<第20代 安康(あんこう)天皇> 異称: 穴穂命(あなほのみこと:日本書紀) 生没年: 履中天皇元年 〜 安康天皇3年 56歳(古事記) 在位期間 允恭天皇41年 〜 安康天皇3年 父: 允恭天皇 第二皇子(一書には第三子) 母: 忍坂大中姫命( おしさかおおなかつひめ:稚渟毛二岐(わかぬけふたまた)皇子の娘) 皇后: 中磯皇女(なかしひめ:大草香皇子の妻) 宮: 石上穴穂宮( いそのかみのあなほのみや:奈良県天理市宝来町) 陵墓: 菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ:近鉄橿原神宮線「尼ヶ辻駅」)
近鉄奈良線の「西大寺駅」で橿原神宮線に乗り換え1つ目の「尼ヶ辻駅」で下車する。駅から5分のところに「垂仁天皇陵」がある。 その陵を横目に見ながら西へ15分ほど歩いた、小高い丘の上に「安康天皇陵」がある。周りは住宅地が密集していて、なかなか陵の 正面がわからないが、遠目には一段高くなっている森を目指していけば良いのでわりと簡単に見つけられる。上右の石柱は駅からす ぐのところに建っているが、裏面には「垂仁天皇陵」と彫られている。 允恭天皇の崩御後、同母兄の木梨軽皇子が皇太子に立てられていたが、彼は同母妹と近親相姦の罪を犯し、人臣は皆穴穂命に荷担し たため、木梨軽皇子を討って允恭42年(453)12月 石上穴穂宮( いそのかみのあなほのみや:奈良県天理市)に即位した。
安康天皇は、弟の大泊瀬皇子(おおはつせのみこと:雄略天皇)の后に、幡梭皇女(はたびのひめみこ:仁徳天皇の皇女)を貰いた い旨、その兄の大草香皇子(おおくさかのみこ)に申し入れ喜ばれるが、根使主(ねのおみ)と言う家臣が大草香皇子の献上品を着 服し天皇に虚偽の報告をしたため、その讒言を信じ大草香皇子を殺害してしまう。そしてその妻、中磯皇女(なかしひめ)を宮中に 召し抱え皇后とするのである。 しかし、安康3年(456)8月、山宮(どこかは不明)に遊んだ時、大草香皇子の遺児で中磯皇女の連れ子であった眉輪王(まよわのお おきみ)に、皇后の膝枕で寝ているところを刺し殺されてしまう。56歳。
兄安康天皇の死を知った大泊瀬皇子は、境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)・八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)の二人 の兄に眉輪王を討とうと持ちかけるが断られ、軍勢を率いて眉輪王を滅ぼし、二人の兄をも殺害してしまう。更に、従兄の市辺押磐 皇子 (父允恭の兄、履中天皇の子)も、滅ぼし、21代雄略天皇となる。この時、市辺押磐皇子の皇子二人は播磨の国に逃亡し、「播 磨国風土記」等に新たな物語を生むが、後に23顕宗、24代仁賢天皇として再び日本書紀に登場する。
【市辺押磐皇子】 安康天皇は生存中、市辺皇子に皇位をゆずる約束をしていたが、弟の大泊瀬皇子(雄略天皇)は、皇位につくため、市辺皇子を狩に 誘い射殺するのである。しかし雄略天皇の次の清寧(せいねい)天皇に皇子がなかったので、側近は播磨の国にいた市辺押磐皇子の 二子を探し出して皇位につけた。顕宗天皇(弟)と仁賢天皇(兄)である。 「日本書紀」を読むと、このあたりの権力抗争にまつわる展開と因縁は物語として非常におもしろい。古代皇族のなかにあって雄略 天皇、市辺押磐皇子ともにその実在性は非常に高いとされており、各地に故地、故址が残っている。とすれば、書かれている物語も その信憑性は高いと考えられる。
安康天皇は、宋書に言う倭王「興」に比定される。 倭の五王は通常以下のように比定される事が多い。 「讃」・・・履中天皇もしくは仁徳天皇 「珍」・・・反正天皇 「済」・・・允恭天皇 「興」・・・安康天皇 「武」・・・雄略天皇 この比定には異論も多いが、学会の大方の意見としては今のところこれで落ち着いているように見える。しかしそれでも、以下のよ うな説明不可能な多くの矛盾点もかかえているのである。 @.「宋書」に書かれている倭の五王の事績が事実と仮定すれば、それを日本書紀その他の日本側記録に求めても殆ど記載が無いと いう事実がある。そもそも、宋書に記録があるという事は、これらの比定された天皇達が宋に朝貢してきたからなのだが、日本側には その記事がない。また、倭の五王とされる天皇達の記紀の記事には、朝鮮半島や中国との関係を記録したものが全く無い。倭の五王達 は、多くが中国から安東将軍倭国王に任命されているが、安東将軍というのは高句麗を除く朝鮮半島のほぼ全土の統治権を任されたよ うな地位なのに、書記は全く記載していないのはあまりにもおかしい。 A.絶対年代で比定しようとしても、年代の合う天皇達が居ない。たとえば「宋書」倭国伝には「462年 済が死に、興が倭王になっ た。興が宋に遣使し、安東将軍倭国王の称号を受けた。」とあるのに、日本の記録では456年に興と比定されている安康は殺されてい る。又、讃の在位期間は26年と宋書にはあるが、履中は6年、仁徳は87年となり、讃は履中でも仁徳でも無い、という事になってしま う。 B.比定の根拠が極めて薄い。歴史学者の井上光貞氏は、「日本の歴史 ー神話から歴史へー:中央公論社刊」の中で、「雄略天皇 を武という一字で表したのは雄略天皇の名「大泊瀬幼武」の語幹に当たる武をとって武王と書いたのであろう。」と言い、「安康天 皇の名を興で表したのは、天皇名である穴穂のホを、古音でヒヨンまたはヒンと発音する興の字で表したものだ。」と言っているが、 こういう根拠で、これらの比定を成立させてよいものか。そそもそも従来説の、絶対年代、血縁関係、王名等で比定するやり方だけ で果たして「倭の五王」が判明するのか。 等々である。しかしながら、古田史学のように「九州王朝が存在し、倭の五王もこれら九州の王達の事である。」と主張するのなら ともかく、大和王朝がすでに五世紀に日本を統一した、あるいは統一しかかっていたとする立場からは、歴代の天皇達の中にこれを 探していかざるを得ないのも又事実である。だとすれば、多くの矛盾は抱えているが、一番妥当なところでこういう事にしておこう とされているのも無理からぬところかもしれない。
【穴穗御子】安康天皇 (古事記) 御子、穴穗御子、坐石上之穴穗宮、治天下也。 天皇爲伊呂弟大長谷王子而、坂本臣等之祖、根臣、遣大日下王之許、令詔者、「汝命之妹、若日下王、欲婚大長谷王子。故、可貢。」 爾大日下王四拜白之、「若疑有如此大命。故、不出外以置也。是恐、隨大命奉進。」然言以白事、其思无禮、即爲其妹之禮物、令持 押木之玉縵而貢獻。根臣、即盜取其禮物之玉縵、讒大日下王曰、「大日下王者、不受勅命曰『己妹乎、爲等族之下席』而、取横刀之 手上而怒歟。」故、天皇大怒、殺大日下王而、取持來其王之嫡妻、長田大郎女、爲皇后。 自此以後、天皇坐神牀而晝寢。爾語其后曰、「汝有所思乎。」答曰、「被天皇之敦澤、何有所思。」於是其大后先子、目弱王、是年 七歳、是王當于其時而、遊其殿下。爾天皇、不知其少王遊殿下以詔、「吾恆有所思。何者、汝之子目弱王、成人之時、知吾殺其父王 者、還爲有邪心乎。」於是所遊其殿下目弱王、聞取此言、便竊伺天皇之御寢、取其傍大刀、乃打斬其天皇之頚、逃入都夫良意富美之 家也。 天皇御年、伍拾陸歳。御陵在菅原之伏見岡也。 爾大長谷王子、當時童男。即聞此事以慷愾忿怒、乃到其兄黒日子王之許曰、「人取天皇。爲那何。」然其黒日子王、不驚而有怠緩之 心。於是大長谷王詈其兄言、「一爲天皇、一爲兄弟、何無恃心、聞殺其兄、不驚而怠乎。」即握其衿控出、拔刀打殺。亦到其兄白日 子王而、告状如前、緩亦如黒日子王、即握其衿以引率來、到小治田堀穴而隨立埋者、至埋腰時、兩目走拔而死。 亦興軍圍都夫良意美之家。爾興軍待戰、射出之矢、如葦來散。於是大長谷王、以矛爲杖、臨其内詔、「我所相言之孃子者、若有此家 乎。」爾都夫良意美、聞此詔命、自參出、解所佩兵而、八度拜白者、「先日所問賜之女子、訶良比賣者侍。亦副五處之屯宅以獻。 【所謂五村屯宅者、今葛城之五村苑人也。】然其正身、所以不參向者、自往古至今時、聞臣連隱於王宮、未聞王子隱於臣家。是以思、 賎奴意富美者、雖竭力戰、更無可勝。然恃己入坐于隨家之王子者、死而不棄。」如此白而、亦取其兵、還入以戰。爾力窮矢盡、白其 王子、「僕者手悉傷。矢亦盡。今不得戰。如何。」其王子答詔、「然者更無可爲。今殺吾。」故、以刀刺殺其王子、乃切己頚以死也。 自茲以後、淡海之佐佐紀山君之祖、名韓fukuro[冠代脚巾]白、「淡海之久多【此二字以音】綿之蚊屋野、多在猪鹿。其立足者、如荻 原、指擧角者、如枯松。」此時相率市邊之忍齒王、幸行淡海、到其野者、各異作假宮而宿。爾明旦、未日出之時、忍齒王、以平心隨 乘御馬、到立大長谷王假宮之傍而、詔其大長谷王子之御伴人、「未寤坐。早可白也。夜既曙訖。可幸kari[扁狩旁葛]庭。」乃進馬出 行。爾侍其大長谷王之御所人等白、「宇多弖物云王子。【宇多te[旁右抵]三字以音。】故、應愼。亦宜堅御身。」即衣中服甲、取佩 弓矢、乘馬出行、倏忽之間、自馬往雙、拔矢射落其忍齒王、乃亦切其身、入於馬[木宿]、與土等埋。 於是市邊王之王子等、意祁王、袁祁王【二柱】聞此亂而逃去。故、到山代苅羽井、食御粮之時、面黥老人來、奪其粮。爾其二王言、 「不惜粮。然汝者誰人。」答曰、「我者山代之猪甘也。」故、逃渡玖須婆之河、至針間國、入其國人、名志自牟之家、隱身、役於馬 甘牛甘也。 【穴穗御子(あなほのみこ)】安康天皇 御子、穴穗(あなほ)の御子、石上(いそのかみ)の穴穗の宮に坐しまして天の下治しめしき。 天皇、伊呂弟(いろど)大長谷の王子の爲に、坂本の臣等の祖、根の臣を大日下の王の許に遣わして詔らさしめくは、「汝が命の妹 (いも)、若日下(わかくさか)の王を大長谷の王子に婚(あ)わせんと欲う。故、貢(たてまつ)るべし」。爾くして大日下の王、 四たび拜(おろが)みて白さく、「若しかくの大命(おおみこと)有らんかと疑えり。故、外に出ださずして置けける也。 是れ恐 (かしこ)し。大命の隨(まにま)に奉進(たてまつ)らん」。然れども言(こと)以ちて白す事、其の禮(あや)无(な)しと思 いて、即ち其の妹の禮物(あやもの)と爲て押木(おしき)の玉縵(たまかづら)を持たしめ貢獻(たてまつ)りき。根の臣、即ち 其の禮物(あやもの)の玉縵(たまかづら)を盜み取りて大日下の王を讒(よこ)して曰く、「大日下の王は勅命(おおみこと)を 受けずして曰く、『己が妹をや、等しき族(うがら)の下席(したむしろ)と爲すや』といいて、横刀(たち)の手上(たがみ)を 取りて怒りつるか」。故、天皇、大きに怒りて大日下の王を殺して、其の王の嫡妻(むかいめ)長田の大郎女を取り持ち來て皇后 (おおきさき)と爲き。 此より以後、天皇、~牀(かむどこ)に坐しまして晝寢しき。爾くして其の后に語りて曰く、「汝は思う所有りや」。答えて曰く、 「天皇の敦(あつ)き澤(めぐみ)を被(こうむ)れば、何か思う所有らん」。ここに其の大后の先の子、目弱(まよわ)の王、 是年七歳(ななとせ)。是の王、其の時に當りて其の殿の下に遊べり。爾くして、天皇、其の少(ちいさ)き王の殿の下に遊べるを 知らずして、詔以ちて大后に言いしく、「吾は恆(つね)に思う所有り。何となれば、汝の子、目弱の王、人と成りたらん時に、吾 が其の父の王を殺ししを知らば、還りて邪しき心有らんと爲すか」。ここに其の殿の下に遊べる目弱の王、此の言を聞き取りて、便 ち竊(ひそか)に天皇の御寢せるを伺い、其の傍の大刀を取りて、乃ち其の天皇の頚を打ち斬りて、都夫良意富美(つぶらおほみ) の家に逃げ入りき。 天皇の御年は伍拾陸歳(いとせあまりむとせ)。 御陵(みささぎ)は菅原(すがはら)の伏見の岡に在り。 爾くして大長谷の王子は當時童男(おぐな)なり。即ち此の事を聞きて慷愾(うれた)み忿怒りて、乃ち其の兄K日子の王の許に到 りて曰く、「人、天皇を取りき。那何(いか)に爲ん」。然れども其のK日子の王、驚かずて怠(おこた)り緩(ゆる)える心有り。 ここに大長谷の王其の兄を詈りて言いしく、「一つには天皇と爲り、一つには兄弟(はらから)と爲るに、何か恃(たのも)しき心 も無くして、其の兄を殺すと聞きて驚かずて怠(おこた)れるや」。即ち其の衿(えり)を握(と)りて控(ひ)き出し、刀を拔き て打ち殺しき。また其の兄、白日子(しろひこ)の王に到りて、告ぐる状(かたち)前(さき)の如し。緩(ゆる)えることもまた K日子の王の如し。即ち其の衿を握り、以ちて引き率て來て、小治田(おはりだ)に到りて、穴を堀りて立て隨(なが)ら埋みしか ば、腰を埋(うず)む時に至りて、兩の目、走り拔けて死にき。 また軍(いくさ)を興して都夫良意美(つぶらおみ)の家を圍(かこ)みき。爾くして軍を興して待ち戰いて射出す矢、葦の如く來 散りき。ここに大長谷の王、矛を以ちて杖と爲し、其の内を臨みて詔らさく、「我が相言える孃子(おとめ)は、若し此の家に有る や」。爾くして都夫良意美(つぶらおみ)、此の詔らせる命(みことのり)を聞きて自ら參い出でて、佩かせる兵を解きて、八度拜 みて白さくは、「先の日に問い賜える女子、訶良比賣(からひめ)は侍らん。また五處の屯宅を副えて、以ちて獻らん【所謂(いわ ゆ)る五村(いつむら)の屯宅(みやけ)は今の葛城(かづらき)の五村(いつむら)の苑人(そのひと)也】。 然れども其の正身(ただみ)の參い向かわざるゆえは、往古より今時に至るまで、臣(おみ)・連(むらじ)が王の宮に隱れしを聞 けども、未だ王子の臣が家に隱れしを聞かず。是を以ちて思うに、賎しき奴、意富美(おうみ)は力を竭(つく)して戰うと雖ども 更に勝つ可く無けん。然れども、己(おのれ)を恃(たの)みて隨(やっこ)が家に入り坐しし王子は、死ぬとも棄(う)てじ」。 かく白して、また其の兵を取りて、還り入りて、以ちて戰いき。爾くして力窮き、矢盡きぬれば、其の王子に白さく、「僕は手悉く 傷(お)いつ。矢また盡きぬ。今は戰うを得ず。如何に」。其の王子、答えて詔らさく、「然らば更に爲す可く無し。今は吾を殺せ」 故、刀を以ちて其の王子を刺し殺し、乃ち己が頚を切りて、以ちて死にき。 茲より以後に、淡海の佐佐紀山(ささきのやま)の君の祖、名は韓(からぶくろ)、白さく、「淡海の久多(くた)【此の二字は音 を以ちてす】綿の蚊屋野(かやの)は、多(あま)た猪鹿(しし)在り。其の立てる足は荻原(うはぎはら)の如く、指し擧げたる 角は枯松(からまつ)の如し」。此の時に市邊の忍齒の王を相率て淡海に幸行して、其の野に到れば、各(おのおの)異(こと)に 假宮を作りて宿りき。 爾くして明くる旦(あした)に、未だ日も出でぬ時に、忍齒の王、平けき心を以ちて御馬に乘り隨(なが)ら、大長谷の王の假宮の 傍に到り立ちて、其の大長谷の王子の御伴人(みともひと)に詔らさく、「未だ寤(さ)めず坐す。早く白すべし。夜、既に曙(あ) け訖(おわ)りぬ。獵庭(かりには)に幸すべし」。乃ち馬を進め出で行きき。爾くして其の大長谷の王の御所(みもと)に侍る人 等の白さく、「宇多弖(うたて)物云う王子ぞ【宇(う)多(た)弖(て)の三字は音を以ちてす】。故、愼(つつし)むべし。 また御身を堅むべし」。即ち衣の中に甲を服(き)、弓矢を取り佩きて馬に乘りて出で行きて忽の間に馬より往き雙(なら)びて矢 を拔き其の忍齒の王を射落して、乃ちまた其の身を切り、馬に入れて土と等く埋みき。ここに市邊の王の王子等、意祁(おけ)の王 ・袁祁(をけ)の王【二柱】、此の亂(みだれ)を聞きて逃げ去りき。故、山代(やましろ)の苅羽井(かりはい)に到りて御粮 (みかりて)を食(は)む時に、面(おも)黥(さ)ける老人(おきな)來て、其の粮(かりて)を奪いき。爾くして其の二はしら の王の言いしく、「粮(かりて)は惜しまず。然れども汝は誰人(たれ)ぞ」。答えて曰く、「我は山代の猪甘(いかい)也」。 故、玖須婆(くすば)の河を逃げ渡りて針間(はりま)の國に至り、其の國人、名は志自牟(しじむ)の家に入りて身を隱して馬甘 (うまかい)・牛甘(うしかい)に役(えだ)ちき。