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第43代 元明天皇
2000.Oct.22 奈保山東陵






		【第43代元明(げんめい)天皇】
		異名: 阿閉(あへ)皇女、
			日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)
		生没年: 斉明天皇7年(661) 〜 養老(ようろう)5年(721)(61歳)
		在位: 慶雲4年(707) 〜 霊亀元年(715)
		父:  天智天皇 第4皇女
		母:  姪娘(めいのいらつめ:蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の娘)
		夫:  草壁皇太子(天武・持統天皇の子)
		皇子女: 軽皇子(文武天皇)、氷高皇女(元正天皇)、吉備内親王	 
		皇宮: 平城京(へいじょうきょう:奈良市)  
		御陵: 奈保山東陵(なほやまひがしのみささぎ:奈良市奈良坂町)


 


		近鉄奈良駅からバスに乗って(乗り場は通常のバス乗り場からは一寸離れている)、「奈保山御陵」で降りる。15分ほど。
		道路を挟み、進行方向に向かって右側が「元明天皇陵」左が「元正天皇陵」である。母娘は仲良く並んで眠っている。


「元明天皇陵」の前は団地が造成されていて、ダンプがひっきりなしに通る。晴れていたら埃がすごい。


		天智天皇の子で、母は蘇我倉山田石川麻呂の女、姪娘(めいのいらつめ)。天武・持統天皇の実子で、持統天皇が大津皇子
		(おおつのみこ)を殺してでも皇位につけたかった皇子の草壁皇太子に嫁いだ。草壁皇子との間に軽皇子(文武天皇)と氷
		高皇女(元正天皇)、吉備皇女をもうけている。実子の、第42代文武天皇が慶雲4年(707)25才で崩御したため、女帝とし
		て即位。慶雲3年(706)文武天皇は病床から母に即位を求めたが、天皇はこれを固辞した。しかし翌年文武天皇の崩御に伴
		い、やむなく即位したとされる。
		文武の一子は、当時7才の首皇子(聖武天皇)で、成長するまでの中継ぎとして即位したようだ。当時天武天皇の遺児も存
		在し、また高市皇子の子であった長屋王なども皇位継承の有力候補として存在したが、元明天皇は、父天智天皇の定めた不
		改常典に従って皇位を継承する事を強く訴え、嫡系相承の正統性を主張した。
 


		この天皇の治世は、奈良時代の代表的な施策が実施された時期でもあった。蓄銭叙位令(711年)、古事記の撰上(712年)、
		風土記の編纂(713年)郷里制の実施(715年)などを行った。

 


		慶雲5年(708)、武蔵国秩父郡から銅が献上され、富本銭の出現で危うくなったが、以前は我が国最初の貨幣とされていた
		「和同開珎」を鋳造する。またそれを契機に年号も和銅と改元した。その頃遷都の機運が高まったが、天皇は消極的だった。
		しかし重臣達は宮室の拡充を図り、政権の安定をめざすため遷都の必要性を訴えたので、天皇は衆議を重んじ、和銅3年
		(710年)平城京への遷都が実施された。この時、左大臣石上朝臣麻呂(いしかわのあそんまろ)が藤原京の留守居役となっ
		た事から、藤原不比等(ふじわらのふひと)が新都における実質的な実力者となった。




		和銅5年(712)正月の詔に、「諸国から(荷役に)かり出されて都へ来た者達が故郷へ帰るとき、食料が無くなって路端で
		行き倒れになったりしているので、諸国の国司達はよく民を慈しみ、物品を与えるように。」とあるところを見ると、国内
		の疲弊や疫病の流行などが相当ひどく、これらの世情不安が遷都の背景にもあるものと思われる。同年5月の詔には、「律
		令が制定されて久しいが、まだ内容に習熟していないものも多く、間違いが多い。」との指摘もある。この年に太安万侶に
		よる古事記の撰上も行われている。霊亀元年(715年)、天皇は老いと疲労のため、娘の氷高内親王(元正天皇)に譲位した。
		皇太子首皇子(聖武天皇)は未だ幼く、再び中継ぎの天皇が即位したのである。天皇は養老5年(721)年12月に崩御し、
		奈保山東陵(なほやまひがしのみささぎ)に葬られた。








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