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第64代円融天皇
2001.11.10(土) 京都市右京区宇多野福王子町






					第64代 円融(えんゆう)天皇
					別名: 守平(もりひら)・覚如(かくにょ)
					生誕−崩御: 天徳3年(959)〜正暦2年(991) 33才
					在位期間: 安和2年(969)〜永観2年(984)
					父:  村上天皇 第五子  
					母:  藤原安子(師輔の娘)
					皇后: 藤原遵子
					皇妃: 藤原詮子、尊子内親王 
					皇子女:懐仁親王(一条天皇) 
					皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)  
					陵墓: 後村上陵(のちのむらかみのみささぎ:京都府京都市右京区宇多野福王子町)




		京福電鉄「鳴滝」か「高雄口」駅でおりて北へ歩くと「福王子」の交差点に出る。その角に「福王子神社」がある。
		神社の左側の道をまっすぐ北に向かって歩いていくと、「宇多野小学校」手前の、車道左側に御陵がある。
		この道をさらにまっすぐ行くと、5,6分で第62代村上天皇陵につきあたる。

		村上帝の第五皇子。同母兄冷泉の譲位により11才で即位した帝も、例に漏れず藤原一族の傀儡であった。実権を握っていた藤原氏
		の内紛に巻き込まれ、永観二年(984)花山天皇に譲位した。譲位後、朱雀院上皇と称され、寛和元年(985)出家。正暦二
		年(991)円融寺で崩御した。  

 


		冷泉帝即位時に、兄為平親王をとびこして守平親王(円融)が皇太弟に立てられたのは、源高明─為平親王ラインを警戒する藤原
		氏の意向によるものであるとされている。また「安和の変」で、藤原氏による他氏排斥が終了した後は、当の藤原家が内紛を繰り
		返していたため(師輔の子のうち、藤原経邦の娘盛子を母とする伊尹・兼通・兼家兄弟が栄達したが、兼通・兼家は摂政の座を巡
		って争う。)、帝は次第に政治から遠ざかるようになった。




		帝は、自由に実子と会うことも出来ない環境に嫌気が差し、26才で譲位。そして上皇となって出家。7年後の33才の時崩御し
		ている。



		円融天皇は、正暦2年(991)に円融寺において崩御し、同寺の北原で火葬され、遺骨は村上陵の傍らに葬られた。陵は長らく所在
		不明だったが、明治22年(1889)に、村上天皇陵とともに考定・修築された。現陵は長径14m、短径12.5mの円墳をなし
		ている。火葬塚は円融寺の旧跡である京都市右京区竜安寺朱山の竜安寺裏山にある。


第64代 円融天皇(えんゆうてんのう)火葬塚
京都市右京区竜安寺朱山の竜安寺裏山にある。立命館大学の裏山。時々学生のカップルがいる。

 

 



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