駅の前にあったこの看板を見て綏靖天皇陵から歩き出したのだが、えらい目にあった。行けども行けども安寧天皇陵が見え てこない。宮内庁書陵部の人の話だと、「ちょっと遠い」という事だったのだが相当遠かった。ゆっくり畝傍山を見ながら 歩いたが綏靖天皇陵から1時間以上かかった。車道のすぐ横にある。ここは昔から地元の人が「アネイ山」と呼んでいた事 から御陵に比定されたようである。
古事記によれば、師木県主(しきのあがたぬし)の祖の河俣毘売(かわまたびめ)を母とし、日本書紀では事代主神(こと しろぬしのかみ)の娘で綏靖天皇の皇后五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)を母とする。綏靖天皇の子で、綏靖天皇 25年に立太子し、33年に父綏靖天皇の崩御にともない即位する。この天皇の異称は「磯城津彦玉手看尊」(しきつひこ たまでみのみこと)で、都は「片塩浮孔宮」(かたしおうきあなのみや)にあったとされる。宮については大和国高市郡畝 傍北(現奈良県橿原市四条北)とする説と、堅上(大阪府柏原市)説とがある。
古事記によれば、師木県主波延(はえ)の娘阿久斗比売(あくとひめ)を、日本書紀では事代主神の孫鴨王(かもおう)の 娘、淳名底仲津媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)を皇后とし、大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)あ るいは、大倭日子鋤鋤友命(おおやまとひこすきとものみこと)という皇子をなしたと伝えられる。38年在位し、古事記 では49歳、日本書紀では57歳で崩御した。畝傍山西南の御陰井上陵(みほとのいのうえのみささぎ)に葬られた。
欠史八代と言われる天皇たちの妃の氏姓には師木県主に関わるものが多い。古事記によれば、2代綏靖天皇、3代安寧天皇、 4代懿徳天皇、また日本書紀の一書に曰く、5代孝昭天皇、6代孝安天皇、さらに書記本文には7代孝霊天皇の皇妃も磯城 県主とされている。鳥越憲三郎氏などは、神武天皇から開化天皇までを葛城王朝と見て、現在の奈良県御所市付近を葛城王 朝の地盤と見なし、初期王権が地元の有力豪族の師木県主と結びついたのだとする。記紀の内容をどこまで信用するかによ るが、何らかの史実を含んでいるのではないかとする立場に立てば、葛城王朝論は検討の余地がある。 ここから4代懿徳天皇陵へは5,6分である。近所の人に聞いても驚くことに知らない人がいた。
【師木津日子玉手見命】 安寧天皇(古事記) 師木津日子玉手見命、坐片鹽浮穴宮、治天下也。 此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女、阿久斗比賣、生御子、常根津日子伊呂泥命【自伊下三字以音】 次、大倭日子[金且]友命。次、師木津日子命。此天皇之御子等、并三柱之中、 大倭日子[金且]友命者、治天下。 次、師木津日子命之子、二王坐。 一子孫者【伊賀須知之稻置、那婆理之稻置。三野之稻置之祖】 一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮。故、此王有二女。兄名蝿伊呂泥。亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命。 弟名蝿伊呂杼也。天皇御年、肆拾玖歳。御陵在畝火山之美富登也。 【師木津日子玉手見の命(しきつひこたまてみのみこと)】 安寧天皇 師木津日子玉手見の命、片鹽(かたしお)の浮穴(うきあな)の宮に坐しまして天の下治しめしき。此の 天皇、河俣毘賣(かわまたびめ)の兄、縣主(あがたぬし)波延(はえ)の女(むすめ)、阿久斗比賣 (あくとひめ)を娶りて生みし御子は、常根津日子(とこねつひこ)伊呂泥(いろね)の命【伊より下の 三字は音を以ちてす】。 次に大倭日子友(おおやまとひこすきとも)の命。 次に師木津日子(しきつひこ)の命。此の天皇の御子 等并せて三柱の中に、大倭日子友の命は天の下治しめしき。次に師木津日子の命の子二はしらの王(みこ) 坐しましき。一はしらの子・孫(うまご)は【伊賀の須知(すち)の稻置(いなき)、那婆理(なばり) の稻置、三野(みの)の稻置の祖】。一はしらの子、和知都美(わちつみ)の命は淡道(あわじ)の御井 (みい)の宮に坐しましき。故、此の王(みこ)に二はしらの女(むすめ)有り。兄(え)の名は蝿伊呂 泥(はえいろね)、またの名は意富夜麻登久邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)の命。弟(おと)の 名は蝿伊呂杼(はえいろど)。天皇の御年は肆拾玖歳(よそとせあまりここのとせ)。御陵は畝火山の美 富登(みほと)に在り。