Music: Night

第98代 長慶天皇陵
嵯峨東陵 2001.11.4 京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町




この天皇陵は有名な観光地、京都嵐山にあるが、ほとんど観光客のこない住宅街の中にある。

 





					【第98代 長慶(ちょうけい)天皇】
					別名: 寛成(ゆたなり/ひろなり)
					生没年:康永2年(南朝年号興国4年)(1343)〜 応永元年(1394)(52歳)
					在位: 応安元年(同正平23年)(1368)〜弘和3年(1383)
					父:  後村上天皇第1皇子
					母:  藤原氏(嘉喜門院)
					皇后: 不明
					皇子女:世泰親王、承朝、尊聖  
					皇居: 住吉行宮(すみよしのあんぐう:大阪市住吉区)、
					    吉野行宮(よしののあんぐう:奈良県吉野郡吉野町)  
					御陵: 嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ:京都府京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町)

 

 



		長慶天皇は、正平23年(1368)後村上天皇崩御の後を継ぎ即位した。後醍醐天皇、後村上天皇、そして長慶天皇と続く南朝3代目
		の天皇である。弟の4代目後亀山天皇に譲位するまで、およそ16年間在位したとされる。南朝は4代を以て終焉を迎え、後亀山天皇
		は北朝の後小松天皇に「三種の神器」を渡し、およそ60年に及ぶ南北朝時代は終わりを迎える。




		長慶天皇も父後村上天皇と同じく対北朝強硬派で、南北朝の戦乱の中にその生涯を過ごした。足利幕府の軍勢は、各地の行宮に頻繁に
		攻撃をしかけ、帝はこれに応戦し続けた。大和吉野から、河内金剛寺、大和五條の栄山寺と転戦している。弟に譲位した後は、各地の
		南朝方の武将を訪ね、南朝への協力を求めたと言われているが、その為「長慶天皇墓」と称する陵墓も全国各地に点在している。
		陸奥国(青森県)、川上村(奈良県)など20ヶ所に及ぶとも言われている。




		この帝は動乱期の天皇だと言うこともあってその生涯については謎が多く、即位についても疑義が多かった。江戸期には歴代天皇とは
		見なされていなかったが、それでも『大日本史』などは、本紀に第71代として長慶天皇を列記していた。明治を経て、大正年間に至っ
		ても即位は確認されなかったが、大正4年頃『長慶天皇御即位の研究』(八代国治著)という論文が発表され、大正15年10月21
		日付詔勅で皇統に加えられた。

		朕惟フニ長慶天皇在位ノ事蹟ハ史乗ノ紀述審ナラサルモノアリ今ヤ在廷ノ臣僚ニ命シ深究精覈セシメ
		其ノ事蹟明瞭ナルニ至レリ乃チ大統中同天皇ヲ後村上天皇ノ次ニ列ス茲ニ之ヲ宣示ス

										御 名 御 璽
										摂 政 名

										大正十五年十月二十一日

										宮内大臣 一木喜コ郎
										内閣總理大臣 若槻禮次郎


		その後宮内庁は、昭和19年になって、京都嵯峨の慶寿院跡を「長慶天皇御陵墓」と決定した。
		例によって宮内庁による詳細な調査が行われたようであるが、ここを長慶天皇陵とする確固たる証拠は見つからなかったようだ。
		結局、一番ゆかりの深いこの地が選定されたようである。この帝の著作集として、『仙源抄』『長慶院御千首』等がある。
 


		京都を追われた後醍醐天皇は、三種の神器を持って吉野に逃げ込み南朝を立てた。一方、足利尊氏は、京都で持明院統である光明天皇を
		擁立し北朝をうちたてた。これにより南北朝時代が幕開けをし、以後60年あまりにわたって南北朝対立の時代となる。しかし南朝側は
		吉野の山奥に逃れたため、ほとんど記録らしい記録が残っていない。長慶天皇の即位行為も長い間認定されなかったし、また後亀山天皇
		の生年も明らかではない。足利3代将軍足利義満によって、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡して譲位し、戦乱に
		明け暮れた南北朝時代は幕を下ろした。

 

		これ以降は皇位が継承された北朝が正統とされていたが、南朝の正統性を主張する議論は、北畠親房の「神皇正統記」以来続き、明治
		44年に明治天皇が南朝の正統を勅裁し、「南朝が正統であるが、北朝の天皇も歴代以外の天皇」とした。その根拠となったのは、皇位
		のあかしである三種の神器を南朝方が最後まで保有していた点にあると思われる。 皇室にとって、三種の神器がいかに重要なものかを
		窺わせる。

邪馬台国大研究・ホームページ /天皇陵巡り/chikuzen@inoues.net