【第44代元正(げんしょう)天皇】 異名: 氷高(ひたか)皇女、 日本根子高端浄足姫天皇(やまとねこたかみずきよたらしひめのすめらみこと) 生没年: 天武天皇9年(680) 〜 天平20年(748)(68歳) 在位: 霊亀元年(715) 〜 神亀元年(724) 父: 草壁皇子(天武・持統天皇の子) 母: 阿閉皇女(元明天皇) 夫: なし 皇子女: なし 皇宮: 平城京(へいじょうきょう:奈良市) 御陵: 奈保山西陵(なほやまにしのみささぎ:奈良市奈良坂町)
元明女帝の子で、第42代文武天皇の姉。生涯独身だったと伝えられる。弟文武の遺児首皇子(聖武天皇)の成長まで中継ぎと して皇位についた。この天皇の治世は、平城京の造営整備も進み、律令制中央政権国家の基盤も次第に固まりつつあった時期で、 藤原不比等主導の元、律令制の整備が図られた。
霊亀3年、天皇は美濃国不破の行宮に赴き、多度山(たどさん)の温泉に浸かってその効能に感心して、その年11月に霊亀を 養老と改元した。養老年間、藤原不比等に命じて律令を改定し、今日「養老律令」として知られている。 養老4年(720)、舎人親王らによって「日本紀」が撰上されるが、同じ年の3月隼人が反乱し9月には蝦夷も叛き、律令制の貫徹 も揺らぎ始めた頃、8月に不比等も逝去する。
不比等後の政治の実権を握ったのが長屋王である。彼は養老6年に「墾田百万町歩開墾計画」を実施するが効果は上がらず、翌年、 律令制国家の基盤である「公地公民」を自ら崩壊させる「三世一身法」(さんぜいっしんのほう)を実施してしまう。律令制崩壊 の端緒となる養老8年(724)、元正女帝は甥の首皇子に譲位する。首皇子は即位して聖武天皇となった。 天皇は、天平20年(748)、68歳で崩御し奈保山西陵(なほやまにしのみささぎ)に葬られた。
御陵を裏側(道路側)からみたところ。ここにバス停(奈保山御陵。ドリームランドの次の次。)がある。こちら側から見ても御 陵とはわからなかったので、あちこちずいぶん探して又ここへ戻ってきた。