んだ敦成が後一条天皇として即位する。
		祖父道長を摂政とし、続いてその子頼道を摂政、後に関白としたが、わずか9才で即位したこの帝の治世は、祖父の摂政道長に全面
		的に委任された。ますます藤原氏の権力は盤石のものとなっていく。その後約50年、藤原道長の北家は繁栄を極める事になる。後
		一条天皇が11才の時、道長は三女の威子(いし)を後一条天皇の中宮とし、これで、彰子、妍子(けんし:三条天皇中宮)、威子、と
		道長の3人の娘は全て中宮となる。今まで全く前例の無いことだった。初め三条天皇の子敦明親王を皇太子としたが、三条帝が崩ず
		ると間もなく道長らの圧力によってそれを辞させ、寛仁元年(1017)、同母弟の敦良親王(後朱雀天皇)を皇太弟とした。




		威子の立后(りっこう:皇后になる事)の夜、酒宴で道長は和歌を読む。有名な、
		「この世をば わが世とぞ思う望月の 欠けたることも無しと思えば」
		である。自らの栄華を、「満月が欠けているところがない。」と例えた。しかしながらその婚姻関係は今日から見ればめちゃくちゃ
		で、孫に娘を嫁がせるなど、およそ普通の感覚で出来る所業ではない。あくなき権力欲に憑かれた精神構造のなせる業と言える。藤
		原兼家(かねいえ)の四男として生まれた道長は、本来なら摂政になって権力を握る可能性など皆無だったのだが、兄達の相次ぐ死に
		よって、権力の座についた幸運児だった。天下の土地の殆どが彼のものになり、錐を立てるほどのわずかな土地も残らないと言われ、
		「立錐の余地もない」と言う言葉はここから来ている。




		後一条天皇は長元9年(1036)4月、29才で病に崩じたが、遺詔により喪を秘して皇太弟に譲位したとされる。神楽岡の東辺にお
		いて火葬された。火葬の後遺骨は浄土寺に安置され、火葬所の跡に母彰子は伽藍を建て、天皇の供養を行いこれを菩提樹院と号した。
		長久元年(1040)に遺骨は浄土寺より菩提樹院へ移され、同院をもって山陵としたが、後世所伝は失われ、谷森善臣が京都市左京区
		吉田神楽岡町に所在する現在陵を考定した。この帝の治世に、刀伊(とい)の入寇や平忠常の乱などが起こっている。



		<刀伊の入寇>
		元寇以前にもわが国はたびたび外国の侵略を受けている。記録に残るものとしては、『太宰管内志(大宰府管内誌)』『類聚三代格』
		『日本三代実録』『百練抄』『日本紀略』『扶桑略記』等々があるが、勿論記録されていない侵略もたくさんあったはずだ。平安中期
		から末期にかけても、新羅・高麗・南蛮等、様々な異民族が、我が国を侵略している。その多くは、大陸半島に一番近かった北九州に
		攻めてきた。侵略は北九州のみならず薩摩大隅にも及んでいる。
		記録に残るが、一体何処の国・民族なのかが分からないものもある。刀伊(とい)もその一つだ。「朝野群載」、「小右記」によれば、
		「寛仁3年(1019)3月28日、50余隻の船団が突如として対馬に来襲し、壱岐対馬両島の住民は悉く殺戮された。翌月7日には
		筑前糸島に上陸し、志摩・早良諸郡を荒らした。賊は人をさらい物資を奪い家屋を焼き払った。老人子供は殺し、特に丈夫な者を船に
		載せて連行した」という。(中略)。「13日、賊は肥前松浦郡に向かったが、在地の豪族である源知が兵を集めて迎撃し、矢によっ
		て数十人を倒し、これを追い払った。」となっている。ここに言う「刀伊」は「女真人」(北方騎馬民族:東モンゴル?)と考えられ
		ているが、契丹、その他の説もある。


		<平忠常の乱>
		万寿5年(1028)下総権介(しもおさごんのすけ)平忠常が、安房国衙(こくが:国司の政庁)を襲い、安房守平惟忠を焼殺した。忠常の
		祖父平良文は平将門の伯父で、将門はほぼ90年前同じ地で叛乱を起こし鎮圧されている。忠常は上総辺りで勢力を張り、国司の官物
		を涼め取っていたが、安房守殺害という大事件となった。
		乱はなかなか鎮定せず、忠常の叛乱は三年目、房総三ヶ国に拡大し、忠常の勢力は強大になった。朝廷は、様々な対処策の失敗の果てに、
		新しく甲斐守源頼信に追討使を命じた。頼信は源満仲の子息で、藤原道長に近侍していた。長元4年(1031)4月28日、源頼信が甲斐
		から板東平野に達するやいなや、忠常は出家して常安と名乗り、子二人、郎党三人を連れて投降したのである。しかも忠常は頼信に従
		って上洛の途中病にかかり美濃国野上で死去したため、頼信は忠常の頸だけを持って帰京した。何故、忠常が頼信と一戦も交えず投降
		したのかは現在も明かでは無い。「今昔物語集」は、両軍は衝突せず、一方的に忠常が降伏したと伝えている。




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