Music: Night

第14代 仲哀天皇
2000.Oct.15 大阪府藤井寺市 恵我長野西陵






		<第14代仲哀(ちゅうあい)天皇>
		異称: 足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)
		生没年: 成務天皇7年 〜 仲哀天皇9年 52歳
		在位期間  成務天皇48+2年 〜 仲哀天皇9年
		父: 日本武尊(やまとたけるのみこと) 第二子
		母: 両道入姫(ふたじのいりひめ:垂仁天皇皇女)
		皇后: 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)
		皇子皇女: 誉田別皇子(ほむたわけのおうじ:応神天皇)、籠坂(かごさか)皇子、誉屋別(ほむやわけ)皇子
		宮: 角鹿笥飯宮(つぬげのけひのみや:敦賀)→ 徳勒津宮(ところつのみや:南海道)→ 
		   穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)→ 橿日宮(かしいのみや:筑紫)
		陵墓: 恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ:大阪府藤井寺市藤井寺)



 


		父は日本武尊(やまとたけるのみこと)。応神天皇の父で、日本書紀には仲哀天皇は容姿端麗で長身であったと記述されている。
		44才で即位。叔父である成務天皇に男子が居なかったことから、天皇崩御(成務天皇48年)の翌々年即位した。即位して2
		年目に気(息)長足姫を皇后に立て、やがて彼女が「神功皇后」と呼ばれ、夫である天皇より有名な女性となる。彼女は、女性
		として初めて紙幣に肖像画が描かれた人物でもある。或、この天皇の紹介欄には、「八幡神宮の祭神である神功皇后(じんぐう
		こうごう)の夫」とある。

 


		天皇は父日本武尊にあこがれ、父の魂は白鳥になって天に昇ったと信じ、全国から白鳥を集め、父の陵の周囲にはなして心を慰
		めようとする。各地から白鳥が献上されてきたが、宇治川のほとりで、蘆髪浦見別王(あしかみのかまみわけのみこ)が献上途
		上の白鳥を、「白鳥も焼けば国鳥じゃ」といって略奪する。報告されて激怒した天皇は兵隊を送って蘆髪浦見別王を殺害した。

 



 

		仲哀天皇2年2月、天皇は敦賀に移る。角鹿笥飯宮(つぬげのけひのみや)を造営し、淡路に屯倉(みやけ)を定めた。翌3月
		に天皇は南海道へ行幸し、徳勒津宮(ところつのみや)で各地からの朝貢を受けたが、熊襲は朝貢してこなかった。そこで熊襲
		を征伐する決意をし、敦賀から来る皇后と長門で落ち合い、穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)から筑紫の橿日宮(かしいの
		みや)を目指した。

 

 


		神功皇后は神託を告げる巫女のような役割を持っていたと考えられ、熊襲征伐の途上、「新羅を征伐せよ」との神託を受ける。
		それによれば、熊襲の土地は荒れておりわざわざ天皇が行く意味はない。それより海上の新羅は、まばゆいばかりの黄金で満ち
		あふれており、戦わずして手に入れられるばかりか、それによって熊襲も服従するであろうというものだった。神は天皇に、船
		を用意するよう告げた。
		
 


		しかし、仲哀天皇は山に登り大海原を見たがそのような国は見えないと神託を信じず、神の怒りに触れて、熊襲鎮圧途上に筑紫
		で急死した。神の怒りに触れて矢で腹を射抜かれたとか、琴を引いている時に急死したとか、武内宿禰が取りなしたとかいう話
		が伝わっているが、遺体は豊浦の地で仮埋葬され、後に藤井寺の方へ正式に埋葬されたと伝わる。

		この前後の神功皇后譚は「番外編:神功皇后」のコーナーに譲る。






		なお、この仲哀天皇と前代の成務天皇も、崇神王朝−すなわち三輪王朝が衰え、次の応神王朝に移行する間の系譜の乱れを整え
		る為に創り出された架空の天皇とする説もある。




		江戸時代には、この仲哀天皇陵は高向王(たかむこのおおきみ)の墓と言われていたようである。『河内志』によれば、江戸幕
		府が綱吉の時代に誤って比定し、錦部郡上原村の古墳を仲哀天皇陵墓としていたようだ。その後文化5年(1808年)に書かれた蒲
		生君平の『山陵志』や慶応2年(1866年)の平塚瓢齊の『聖蹟図志』で、仲哀天皇陵の錦部郡上原村説が完全に否定され、この古
		墳が仲哀天皇陵とされた。






		【帶中日子天皇】(仲哀天皇) (古事記)

		帶中日子天皇、坐穴門之豐浦宮、及筑紫訶志比宮。治天下也。
		此天皇、娶大江王之女、大中津比賣命、生御子、香坂王、忍熊王【二柱】
		又娶、息長帶比賣命、【是大后。】生御子、品夜和氣命。次、大鞆和氣命。亦名品陀和氣命【二柱】
		此太子之御名、所以負大鞆和氣命者、初所生時、如鞆宍生御腕。故、著其御名。是以知坐腹中定國也。
		其大后息長帶日賣命者、當時歸神。故、天皇坐筑紫之訶志比宮、將撃熊曾國之時、天皇控御琴而、建内宿禰大臣居於沙庭、請神之命。
		於是大后歸神、言教覺詔者、「西方有國。金銀爲本、目之炎耀、種種珍寶多在其國。吾今歸賜其國。」爾天皇答白、「登高地見西方
		者、不見國土。唯有大海。」謂爲詐神而、押退御琴不控、默坐。爾其神大忿詔、「凡茲天下者、汝非應知國。汝者向一道。」於是建
		内宿禰大臣白、「恐。我天皇。猶阿蘇婆勢其大御琴。」【自阿至勢以音】爾稍取依其御琴而、那摩那摩迩【此五字以音】控坐。故、
		未幾久而、不聞御琴之音。即擧火見者、既崩訖。爾驚懼而、坐殯宮、更取國之大奴佐而【奴佐二字以音】種種求生剥、逆剥、阿離、
		溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鷄婚、犬婚之罪類、爲國之大祓而、亦建内宿禰居於沙庭、請神之命。於是教覺之状、具如先
		日、「凡此國者、坐汝命御腹之、御子所知國者也。」爾建内宿禰白、「恐。我大神。坐其神腹之御子、何子歟。」答詔、「男子也。」
		爾具請之、「今如此言教之大神者、欲知其御名。」即答詔、「是天照大神之御心者。亦底筒男、中筒男、上筒男、三柱大神者也。
		【此時其三柱大神之御名者顯也。】今寔思求其國者、於天神地祇、亦山神及河海之諸神悉奉幣帛、我之御魂、坐于船上而、眞木灰納
		瓠、亦箸及比羅傳【此三字以音】多作、皆皆散浮大海以可度。

		故、備如教覺、整軍雙船、度幸之時、海原之魚、不問大小、悉負御船而渡。爾順風大起、御船從浪。故、其御船之波瀾、押騰新羅之
		國、既到半國。於是其國王畏惶奏言、「自今以後、隨天皇命而、爲御馬甘、毎年雙船、不乾船腹不乾■[扁舟旁右]■[扁楫旁戈]。
		共與天地、無退仕奉。」故是以新羅國者、定御馬甘。百濟國者、定渡屯家。爾以其御杖、衝立新羅國主之門、即以墨江大神之荒御魂、
		爲國守神而祭鎭、還渡也。
		故、其政未竟之間、其懷妊臨産。即爲鎭御腹、取石以纏御裳之腰而、渡筑紫國、其御子者阿禮坐。【阿禮二字以音】故、號其御子生
		地謂「宇美」也。亦所纏其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也。亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而、御食其河邊之時、當四月之上旬。爾坐
		其河中之礒、拔取御裳之糸、以飯粒爲餌釣、其河之年魚。【其河名謂小河、亦其礒名謂勝門比賣也。】故、四月上旬之時、女人拔裳
		糸、以粒爲餌、釣年魚、至于今不絶也。
		於是息長帶日賣命、於倭還上之時、因疑人心、一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之御子既崩。如此上幸之時、香坂王、忍熊王聞而、
		思將待取、進出斗賀野、爲宇氣比■[扁犬旁葛]也。爾香坂王、騰坐歴木而、是大怒猪出、堀其歴木、即咋食其香坂王。其弟忍熊王、
		不畏其態、興軍待向之時、赴喪船將攻空船。爾自其喪船下軍相戰。此時忍熊王、以難波古師部之祖、伊佐比宿禰爲將軍。太子御方者、
		以丸邇臣之祖、難波根子建振熊命爲將軍。故、追退到山代之時、還立、各不退相戰。爾建振熊命、權而令云、「息長帶日賣命者既崩
		故。無可更戰。」即絶弓絃、欺陽歸服。於是其將軍既信詐、弭弓藏兵。爾自頂髮中採出設弦、【一名云宇佐由豆留】更張追撃。故、
		逃退逢坂、對立亦戰。爾追迫敗於沙沙那美、悉斬其軍。於是其忍熊王與伊佐比宿禰、共被追迫、乘船浮海歌曰、

			伊奢阿藝 布流玖麻賀
			伊多弖淤波受波 邇本杼理能
			阿布美能宇美邇 迦豆岐勢那和

		即入海共死也。

		故、建内宿禰命、率其太子、爲將禊而、經歴淡海及若狹國之時、於高志前之角鹿、造假宮而坐。爾坐其地伊奢沙和氣大神之命、見於
		夜夢云、「以吾名欲易御子之御名。」爾言祷白之、「恐。隨命易奉。」亦其神詔、「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」故、其旦
		幸行于濱之時、毀鼻入鹿魚、既依一浦。於是御子令白于神云、「於我給御食之魚。」故、亦稱其御名號御食津大神。故、於今謂氣比
		大神也。亦其入鹿魚之鼻血■[冠自脚死]。故、號其浦謂血浦。今謂都奴賀也。於是還上坐時、其御祖息長帶日賣命、釀待酒以獻。
		爾其御祖御歌曰、

			許能美岐波 和賀美岐那良受
			久志能加美 登許余邇伊麻須
			伊波多多須 須久那美迦微能
			加牟菩岐 本岐玖琉本斯
			登余本岐 本岐母登本斯
			麻都理許斯 美岐敍
			阿佐受袁勢 佐佐

		如此歌而、獻大御酒。爾建内宿禰命、爲御子答歌曰、

			許能美岐袁 迦美祁牟比登波
			曾能都豆美 宇須邇多弖弖
			宇多比都都 迦美祁禮迦母
			麻比都都 迦美祁禮加母
			許能美岐能 美岐能
			阿夜邇宇多陀怒斯 佐佐

		此者酒樂之歌也。
		凡帶中津日子天皇之御年、伍拾貳歳。【壬戌年六月十一日崩也。】
		御陵在河内惠賀之長江也。【皇后御年一百歳崩。葬于狹城楯列陵也。】




		【帶中日子天皇(たらしなかつひこのみかど)】(仲哀天皇)

		帶中日子の天皇は穴門の豐浦の宮、及び筑紫の訶志比(かしひ)の宮に坐しまして天の下治しめしき。此の天皇、大江の王の女、
		大中津比賣(おおなかつひめ)の命を娶りて生みし御子は香坂(かぐさか)の王、忍熊(おしくま)の王【二柱】。また息長帶比
		賣(おきながたらしひめ)の命を娶りて【是は大后(おおきさき)なり】生める御子は、品夜和氣(ほむやわけ)の命。 次に大
		鞆和氣(おおともわけ)の命、またの名は品陀和氣(ほむだわけ)の命【二柱】。此の太子(ひつぎのみこ)の御名、大鞆和氣
		(おおともわけ)の命と負わせる所以は、初めて生れし時、鞆(とも)の如き宍(しし)、御腕(みただむき)に生り。 故、其
		の御名に著けき。 是を以ちて腹に坐しまして國に中りしを知りぬ。 此の御世に淡道の屯家を定めき。

		其の大后(おおきさき)息長帶日賣の命は、時に當りて~を歸(よ)せき。故、天皇、筑紫の訶志比の宮に坐しまして、將に熊曾
		の國を撃たんとする時、天皇、御琴を控きて、建内宿禰の大臣、沙庭(さにわ)に居て~の命を請いき。是に大后、~を歸せ、言
		教え覺し詔らさくは「西の方に國有り。金銀を本と爲し、目の炎耀(かがや)く種種(くさぐさ)の珍しき寶、多(さわ)に其の
		國に在り。吾、今、其の國を歸せ賜わん」。
		爾くして天皇答えて白さく「高き地に登りて西の方を見れば國土を見ず。唯だ大海のみ有り。詐(いつわり)を爲す~」と謂いて、
		御琴を押し退けて控かず默(もだ)して坐しき。
		爾くして其の~、大いに忿(いか)りて詔らさく「凡そ茲(こ)の天の下は汝の知らすべき國に非ず。汝は一道(ひとみち)に向
		え」。是に建内宿禰の大臣白さく「恐(かしこ)し。我が天皇、猶お其の大御琴阿蘇婆勢(あそばせ)【阿より勢までは音を以ち
		てす】」。爾くして稍く其の御琴を取り依せて、那摩那摩邇(なまなまに)【此の五字は音を以ちてす】控き坐しき。故、未だ幾
		久しくあらずて御琴の音を聞かず。即ち火を擧げて見れば既に崩り訖んぬ。爾くして驚き懼(おそ)れて殯(もがり)の宮に坐し
		て更に國の大佐(ぬさ)を取りて【奴佐の二字は音を以ちてす】、生剥(いけはぎ)・逆剥(さかはぎ)・阿離(あはなち)・溝
		埋(みぞうめ)・屎戸(くそへ)・上通下通婚(おやくくなぎ)・馬婚(うまくなぎ)・牛婚(うしくなぎ)・鷄婚(とりくなぎ)
		・犬婚(いぬくなぎ)の罪の類を種種(くさぐさ)に求(ま)ぎて、國の大祓(おおはらえ)を爲て、また建内宿禰、沙庭に居て
		~の命(みことのり)を請いき。是に教え覺えし状(かたち)は具(つぶさ)に先の日の如く「凡そ此の國は 汝命の御腹に坐し
		ます御子の知らす國也」。爾くして建内宿禰白さく「恐し我が大~。 其の~の腹に坐します御子は何れの子か」。答えて詔らさ
		く「男子(おのこご)也」。爾くして具(つぶさ)に請いしく「今、如此(かく)言教えし大~は、其の御名を知らんと欲す」。
		即ち答えて詔らさく「是は天照大~の御心。また底筒男(そこつつのお)・中筒男(なかつつのお)・上筒男(うわつつのお)の
		三柱の大~ぞ【此の時、其の三柱の大~の御名は顯(あら)わるる也】。今、寔(まこと)に其の國を求めんと思わば、天~(あ
		まつかみ)・地祇(くにつかみ)、また山の~、及び河海の諸の~に悉く幣帛(みてぐら)を奉り、我が御魂を船の上に坐せて、
		眞木の灰を瓠(ひさご)に納め、また箸及び比羅傳(ひらで)【此の三字は音を以ちてす】を多(さわ)に作り、皆皆大海に散り
		浮かべて度る可し」。

		故、備(つぶさ)に教え覺しし如く軍を整え船を雙べて度り幸しし時、海原の魚、大き小さきを問わず悉く御船を負いて渡りき。
		爾くして順風大いに起こり、御船は浪に從いき。故、其の御船の波瀾は新羅の國に押し騰がり、既に國の半に到りき。是に其の國
		王(こにきし)、畏れ惶みて奏して言いしく「今より以後は天皇の命の隨に、御馬甘(みまかい)と爲て、年毎に船を雙べて、船
		腹乾さず、(さお)楫(かじ)乾さず、天地の共與(むた)、退(や)むこと無く仕え奉らん」。故、是を以ちて新羅の國は御馬
		甘と定め、百濟の國は渡の屯家と定めき。 爾くして其の御杖を以ちて新羅の國主の門に衝き立て、即ち墨江の大~の荒御魂を以
		ちて國守ります~と爲て、祭り鎭めて還り渡りき。
		故、其の政(まつりごと)を未だ竟(お)えざりし間に、其の懷妊産むに臨み、即ち御腹を鎭めんと爲して石を取り以ちて御裳の
		腰に纏きて、筑紫の國に渡り、其の御子は阿禮(あれ)坐しき【阿禮の二字は音を以ちてす】。故、其の御子の生れし地を號けて
		宇美(うみ)と謂う也。また其の御裳に纏きし石は筑紫の國の伊斗(いと)の村に在り。また筑紫の末羅(まつら)の縣の玉嶌
		(たましま)の里に到り坐して、其の河邊に御食(みおし)しし時、當に四月(うづき)の上旬(はじめ)なりき。爾くして其の
		河中の磯に坐して御裳の糸を拔き取り、飯粒(いいぼ)を以ちて餌と爲し、其の河の年魚(あゆ)【其の河の名を小河と謂う。ま
		た其の磯の名を勝門比賣(かちどひめ)と謂う】を釣りき。故、四月(うつき)の上旬(はじめ)の時、女人(おみな)裳の糸を
		拔き、粒(いいぼ)を以ちて餌と爲し、年魚(あゆ)を釣ること今に至るまで絶えず。

		是に息長帶日賣の命、倭に還り上りし時に人の心疑わしきに因りて、喪船を一つ具えて、御子を其の喪船に載せ、先ず「御子は既
		に崩(かむざ)りぬ」と言い漏(もら)さしめき。如此(かく)上り幸でます時に、香坂(かごさか)の王・忍熊(おしくま)の
		王聞て、將に待ち取らんと思いて斗賀野(とがの)に進み出でて宇氣比獵(うけひがり)爲しき。 爾くして香坂の王、歴木(く
		ぬぎ)に騰り坐しまして是(み)るに大いなる怒り猪(い)出でて、其の歴木を堀りて、即ち其の香坂の王を咋い食みき。 其の
		弟、忍熊の王、其の態(わざ)を畏(かしこ)まずて軍を興して待ち向えし時に、喪船に赴きて空船を攻めんとしき。爾くして其
		の喪船より軍を下して相戰いき。此の時忍熊の王、難波(なには)の古師部(こしべ)の祖、伊佐比(いざひ)の宿禰を將軍(い
		くさのきみ)と爲し、太子(ひつぎのみこ)の御方は丸邇(わに)の臣の祖、難波根子建振熊(なにはねこたけふるくま)の命を
		以ちて將軍(いくさのかみ)と爲しき。故、追い退けて山代に到りし時、還り立ちて各(おのおの)退かずて相い戰いき。爾くし
		て建振熊の命、權(たばか)り云わしめて「息長帶日賣の命は既に崩りぬ。故、更に戰う可き無し」。即ち弓絃(ゆづる)を絶ち
		て欺陽(いつわ)りて歸服(まつろ)いぬ。是に其の將軍、既に詐りを信(う)けて、弓を弭(はづ)し兵(つわもの)を藏(お
		さ)めき。 爾くして頂髮(たふさぎ)の中より設(ま)けし弦【一の名を宇佐由豆留(うさゆづる)と云う】を採り出し更に張
		りて追い撃ちき。 故、逢坂(あふさか)に逃げ退きて、對(むか)い立ちてまた戰いき。爾くして追い迫(せ)めて沙沙那美
		(ささなみ)に敗り悉く其の軍(いくさ)を斬りき。是に其の忍熊の王と伊佐比の宿禰、共に追い迫めらえて、船に乘り海に浮び
		歌いて曰く

			伊(い)奢(ざ)阿(あ)藝(ぎ)
 			布(ふ)流(る)玖(く)麻(ま)賀(が)
 			伊(い)多(た)弖(て)淤(お)波(は)受(ず)波(は)
 			邇(に)本(ほ)杼(ど)理(り)能(の)
 			阿(あ)布(ふ)美(み)能(の)宇(う)美(み)邇(に)
 			迦(か)豆(づ)岐(き)勢(せ)那(な)和(わ)

			いざ吾君
 			振熊が
 			痛手負はずは
 			鳰鳥の
 			淡海の海に
 			潜きせなわ
 
 		即ち海に入りて共に死にき。
		故、建内宿禰の命、其の太子(ひつぎのみこ)を率(い)てを禊(みそぎ)せんと爲て、淡海及び若狹の國を經歴(へ)し時に、
		高志(こし)の前(みちのくち)の角鹿(つぬが)に假宮を造りて坐しき。 爾くして其の地に坐しましす伊奢沙和氣(いざさわ
		け)の大~の命、於夜の夢に見えて云いしく、「吾が名を以ちて御子の御名に易えんと欲(おも)う」。爾くして言祷(ことほ)
		ぎて白さく、「恐(かしこ)し。命(もことのり)の隨(まにま)に易(か)え奉(まつ)らん」。また其の~詔らさく「明日の
		旦(あした)に、濱に幸(いでま)すべし。名を易うる幣(まい)、獻(たてまつ)るべし」。故、其の旦に濱に幸行(いでま)
		しし時に、鼻を毀(こぼ)せし入鹿魚(いるか)、既に一浦に依(よ)りき。是に御子、~に白さしめて云いしく、「我に御食
		(みけ)の魚を給えり」。故、また其の御名を稱(たた)えて御食津(みけつ)の大~と號(なづ)けき。故、今に氣比(けひ)
		の大~と謂う。また其の入鹿魚の鼻の血、■(くさ)し。故、其の浦を號けて血浦(ちうら)と謂う。今に都奴賀(つぬが)と謂
		う。
		是に還り上り坐しし時に、其の御祖(みおや)、息長帶日賣の命、待酒(まちざけ)を釀(か)みて以ちて獻(たてまつ)りき。
		爾くして其の御祖の御歌に曰く

			許(こ)能(の)美(み)岐(き)波(は)
 			和(わ)賀(が)美(み)岐(き)那(な)良(ら)受(ず)
 			久(く)志(し)能(の)加(か)美(み)
 			登(と)許(こ)余(よ)邇(に)伊(い)麻(ま)須(す)
 			伊(い)波(は)多(た)多(た)須(す)
 			須(す)久(く)那(な)美(み)迦(か)微(み)能(の)
 			加(か)牟(む)菩(ほ)岐(き)
 			本(ほ)岐(き)玖(く)琉(る)本(ほ)斯(し)
 			登(と)余(よ)本(ほ)岐(き)
 			本(ほ)岐(き)母(も)登(と)本(ほ)斯(し)
 			麻(ま)都(つ)理(り)許(こ)斯(し)
 			美(み)岐(き)敍(ぞ)
 			阿(あ)佐(さ)受(ず)袁(お)勢(せ)
 			佐(さ)佐(さ) 

			この御酒は
 			わが御酒ならず
 			酒の司
 			常世に坐す
 			石立たす
 			少御~の
 			~壽き
 			壽き狂し
 			豊壽ぎ
 			壽き廻し
 			奉り来し
 			御酒ぞ
 			飽さず食せ
 			ささ
 
 		如此(かく)歌いて大御酒(おおみき)獻りき。 爾くして建内宿禰の命、御子の爲に答えて歌いて曰く

			許(こ)能(の)美(み)岐(き)袁(を)
 			迦(か)美(み)祁(け)牟(む)比(ひ)登(と)波(は)
 			曾(そ)能(の)都(つ)豆(づ)美(み)
 			宇(う)須(す)邇(に)多(た)弖(て)弖(て)
 			宇(う)多(た)比(ひ)都(つ)都(つ)
 			迦(か)美(み)祁(け)禮(れ)迦(か)母(も)
 			麻(ま)比(ひ)都(つ)都(つ)
 			迦(か)美(み)祁(け)禮(れ)加(か)母(も)
 			許(こ)能(の)美(み)岐(き)能(の)
 			美(み)岐(き)能(の)
 			阿(あ)夜(や)邇(に)宇(う)多(た)陀(だ)怒(の)斯(し)
 			佐(さ)佐(さ)

			この御酒を
 			釀みけむ人は
 			その鼓
 			臼に立てて
 			歌ひつつ
 			釀みけれかも
 			舞ひつつ
 			釀みけれかも
 			この御酒の
 			御酒の
 			あやにうた楽し
 			ささ
 
 		此は酒樂(さかくら)の歌也。
		凡そ帶中津日子の天皇の御年は伍拾貳歳(いそぢまりふたとせ)【壬戌(みづのえいぬ)の年の六月(みなづき)十一日(とおか
		あまりひとひ)に崩(かむざ)りき】。
		御陵は河内の惠賀(えが)の長江(ながえ)に在り【皇后(おおきさき)の御年は一百歳(ももとせ)にして崩りき。狭城(さき)
		の楯列(たたなみ)の陵(みささぎ)に葬りき】。


邪馬台国大研究・ホームページ /天皇陵巡り/ 仲哀天皇