【第79代 六条(ろくじょう)天皇】】 別名:順仁(のぶひと) 誕生崩御: 長寛2年(1164) 〜 安元2年(1176)(13歳) 在位: 永万元年(1165)〜 仁安3年(1168) 時代: 平安時代 父: 二条天皇 母: 伊岐氏(伊岐致遠の娘) 皇后: なし 皇妃: なし 皇子女:なし 宮居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 御陵: 清閑寺陵(せいかんじのみささぎ:京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町) 【第80代 高倉(たかくら)天皇】 別名: 憲仁(のりひと) 誕生崩御: 永暦2年(1161) 〜 治承5年・養和元年(1181)(21歳) 在位: 仁安3年(1168)〜治承4年(1180) 父: 後白河天皇 母: 平滋子 皇后: 平徳子 皇妃: 藤原殖子、藤原通子 皇子女:言仁親王(安徳天皇)、守貞親王、唯明親王、尊成親王(後鳥羽天皇)、功子内親王、 範子内親王、潔子内親王 宮居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 御陵: 後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ:京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町)
京阪三条駅「五条」で降りて、東へまっすぐ行くと、京都市では有名な「墓の町」東山墓苑帯である。本願寺大谷廟を初めとして、 多くの墓苑が東山に連なっている。京都市の火葬場もここにある。歩けば40分から50分はかかるが、タクシーだと7,8分である。 この墓域の中に、2天皇の御陵はある。清水寺を登り切った所からも来れる。東山の山麓に静かにあり、訪れる人とてない。
第79代 六条天皇 保元の乱・平治の乱を経て、武家が摂関・天皇をもしのぐ実力者としてはじめて歴史の表舞台に登場してくる。後白河上皇から譲位 された父二条天皇は、六条天皇即位の翌日に崩御してしまった為、帝はわずか1才にて即位する事になる。当時朝廷は、天皇親政を めざす二条天皇支持派の父と、祖父・後白河法皇の院政支持派が対立していたが、二条天皇の死で、二条派はその朝廷権力を後白河 派に奪われる格好となり、父も亡くなり強い後ろ盾もなかった帝は、祖父である後白河上皇の支配のもと、後白河法皇の院政支持派 に呑合されることとなった。しかし、まだ1、2歳の赤子である帝に、勿論そういう環境は理解できるはずもなかった。 何としてでも一門から天皇を出したい清盛の圧力で、仁安3(1168)年3月、憲仁親王(高倉天皇)即位に伴い、六条天皇は5才で廃 位させられ上皇となるが、安元2年(1176)、元服を前にわずか13才で病に倒れ、清閑寺陵(京都市東山区清閑寺歌ノ中山町)に葬 られた。 高倉天皇即位の後、高倉天皇の生母・平滋子(後白河上皇女御)が皇太后となり、平氏は天皇の外戚として全盛を迎える。幼い六条 上皇は、公私ともに全くの孤立状態にあったものと想像される。この頃、平清盛は右大臣から左大臣になっている。
第80代 高倉天皇 後白河天皇の皇子で、8才で即位。母は清盛の義理の妹に当たる平滋子(建春門院)。11才で、6才年上の平清盛の娘・建礼門院 徳子を中宮に迎える。一方は専制君主(後白河上皇)、一方は独裁的権力者(平清盛)という、基本的には同じような道を目指す二 人の対立はいわば必然であった。父後白河上皇の院政下では当然帝に実権はなく、この帝の生涯は、この両者の対立の間にある苦悩 の日々と言ってよい。 院の近臣らによる鹿ケ谷(ししがだに)の陰謀など、反平氏色を全面に打ち出した上皇と清盛の対決が決定的になると、帝は第一 皇子で清盛の外孫にあたる言仁(ことひと)親王に譲位(安徳天皇)する事で、この窮地から逃れようとした。 平家物語にこの天皇の逸話が残っている。(「平家物語」巻6「小督」) 小督(生没年未詳。権中納言藤原成範の女。高倉天皇の女房。)は高倉天皇中宮徳子に仕えた宮中一の美女で琴の名手であった。彼 女は平清盛の女婿藤原隆房に見初められたのち、高倉天皇の寵愛を得る。しかし、それを知った清盛の怒りをかい、難を逃れるため に嵯峨山中に身を隠す。高倉天皇の命を受けた弾正少弼仲国が琴の音を頼りに小督を見つけだし、宮中に連れ戻した。再び天皇の寵 を得、皇女(範子内親王)を生むが、清盛の目をのがれることはできず、尼にされて宮中を追われてしまう。 現在のところ小督は実在の人物とされているが、本当に平家物語が語るような悲劇のヒロインだったかどうかについては、諸説あり 定かではない。
御陵全景。正面は一つだが、中で円墳(六条天皇)と方墳(高倉天皇)に分かれているらしい。 六条天皇は安元2年(1176)崩御し、清閑寺の小堂に土葬された。しかし後世所在を失い、あるいは清閑寺本堂前の要石、あるいは 高倉天皇陵と同じ場所、あるいは小督局塔と称する古塚がそれではないかといわれてきたが、谷森善臣によって、山神とも法華堂と も呼ばれていた現陵が考定された。 高倉上皇は、養和元年(1181)崩御し、遺体は清閑寺に運ばれ法華堂に葬られた。現陵は清閑寺旧境内の山腹にあり、六条天皇陵と 同所にある。法華堂はすでにないが、清閑寺が陵の祭祀と管理を続けていたため、陵の位置に誤りはないと思われる。陵の東側に宝 筺印塔と呼ばれる石塔があるが、高倉天皇の寵愛を受けた小督の供養塔と伝えられる。
正面石段を登ったところ、高倉天皇陵が右手にある。正面右の石段を登っていくと、清閑寺の墓苑へ行く。 鎌倉幕府による武家政権の成立以来、天皇の権威は失墜し、天皇陵は荒れるにまかせた状態で伝承も次第に失われてしまう。元々の 御陵の位置は殆どが不明となり、江戸時代にも何度か御陵比定の試みがなされている。現在の天皇陵は、その江戸時代の考証、ある いは、明治初期の考証に基づくもので、当時は古墳の変遷や土器の編年などの考古学的知見は皆無であり、あいまいな記紀や延喜式 などの古文書の記述を頼りに、半ば想像で比定していったようである。このため、現在の考古学的知識からすれば、ずいぶん年代の 異なる古墳が天皇陵に比定されている例も見受けられるようだ。
【谷森 善臣(たにもりよしおみ) 1817(文化14)〜1911.11.16(明治44)】 江戸幕末から明治時代にかけての国学者・史家。京都生れ。伴信友(ばんののぶとも)の弟子。考証学を学び、山陵を研究。明治維新 後、神祇事務掛・制度事務局権判事・皇学所取調御用掛・大学中博士を歴任。また国史考閲御用掛・教導局御用掛・御系図取調御用 掛を兼任。1906(明治39)正四位。著書・論文は「山陵考」「諸陵徴」「諸陵説」「古事記校訂研究」「嵯峨野之露」等。 【鹿ケ谷(ししがだに)の陰謀】 平家一門のあまりの栄達と専横に嫌気のさした後白河上皇の近臣たちは、鹿ヶ谷山荘に集結して平家打倒の企みを練った。 法勝寺(ほうしょうじ)執行(しぎょう)俊寛(しゅんかん)、後白河臣下藤原成親(なりちか)、西光法師(さいこうほうし)ら が、俊寛の山荘に集まっては討議をこらしたが、治承元年(1177)5月、この陰謀が発覚し、西光は斬首、成親・俊寛らは配流 され、陰謀に加わっていた後白河上皇も処分される寸前であったが、有名な「平重盛の諫言」でからくも処罰はまぬがれた。