Music: Mr.Lonely
第81代 安徳天皇
山口県下関市 2001.8.11(土)

安徳天皇 (あんとくてんのう)
別名:言仁(ときひと)
誕生: 治承2年(1178)11月12日
立太子:治承2年(1178)12月15日
即位: 治承4年(1180)4月22日
崩御: 元暦2年(1185)3月24日(8歳)
在位期間:治承4年(1180)2月21日 〜 1185年3月24日
時代: 平安時代
父: 高倉天皇
母: 平徳子(建礼門院:太政大臣・平清盛の娘)
宮居: 福原宮(ふくはらのみや) 現兵庫県神戸市兵庫区
御陵: 阿彌陀寺陵 (あみだじりょう)
山口県下関市阿弥陀寺町
JR「下関」からバス「赤間神宮前」下車すぐ 、赤間神宮境内
高倉天皇の第一皇子。誕生の翌月親王宣下、続いて立太子を経て、治承四年2歳で即位。同年六月福原に行幸するが、11月の源平の
内乱で京都へ戻る。寿永二年、「平家追放」の檄を受けた源義仲が入京し、平家一門は安徳天皇を戴いて西へ逃走する。源氏に追
われて大宰府、讃岐国屋島などを転戦するが、寿永4年2月源氏勢の屋島攻略で海上に追われ、3月長門国壇ノ浦の戦いで平家が滅亡
したとき、清盛の妻の二位の尼(安徳の祖母)に抱かれて入水した。
「お婆さま、どこへ行くのです」 あどけない声で聞く安徳に、「この現世は陛下が生きゆくには少々荒々しい世の中にございま
す。あの波の下に、極楽浄土という都があるのです。さ、ばばと共にそこへ参りましょう」 尼は笑って、安徳を抱いて波の中へ
と消えた。
平家物語は、平家一門の最後を万感の哀愁を込めて書き記している。これが一般的な安徳天皇最後の場面としての「定説」である。

盆休みの帰省で博多へ帰る途中、「安徳天皇陵」に立ち寄った。山陽道高速道路を山口インターで降りて国道9号に入る。
インターを降りて20分ばかり行くと、関門大橋をくぐってすぐの「赤間神宮」に御陵はある。
目の前に美しい朱塗りの赤間神宮、右手に大きな関門橋が見える。安徳天皇ら平家一門が沈んだ壇ノ浦の古戦場はその
目の前に見えている。安徳天皇陵はこの赤間神宮の境内にある。

壇ノ浦を西側から見たところ。ひっきりなしに貨物船・商船が行き来する。


壇ノ浦を背にして、赤間神宮正面を見る。

平家物語の記述に反し、安徳天皇はこの戦乱を脱出し落ちのびたとする伝説・伝承が各地に残っている。
伝承の内容は各地で大きな違いがあるが、「平家の里」とか「平家谷」とか呼ばれる伝説の地は、全国に120ヶ所ほど
あるそうである。北限は岩手県の三陸海岸沿いの村、南限は鹿児島県奄美大島で、その中でも南九州と四国山脈に伝説
が多く散在している。宮崎県の山中の村「五箇の庄」などは特に有名だ。
宮内庁が指定した「安徳天皇墓陵参考地」も、「岡益の石堂」(鳥取県岩美郡国府町岡益)や「鞠ケ奈呂陵墓」(高知県)にある。
宮内庁は他にも長崎県の対馬厳原町、鹿児島県の硫黄島、山口県豊浦郡豊田町の西市御陵墓など5カ所の陵墓を参考地と
して指定しており、いかにこの「平家伝説」が全国に及んでいるかがわかる。




正式な陵墓として、ここ下関に安徳帝の御陵はあるのだが、各地に「安徳陵」が存在し、安徳天皇は生存していたという
伝説もまた広く流布している。四国の徳島県祖谷で16歳まで生きた、高知県横倉山では23歳、佐賀県山田郷では43歳、
鳥取県姫路では10歳、同県中津では17歳、鹿児島県牛根麓では13歳、同県硫黄島では64歳まで生きたと伝承は伝える。
これらの検証は今日では不可能だが、伝説地に共通するのは安徳天皇、平知盛、経盛、維盛、清経、資盛などの著名な
人間が落人となって住みついたという言い伝えで、無名の落武者が住んだという伝説はほとんどないようである。
これらの平家落人伝説は、源平の時代よりずっと後世になって、おそらく「平家物語」や「源平盛衰記」をヒントにして、
山間の村々にすむ有力者達が、自らの出自の権威付けのために、あるいは血縁共同体の結束を図って作り上げた幻想と
言える。中には実際に幾人かが逃げてきた村もあったのかもしれないが、今となっては事実確認は困難である。

安徳天皇とともに三種の神器も沈んだが、海底に沈んだ宝剣のみがついに回収できなかった。
出雲で素戔嗚尊に奪われた剣を、もともとの持ち主である「龍王」の娘が、安徳帝に化身して奪い返したという伝説もある。


板戸の隙間から陵墓の前に建てられた鳥居が見える。ここは他の多くの陵墓と異なって、裏側から陵墓を見ることができる。


正面から見た御陵全景
<安徳天皇生存説の根拠になっていると思われる出典>
○「玉葉」関白九条兼実(1149-1207)の日記
元歴2年4月4日付「旧主御事不分明」−入水していない 生死不明とある。
○「醍醐雑事記」巻題10 通称「慶延記」 「先帝不知行方人」とある。
○「吾妻鏡」 文治元年4月11日(1185)

神門(水天門)の中に立つ。ここから眼前に壇ノ浦が見える。
<身代わり伝説>
○宇佐神宮大宮司宇佐公通の子公仲が身代わりに立つ (宇佐神宮宮司による刊行本もある。)
○平有盛の7才になる娘であった。(鹿児島外史)
○大納言教房の娘説(長浜家古文書)


赤間宮本殿
境内には「平家一門の墓」もある。著名な一門の将が葬られているが、ここに埋められているわけではない。


下右は「芳一堂」。有名な「耳なし芳一」にちなんだお堂だが、もちろんあの物語は史実ではない。平家一門を哀れんだ後世人の所作だ。

この平家一門の墓から、安徳陵の塚が見える(下)。この塚の背後が御陵正面である。


<代表的な安徳天皇生存伝説の地>
○宇佐地方−宇佐神宮 安徳天皇はそのまま神官を務めて36才で崩御(自害) (宇佐家伝承の備忘録)
○鳥取県岩美郡岡益−岡益の石堂 安徳天皇10才で崩御。安徳帝因幡国古跡実記」(鳥取教善院に伝わる蔵書)
○鳥取県東伯郡三朝町小鹿村中津 安徳天皇17才で崩御。
○長崎県下県郡厳原(対馬) 補陀落山中に陵墓有。宗氏の初代宗知宗は、壇ノ浦から脱出した安徳天皇という伝承。
○高知県高岡郡横倉山 壇ノ浦から太宰府、大分を経て船で四国へと渡った。安徳天皇23才で崩御。
○鹿児島県硫黄島 長浜の浦へ上陸、黒木御所を造営 安徳天皇68才で崩御(長浜家古文書)。
○山口県豊浦郡豊田町地吉大居跡−西市御陵墓

この神社は,帝の遺体が流れ着いたという伝説をもとにしているが、建久2年(1191)に安徳天皇の慰霊の為に建立された
霊廟がもとになっているが、後これが浄土宗西山派の寺院阿弥陀寺となり、鎌倉幕府の実権を握った北条氏・室町幕府の
足利氏をはじめ諸大名の保護を受けて大きく発展する。
しかし、明治の神仏分離令によって神社に模様替えし、「安徳天皇社」と称した。さらに、明治天皇の勅定により、明治
8年(1875)地名の赤間関をとって赤間宮と改名し、更に昭和15年(1940)昭和天皇の勅定で赤間神宮という現在の名前になる。
寺から神社になるというのはいかにも日本らしいが、現在の社殿は太平洋戦争の空襲で焼けたものを昭和40年(1965)に
再建したもので、赤い社殿と緑の木々に白い石、それに青い海が美事なハーモニーを奏でていて、絵本の竜宮城のよう
にも見える。神門(水天門)などは絵本に出てくる竜宮の門にそっくりである。


関門大橋を渡って九州本土へ渡る。門司である。WIFEが「門司レトロ」を見たいというので、そっちへ廻ることにした。

安徳天皇と運命をともにするはずだった母徳子は捕らえられ京都へ護送されるが、剃髪して「建礼院門」となって、
余生の30年間を、一門の菩提を弔うことに生きた。
壇ノ浦で入水した平家の男達はみな断罪されたが、助かった女達は殆どが命を助けられている。多くは仏門に入り、
一生を、世間から隠れるようにしてすごしている。

壇ノ浦合戦場


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