Music: 旅愁
阿保親王墓
2007.6.2 芦屋市翠ヶ丘町 1





	
			阿保親王	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

			 阿保親王・『前賢故実』より

	阿保親王(あぼしんのう、延暦11年(792年)−承和9年10月22日(842年12月1日)は、平安時代の皇族。平城
	天皇の第一皇子で、母は葛井道依の娘・葛井宿禰藤子(のち蕃良朝臣藤繼)。桓武天皇の孫に当たる。妃は桓武天皇の皇女伊都
	内親王。子に在原行平、在原業平ほか。
	弘仁元年(810年)、薬子の変に連座して大宰権帥に左遷される。弘仁15年(824年)に平城上皇が亡くなった後、嵯峨
	天皇によってようやく入京を許される。その後上野国・上総国の太守や治部卿・兵部卿、弾正尹等を歴任した。
	また天長3年(826年)には、行平、業平ほか子供等に在原姓を賜わり臣籍降下させた。だがこうした配慮にもかかわらず、
	あるいはその有能さゆえか、嵯峨天皇が宮廷内の権力を固めてゆく中で嫡流の地位を失ったとは言え、桓武天皇の嫡系の孫であ
	る阿保親王の動向は注目の対象であったらしい。ついに橘逸勢らから東宮恒貞親王の身上について策謀をもちかけられるが、阿
	保親王は与せずに、これを逸勢の従姉妹でもあった皇太后橘嘉智子に密書にて報告、判断を委ねた(承和の変)。変の3ヶ月後、
	急死した。死後に一品の品位を追贈されている。




	JR芦屋駅の北東約1kmほどの、マンション・一戸建てが立ち並ぶ住宅街の中に、大きな木が鬱蒼と茂った森があり、この中
	に阿保親王塚と伝承されている古墳がある。阿保親王塚(あぼしんのうづか)。「あほ」ではない、「あぼ」。「阿保親王塚」
	については、摂津志(日本輿地通志畿内部の一部)享保19年(1734年)に「阿保親王墓在二打出村一四畔有二冢六一」と
	記載されているのが初見だそうだ。その記述を引いているのが、摂津名所図会で「側に小冢六つあり」と見える。当時は親王墓
	とされる墳墓(円墳)の他にいくつかの墳丘があったことが窺えるが、現在ではその姿を見ることは出来ない。

	阿保親王は、平城天皇の第一皇子として誕生しているが、「薬子の変」で父平城上皇に連坐し太宰権帥に左遷される。天長初頭、
	恩詔により帰京を許され、天長3年(826年)皇子の仲平,行平,守平,業平に在原姓を賜わる。その後、三品,上総太守,
	宮内卿,兵部卿,弾正尹を歴任し、承和9年(842)7月、伴健岑より「謀反」に誘われたのを橘朝臣嘉智子(嵯峨太皇太后)
	に密告する。同年10月51歳で薨去。死後、橘逸勢の変を未然に防いだ功により、葬儀の日に一品を送られた。
	親王は「打出」を所領としてこの辺りに別館があったとされる。平安期には「葦屋庄」が皇室領であったこと、旧西国道に、京
	−山崎−草野(すすきの:箕面市萱野)−葦屋−須磨と駅、厩屋が置かれていたことなどから、この地域が皇族領であったこと
	は確かなようである。




	『續日本後紀』承和九年七月己酉
	是日、春宮坊帶刀伴健岑・但馬權守從五位下橘朝臣逸勢等謀反。事發覺。・・・・・ 先是、彈正尹三品阿保親王緘書、上呈嵯峨太皇
	太后。々々喚中納言正三位藤原朝臣良房於御前、密賜緘書、以傳奏之。其詞曰。今月十日、伴健岑來語云。嵯峨太上皇今將登遐。
	國家之亂在可待也。請奉皇子入東國者。書中詞多、不可具載。
 
	『續日本後紀』承和九年十月壬午
	彈正尹三品阿保親王薨。遣從四位上藤原朝臣助・從四位下田口朝臣佐波主・從五位下【上】藤原朝臣宗成・從五位下路眞人永名
	等、監護喪事。葬日遣參議從四位上和氣朝臣眞綱等、贈位。曰。 天皇大命良万止阿保親王尓宣久。往者逆人結黨天不善留事謀
	利、而乎親王乃至誠有天白顯留尓依〓【氏一】、伏罪天國家不亂奈理尓太理。依此〓【氏一】伊都志賀參入坐牟冠位上賜牟止念
	行攴。而間尓不慮外尓忽尓朕我朝廷乎置天罷坐奴止聞食天奈毛。驚賜比悔賜比哀賜比都都大坐。然毛治賜比授奉牟止所念之位止
	爲天奈毛。一品贈賜比治賜布。又遺留礼留親母并子等乎毛殊矜治賜牟。罷坐留道間波、平久幸久宇志呂毛輕久罷坐止詔不天皇我
	大命乎宣。 親王者、皇統彌照天皇孫。而天推國高彦天皇之第一皇子也。母葛井氏【藤子】焉。大同之季、 天皇禪國皇太弟、
	彈正尹、兼上野・上總等太守。親王素性謙退。才兼文武、有膂力、妙絃歌。春秋五十一而薨也。






	「兵庫県の地名 T 日本歴史地名大系 第29巻T」によれば、
	JR芦屋駅北東約一キロ、宮(【振假名】みや)川左岸の翠(【振假名】みどり)ヶ丘(【振假名】おか)台地に位置。標高
	二八メートル。平城天皇の皇子阿保親王の墓と伝え現在は宮内庁の管理下にあるが、四世紀後半の古墳と推定されている。昭
	和一一年(一九三六)の測量図(宮内庁書陵部蔵)によると直径約三六メートル・高さ約三メートルの円丘を方形の区画が囲
	み、その間に部分的に周濠らしきものがみられる。遠祖を阿保親王にもとめる毛利氏がこの塚を厚く信奉し、江戸中期には長
	州萩藩による大修築が行われた。そのため古墳の原型をかなり損じていると考えられる。修築時に鏡七面が出土した記録(毛
	利家文書)があり、出土鏡として確認されるもののなかに親王(【振假名】しんのう)寺所蔵の三角縁神獣鏡三面・内行花文
	鏡一面と「陣孝然作」銘の三角縁神獣鏡一面(所在不明)がある。
	とある。




	しかし、考古学的な見地から言えば、この古墳は4,5世紀の円墳で、親王とは明らかに年代がずれている。出土遺物から見て
	も、古墳の築造時期は阿保親王の没年(西暦842年)よりも4,500年は古いと思われる。いつの時代にここが親王と関連
	づけられたかはわからないが、平安初期の他の皇族墓から見てもとても親王墓とは考えられない。明らかに古墳である。
	元禄4年(1691年)阿保親王850回忌を機に、親王の嫡孫、大江音人の流れを汲む「長州毛利家」が墓域を改修し、現存
	する燈籠を寄進するなど整備に努めた。その際に周囲の小墳を破壊したらしく、埴輪円筒と鑑鏡(三角縁神獣鏡)の完形品、破
	片、装飾帯が出土し、現在でも親王の菩提寺「親王寺」に所蔵されている。以前は、寺がこの阿保親王塚を管理していたが、現
	在は宮内庁によって管理されている。明治8年(1875年)宮内省は、伝承によりここを阿保親王墓と治定し、神明門の改造、
	周囲の土堤築立を行い皇族墓としての形式を整えるとともに、書陵部桃山管区陵墓管理事務所によって管理させ、現在に至って
	いる。(平成7年の阪神大震災で、毛利家寄進の燈籠が一部損壊)。
	阿保親王墓の所在地は、名前に由来する芦屋市親王塚町ではなく、何故か東隣の芦屋市翠ケ丘町となっている。
	なお、「阿保親王塚」は、京都府伏見区深草正覚町や大阪府松原市等にも存在しているが、いずれも年代的にみて親王塚とは考
	えられない。





両側の灯籠は山口の毛利家から寄進されたもの。





邪馬台国大研究ホームページ / 天皇陵めぐり / 阿保親王墓