Music: Night

第94代 後二条天皇
2000.12.29 京都市左京区北白川追分町







		大原に、後鳥羽天皇陵を見に午後から出かけたので、大原を出て「出町柳」に着いたときにはもう5時を廻っていた。まだ明るかった
		ので、大丈夫だろうと思ったが、冬の日の入りは早い。アッという間に暮れてしまった。鴨川を背に、百万遍をすぎて京都大学の理学
		部と農学部の建物が建ち並ぶ中にこの御陵はある。ちまちまとした建物の中に、京都らしく狭い入り口中広し、という出で立ちでぽつ
		ねんとある。親子2代で葬られているが、親子ともに夭折した。

 

				【第94代 後二条(ごにじょう)天皇】
				
				別名: 邦治(くにはる)
				父:  後宇多天皇 第1皇子
				母:  堀川基子(西華門院)
				皇后: 徳大寺忻子
				皇妃: 藤原宗子
				皇子女:邦良親王、邦省親王、祐助親王、聖尊親王、尊済親王、a子内親王、栄子内親王  
				生没年:弘安8年(1285)〜 徳治3年(1308)24才
				在位: 正安3年(1301)〜 徳治3年(1308)
				皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
				御陵: 北白河陵(きたしらかわのみささぎ:京都府京都市左京区北白川追分町)

 


		遊義門院に養われる。永仁6年(1298)立太子。持明院統と大覚寺統で交互に皇位を継承する「両統迭立」が成立し、後伏見天皇の後を
		受けて、後宇多天皇の皇子を推す幕府に支えられて、正安3年(1301)即位した。即位後も後深草、亀山、後宇多、伏見、後伏見の五
		上皇が院中にあり、朝政の実権は父後宇多上皇が掌握していた。「両統迭立」の争いの中、在位中に24歳で崩御した。歌集『後二条
		院御集』『後二条院御百首』がある。
  
 




		後嵯峨法皇崩御後、亀山・後宇多と大覚寺統の天皇が二代続いたため後深草天皇の持明院統が強い不満を示した。
		亀山天皇は1274年に幕府の口入によって長子の世仁親王に譲位して世仁親王は後宇多天皇(在位1274〜87)として即位、亀山上皇は
		院政を(1274〜87)開始。 そのため一半の責任を感じた執権時宗が妥協策を出し、後深草(持明院統)の皇子の熙仁が亀山天皇の猶
		子ということにして皇太子の位についた。これが両統迭立の端緒となった。

		立太子した熙仁親王は1287年に伏見天皇として即位(在位1287〜98)し、念願の後深草院政(1287〜1290)が実現。翌1288年に生まれ
		た皇子胤仁親王が1289年に立太子。1298年に胤仁親王が即位して後伏見天皇(持明院統:在位1298〜1301)となり伏見院政(1298〜
		1301)が開始された。 伏見・後伏見と二代にわたって持明院統からの即位となったため、今度は大覚寺統の不満が強まった。
		
		伏見天皇暗殺未遂事件(1290):
在位中、刺客に伏見天皇が暗殺されそうになる。亀山院が関与したとされるが疑惑を残したまま事件はおさまった。同年、後深草院は 院政を停止して伏見天皇の親政が1298年まで続くこととなる。
後伏見天皇が即位後、両派の幕府に対する裏工作は熾烈を極めたが、幕府は後宇多天皇の皇子である邦治親王を皇太子とする方針とし てそれが実現。そして皇太子邦治は3年後の1301年に践祚して後二条天皇(大覚寺統)が誕生する。 亀山法王亡き後、意志を継いだはずの後宇多上皇は、後二条帝の皇子・恒明(つねあきら)親王を退け我が子尊治(たかはる) を後継者にしようとする。大覚寺統が分裂したのである。この分裂に乗じて、今度は幕府の裁定通り、皇太子には持明院統の富仁親王 が立ち、後二条天皇が若年で崩御したため1308年に富仁親王が践祚して花園天皇(在位:1308〜18)となる。 次は大覚寺統の順番であったが、当時天皇家の惣領であった後宇多法皇は後二条天皇の遺児邦良親王が病弱であったこともあり、 後二条天皇の弟の尊治親王(後醍醐)を皇太子とした。 後醍醐天皇は、父・後宇多天皇に愛されていなかったと言われる。その為、「即位は一時的なもの。後二条天皇の息子が即位 するまでのつなぎ」のような形で即位したのだともいわれている。この説に従えば、後醍醐は、父後宇多院の長子後二条天皇の早世 による「臨時の帝」として即位しており、皇太子には後二条天皇の皇子邦良が据えられ、邦良の早世後には持明院統の後伏見天皇の 皇子量仁(かずひと)親王があてられる。 最終的には南北朝の争いへ至るこの大覚寺統・持明院統の確執は、後嵯峨天皇の、兄後深草を退けて弟亀山に対する偏愛に端を発して いるが、深刻な皇位継承争いの出発点となるには他にもいくつかの要因がある。 1.後嵯峨天皇が院政のあとを誰にするかを定めずに(幕府に預けて)死去したこと。 2.天皇家の惣領たる者に政治的・軍事的権力がなかったこと。 3.皇室領の相続問題や近臣間の権力争いが重なって両統対立が激化したこと。 4.承久の乱以降、当時幕府が皇位の継承に大きな発言力をもっていたこと。 等々である。この時代、政務の実権者である幕府にもあきれられたほどの権力闘争を皇室は繰り返す。そして後醍醐天皇による「建武 の中興」と呼ばれる天皇親政を契機に、一気に武力抗争へと流れてゆくのである。これは、当然武士達の世界にも大きな影響を及ぼし、 以後60年に渡る南北朝の対立時代を経て、武士達と天皇家の位置関係、力関係が固まったような気もする。



		さすがデジカメ、上の写真はとても夜とは思えない。微妙な光の加減でどうとでも写る。下は月明かりの元での写真。遠くの空に月も
		写っている。



		
		後二条陵の脇に、息子邦良親王の御陵もあるが、ずいぶんと小降りである。こんもりした盛り土に見える。




		親王墓の裏に立つ建物は、京都大学理学部である。門が閉じられている為、金網の柵を乗り越えて学生が出入りしていたが、学生ばかり
		か職員(或いは教授陣?)も2mほどの柵を乗り越えていた。


邪馬台国大研究・ホームページ /天皇陵巡り/chikuzen@inoues.net